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第一章 神と人間

第五節 生と死

55.生きている間も死んだ後も天と地はわが住みかである。生きても死んでも天地のお世話になることを悟れ。

56.お天道様のお照らしなさるのもおかげ、雨の降られるのもおかげである。人間はみな、おかげの中に生かされて生きている。人間は、おかげの中に生まれ、おかげの中で生活をし、おかげの中に死んでいくのである。

57.生きている時だけ天地金乃神のお世話になるように思っている者もあるが、死んでもお世話にならなければならない。魂は神からお下げくださったものであるから、天からお暇が出たら、また神のおひざもとに納まり、体は地から生じたものであるから、地に納まってお世話にならなければならない。

58.神のおかげで生まれてきた人間であるから、死ぬのも神のおかげでなくて死ねるものか。そうであるから、生まれたのがめでたいなら、死んで神になるのは、なおのことめでたいではないか。死ぬのがつらいと言うのは、まだ、死ぬのをいとわないだけの安心ができていないからである。信心して、早く安心のおかげを受けておかなければならない。神のお計らいでは、いついくかも知れないのに、その際のうろたえ信心では間に合わない。平生から、まさかの折にうろたえないだけの信心をしておかなければならない。

59.みな、神の分け御霊を授けてもらい、肉体を与えてもらって、この世へ生まれて来ているのである。そうしてみれば、この世を去るのに苦痛難儀をするのは、人間の心からのことである。神からお授けくださった体がこの世を去る時、痛いかゆいがないよう、ただ年病みのゆえというように長生きをし、孫子まで見て、安心して死ぬのが、神の分け御霊をいただいている者のすることである。 金光大神の教えを守れば、末を楽しみ、安心してこの世を去ることができるから、若い時に信心して元気に働いておいて、そのようなおかげを受けるがよい。

60.死ぬ用意をするな。生きる用意をせよ。死んだら土になるのみ。

61.寿命のない者にも寿命をお授けくださる。それなのに、中には、死ねばくつろげるのにお迎えが来ないなどと、わが身から覚悟をし、命を縮めるようなことを言う。愚かなことではないか。死ななければくつろげないくらいの人なら、死後も安楽はおぼつかない。

62.金光様に、「世間では、死んだ後に地獄へ行くとか極楽へ行くとか、いろいろに申しますが、いったい、人間は死んだ後どこへ行くのでしょうか」とお伺いしたら、 「金光大神もまだ修行中で、死んだ後のことまではわからないが、この世に生きて働いている間に、日々安心して正しい道さえ踏んでいれば、死んだ後のことは心配をしなくてもよい」 と仰せられた。

63.「金光様、宗教がたくさんあっていろいろの教えがありますが、死んだら、魂はいろいろに分かれるのでしょうか」と伺った。金光様は、 「そういうことはありはしない。死んだ者の魂は、天地の間にふうふうと、ぶゆが飛ぶように遊んでいるので、どこへ行くものでもない。わが家の内の霊舎にいるし、わが墓所に体をうずめていることからすれば、墓所と霊舎とで遊んでいるのである。 この世で生きている間に、人に悪いことをしたり、神のみ心にかなわないことをしたりすると、死んでからでも、魂は神のおとがめを受けるのである」 と仰せられた。

64.先祖代々からのご無礼があっても、食べる物の初穂を供えて、お断りを言えば許してくださる。道の立たない御霊でも、願えば道を立ててくださる。何事も失態のないように、成就するようにと、天地金乃神にすがればよい。

65.死ぬというのは、みな神のもとへ帰るのである。魂は生き通しであるが、体は死ぬ。体は地から生じて、もとの地に帰るが、魂は天から授けられて、また天へ帰るのである。死ぬというのは、魂と体とが分かれることである。

66.金光大神が、 「死ぬことはどういうものでありましょうか」 と神におたずねしたところ、 「死ぬのは寝入っているのと同様である。死ぬことをいとうな」 と仰せられた。

67.若死にをすると、みな嘆いて心を苦しめるが、稲にも、早稲、中手、晩稲とあるようなもので、早く死んでも、子供ができてから死ぬのは、早稲のようなものである。まだ子のないのに死ぬのは、実らない白穂になったのと同じである。 死ぬということは、もみを臼でひいた時、殻と実とが分かれるようなものである。時が来れば魂と体とが分かれるのである。

68.人間は生き通しが大切である。生き通しとは、死んでから後、人が拝んでくれるようになることである。

69.人間は万物の霊長であるから、死んだ後、神にまつられ、神になることを楽しみに信心せよ。

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