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第一章 神と人間

第四節 人間

39.天地金乃神はこの世の親神であるから、天地金乃神に信心しているといっても、していないといっても、天地の間に生きているからには、天地金乃神の子に変わりはない。

40.天が下の者はみな、神の氏子である。天が下に他人はない。

41.人の身が大事か、わが身が大事か。人もわが身もみな人である。

42.疑いを放して広い真の大道を知れよ。わが身は神徳の中に生かされている。

43.牛は人間とは違い、寒い時でも寒さの用意もしないで、毛があるだけで、冬の寒中かぜもひかない。これは飼っている人間の力におよばない。鶏も山の鳥類、獣も同様である。みな、神がお守りくださっていることを悟るのが人間である。

44.人間は小天地で、自分の頭をいつも神がお守りくだされているから、自分の体を思うように使えるのである。

45.人間はみな天地金乃神から人体を受け、御霊を分けていただき、日々天地の調えてくださる食物をいただいて命をつないでいる。昔から、天は父、地は母というであろう。天地金乃神は人間の親である。信心をする者は、一生死なない父母に巡り会い、おかげを受けていくのである。

46.これまでは懐妊中の事柄を教えた者がないため、種々のことに迷っている。人間は何のおかげでできるのか。母の胎内に宿り、妊娠したというのは、神が御霊を授けてくださった時である。この御霊は、医師が腹を開いて、これが御霊であると言って人に見せることはできない。人間の目に見えない神から、肉眼で見ることのできない御霊をお授けくださるということは、ありがたいことである。 人間の肉体は、母親が好きな物を食べ、血の増えるのをもとにして、一人の体が造られ、十月前後で出産して、男子である、女子であると言う。懐妊中、神のお恵みでお造りくださるのである。

47.夫婦は他人の寄り合いである。仲よくすれば一代安心に暮らせる。夫婦げんかをしても、後から心が折り合う時、よく考えてみるとわけがわかる。この事柄を自分でわかるということは、神からお与えくだされた御霊が、体の司だからである。

48.神も人も同じこと。いくら神を拝んでも、人の心にかなわなければ神の心にもかなわない。神の心にかなわなければ人の心にもかなわない。

49.人が人を助けるのが人間である。人間は、子供がころんでいるのを見て、すぐに起こしてやり、また水に落ちているのを見て、すぐに引き上げてやることができる。人間は万物の霊長であるから、自分の思うように働き、人を助けることができるのは、ありがたいことではないか。 牛馬その他の動物は、わが子が水に落ちていても引き上げることはできない。人間が見ると、助けてやれる。牛馬や犬猫の痛い時に人間が介抱して助けてやることは、だれでもあろう。人間は病苦災難の時、神や人に助けてもらうのであるから、人の難儀を助けるのが人間であると心得て信心をせよ。

50.わが身はわが自由にならないものである。

51.障子一重がままならない人の身である。

52.人間を軽く見るな。軽く見たらおかげはない。

53.どの宗教を信じていてもくさすことはない。みな、天地金乃神のいとし子である。あれこれと宗教が分かれているのは、たとえば同じ親が産んでも、大工になる子もあり左官になる子もあり、ばくちを打つ子もあり、商売好きな子もあるというようなものである。宗教が分かれているといっても、人はみな神の子で、それぞれに分かれているのである。そばの好きな者や、うどんの好きな者があり、私はこれが好きだ、わしはこれが好きだと言って、みな好き好きで成り立っているのであるから、くさすことはない。

54.人のことをそしる者がある。神道はどう、仏教がこうなどと、そしったりする。自分の産んだ子供の中で、一人は僧侶になり、一人は神父になり、一人は神主になり、また、役人になり、職人になり、商人になりというようになった時、親は、その子供の中でだれかがそしられて、うれしいと思うだろうか。他人をそしるのは、神の心にかなわない。釈迦もキリストもどの宗祖も、みな神のいとし子である。

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