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第三章 信心とおかげ

第一節 信心

1 信心

90.今、天地の開ける音を聞いて、目を覚ませ。

91.日に日に生きることが信心である。

92.しんじんとは、信の心ではない。金光大神は、しんじんを神人と書く。

93.信心をせよ。信心とは、しんはわが心、じんは神である。わが心が神に向かうのを信心という。恩徳の中にいても、人間に信がなければ、おかげはない。

94.信心して神になることを金光大神が教えてやる

95.天地金乃神は天地を一目に見とおし、守っておられる。人間は神の氏子、神のおかげを身いっぱいに受けるように、この身この心を神に向けて信心せよ。何事も無礼と思わないで一心に取りすがっていけば、おかげが受けられる。枯れ木にも花が咲くし、ない命もつないでいただける。わが身におかげを受けて、難儀な人を助けてあげよ。

96.人間が神と仲よくする信心である。神を恐れるようにすると信心にならない。神に近寄るようにせよ。

97.信心はたやすいものであるが、みな人間からむずかしくする。三年、五年の信心では、まだ迷いやすい。十年の信心が続いたら、われながら喜んで、わが心をまつれ。日は年月のはじまりであるから、その日その日のおかげを受けていけば立ち行くことができる。たやすく信心をせよ。

98.何事もくぎづけではない。信心もめいめいにしていなければ長く続かない。

99.信心に連れはいらない。ひとり信心せよ。信心に連れがいれば、死ぬにも連れがいるであろう。

100.信心は日々の改まりが第一である。毎日、元日の心で暮らし、日が暮れたら大晦日と思い、夜が明けたら元日と思って、日々うれしく暮らせば家庭に不和はない。

101.生きている間は修行中である。

102.的なしの信心を授けておく。一心を定めて、いただくがよい。おかげは受け勝ち、守りは受け得。おかげを受けたら、ご恩を忘れてはならない。

103.信心するという心におかげはない。信心させていただくという心におかげがある。

104.神を信じる者は、何をするにしても遊ばせていただくのである。広前の奉仕で遊ばせていただき、商売でも農業でも遊ばせていただいているのである。みな天地の間にうれしく、ありがたく遊ばせていただいているのである。


第三章 信心とおかげ

第一節 信心

2 わが心

105.信心は本心の玉を磨くものである。

106.玉磨かざれば光なし、光なければ石かわらのごとし、と言われているが、信心する者は本心の玉を磨かなければならない。鉄でも磨けば銀のように見える。金銀も磨かなければ光らない。人間は万物の霊長であるから、本心の玉を磨いて、何事にも心がけをよくしなければ、自分は信心していると思っていても、人はそう見て敬ってはくれない。それは、身勝手な信心というほかない。

107.真の道をいく人は、肉眼をおいて心眼を開けよ。

108.わが心でわが身を生かすこともあり、殺すこともある。

109.おかげを受けられるか受けられないかは、わが心にある。わが心さえ改めれば、いくらでもおかげは受けられる。

110.信心は大きい信心がよい。

111.心は広く持っておれ。世界は広く考えておれ。世界はわが心にある。

112.信心する者が、喜ばない、つらい顔をして日を過ごしてはならない。天地の親神を信心するのであるから、天地のような広い心にならなければならない。

113.「今月今日で一心に頼めい おかげは和賀心にあり」という見識を落としたら世が乱れる。神のひれいもない。親のひれいもない。

114.父も私も気性が荒く、いつも意見が合わなかった。その時も何かのことで争い、参拝したところ、金光様は天地書附をくださり、「おかげは和賀心にあり」について、 「和はやわらぐで、賀は祝賀の賀である」 とご理解をしてくださった。

115.信心する人は何事にも真心になれよ。

116.手や口は手水鉢で洗っても、性根は何で洗うのか。実意丁寧の真でなければ洗えまい。

117.拝めとも何をせよとも言わない。ただ一つ真の信心をせよと言うのに、その一つができないのか。

118.心配りする心で信心をせよ。


第三章 信心とおかげ

第一節 信心

3 信心の成長

119.信心も手習いも同じこと、一段一段進んでいくのである。にわかに先生にはなれない。

120.何事でも、千日の辛抱をしなければ一とおりの修行は積めない。信心も、千日の信心が続けば、だいぶありがたくなる。しかし、おかげを落とす者ができだすのも、このころからである。信心は、一年一年ありがたくなってくるのでなければ本当ではない。

121.信心は、年をとるほど位がつくものである。信心をすれば一年一年ありがたくなってくる。

122.神を信じる者は多いが、神に信じられる者が少ない。

123.神を使って、神に使われることを知らない。


第三章 信心とおかげ

第一節 信心

4 信心と道徳

124.昔から、あの人は神様のような人である、仏様のような人である、人に悪いことをしない正直者であると言われる者でも、だんだん不幸なことが重なったりして、どういうわけであろうかというが、みな、神に無礼粗末があるからである。いくら人に悪いことをしない正直者でも、信心しなければ神には無礼粗末になる。人がよいのと神への無礼とは、また別ものである。信心しなければ、いくら善人でもおかげにはならない。

125.どんなによい料理屋が隣にあっても、その料理屋のごちそうを食べたことのない人は味を知らない。料理屋のごちそうは食べなくてもよいが、金光大神が話している天地金乃神のおかげは、受けないわけにはいかない。 また、多くの人の中には、私は天地金乃神を拝まないがそれでもさしつかえはない、と言う人もある。これは恩を受けて恩知らずというものである。

126.物事のわからない無茶な者でも、信心していると、打って変わってよくなってくる。それというのは、信心すれば物の道理を聞かされ、道理をわきまえてくるからである。神の道に入れば、ひとりでに人の道を踏むようになるが、人の道をわきまえていると言う者の中には、神の道をわきまえない者がある。

127.大正直の人と悪心の人は、よくおかげをいただく。中くらいの人は熱心さがうすく、おかげが少ない。