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第四章 信心の実践

第三節 信心と生活

6 妊娠・出産

314.子は、わが力で産むとは思うな。みな親神の恵みによるのである。

315.女は世界の田地である。世界の田地を肥やしておかなければ尊いものができない。種をまいても、やせ畑にはよい物ができない。女は妊娠の時が大事である。心の良い悪いは子にうつる。体に子が宿ると、食事が進み、珍しい物でも欲しいという心になりやすいが、隠れて食べるようなことでは、よい子はできない。陰ひなたの心を持った子ができるから、そばの者がよく気づかってあげるがよい。

316.懐妊中に、考え違いをして無礼をしたり、間引こうと思う者もあるが、神からお与えくださるだけは産んで養育するがよい。金は人間の力で調えられるが、子供は神のおかげでなければできないものである。子を産む者は、神のご用を勤めると思って辛抱すれば、これが信心になる。

317.子供が大勢できても、人間考えで間引くことはするなよ。神は、人間の寿命があるのとないのとは、よく承知している。人間ではそれがわからない。寿命のないものなら神が引き取ってやる。


第四章 信心の実践

第三節 信心と生活

7 徳育

318.母の胎内は器のようなものである。水は円い物に入れれば円く見え、四角の物に入れれば四角に見える。母親が真の心を持ち、神の子が胎内にいるという尊い心持ちで、家業を潔く勤め、親兄弟に親切をして、信心に油断なく、教育にも油断がなければ、よい子が育ち、先祖への無礼もなく、国も栄えるもとになる。日々家業を勤める心と真心とを失わないよう、今月今日で信心するがよい。

319.食物を粗末にすると罰が当たると言うが、そういうことは言わない方がよい。子供には、叱るより教えてやれ。穀物を作るのは農家であるが、それも、神のお恵みがなければできるものではない。神のお恵みをいただく心になるよう、子供に教えてやれ。

320.信心していれば、冗談にでも悪いことを言ってはならない。言うとおりになってくる。子供を叱るのでも心得ておれ。あほうをするな、ばかがなどと、言ったりして叱ってはならない。お利口だからするな、と言えば、子供もお利口だからやめようと思って利口になるが、あほう、あほうと言うと、あほうだからしてやれと思って、あほうになる。どうしても言うことを聞かない時は、黙って尻をつねっておけ。

321.子供を叱り叱り育てるな。叱り叱り育てると、大きくなって道楽者になる。また、恐れさせ恐れさせ育てると憶病になる。

322.子の頭をたたくより、自分の頭をたたけば、すぐおかげになる。


第四章 信心の実践

第三節 信心と生活

8 病気

323.体の丈夫を願え。体を作れ。何事も体がもとである。

324.痛いのが治ったことだけがありがたいのではない。いつも健康であるのがありがたいのである。

325.神がお造りくださった人間であるから、病気にかかった時に、神に頼んで健康にしてもらうように願うのは、道理にかなった信心ではないか。

326.みな、病気の名前や病気のもとは不思議によく知っているが、おかげの受けられるもとを知らない。病気のもとよりは、おかげのもとをたずねてみよ。

327.信心しているから一生患わないと思うな。日や月でも、日食もあれば月食もある。そんな道理のものである。信心していても、人の身は生身であるから患うことはあるものと思い、また、患っても死なないと心に決めておけばよい。

328.鉄でも使えばすり減る。人間は生身であるから痛いかゆいがあるのは当たり前である。鍬でも刃先の焼き直しをしたら、はじめよりよく切れるようなもので、人間も時々痛いかゆいがあるのは刃先の焼き直しである。これがもとで信心もできるようになり、これが修行になって信心も進んでいく。人間は勝手なものであるから、痛いかゆいがあると信心ができるが、何事もなかったら信心が寝入る。

329.信心していて病気で苦しむ時は、刑の取りさばきであると思えばよい。辛抱せよ。その辛抱が信心である。

330.一週間でおかげをいただいたとか、二週間でおかげをいただいたとか言うが、それは一時、神がその病気をつかまえていてくださるだけのことであって、治ったと思うと当てが違う。大体、重い病気は三年とか五年とか、また十年もたたなければ治るものではなく、もとの体にはなれない。その代わり、もとの体になれば、もう患うことはない。神が病気を治してくださる時は、病気の根から取り払ってくださるのである。 腹の中に病気という一本の木が生えたとすると、それを枯らそうとして医者は薬を使うが、枝葉はすぐに枯れても根は残る。根が残るから、また生える。神が治してくださるのは、暇がかかる代わりに、病気の根から治してくださる。

331.長患いの人や代々難儀の続く人が、神のおかげを受けるのは、井戸替えをするようなもので、八、九分替えて、退屈してやめれば掃除はできない。水はやはり濁っている。信心も途中でやめれば病気災難の根は切れない。井戸水は清水になるまで、病気災難は悪い根の切れるまで、一心に神へ願い、健康で繁盛するように元気な心で信心をせよ。

332.「長らくの病気ですが、治るでしょうか」と伺ったところ、 金光様は、「病気が治るのがよいか、治らないのがよいか。治る方がよいのであろう。治してもらいに参って来たのに、治るであろうかと思ってはならない。今日からしだいに全快におもむくと思え。しだいしだいによくしてもらい、体が丈夫になってきさえすれば、年はとっていても病気は治る。しだいによくなると思って信心せよ」 と仰せられた。

333.祈れ薬れ、にすればおかげも早いが、薬れ祈れ、にするからおかげにならない。

334.痛い所があったら、お神酒をつける心になればおかげがある。

335.お参りして、ありがたい話と思って聞いている時には心が円い。わが家でいろいろのことが思われる時には腹が立ち、心に角が立つ。腹を立てると、顔やくちびるまで色が変わり、また、体の弱い人は頭痛がしたり、癪の病気がある人は腹がさしこむようになったりして困る。それは、腹が立つと、その勢いで体が固くなり、血の巡りがとまるからである。それで体に障りが出る。腹が立つのが少し治まると、とまった血が働き出す。腹が立つ時には、心の鏡を磨いてもらうように、神を頼む心に改めるがよい。 信心して病気にならないようにするのが、わが心でわが身を救い助けるということである。


第四章 信心の実践

第三節 信心と生活

9 習俗

336.お札をくださいと願ったところ、 「お札はない。お札は人間の目当てにするもので、お札からおかげが出るのではない。神は目には見えないが、そこら辺りいっぱいにおられるので、神の中を分けて通っているようなものである。願うのは壁を目当てに頼んでもよい」 と仰せられた。

337.信心して神に取りすがっていたら、縁起を気にすることはない。四は死に通じると言うが、それは悪い方へ取るからである。四なら幸せのしに取れ、よいのよに取れ。みな、よい方へ取って信心すれば、いっさいおかげにしてくださる。

338.人が死ぬと、四十九日の間は神棚へ張り紙をして閉門をし、神には手も合わさない者がある。それでも、天地金乃神のお土地は踏まないではいられまい。いろいろと神への無礼をしている。

339.ある人が、門まで来ては帰り、何度も来たり帰ったりしているのを、集まっていた信者が見て、「金光様、あの人はどうしたのでしょうか、参りそうで参りませんが」と伺ったら、 「あの人は、親が死んで忌みの内であるからと思い、遠慮して参れないのである。この道には忌み汚れはないから参ってもよいと言ってあげなさい」 と仰せられた。

340.だれでも、生まれる日と死ぬ日とは自由にならないのに、生きている間だけ、日柄とか何とか言う。どのような所、日、方角も、人間に都合のよいのが、よい所、よい日、よい方角である。日柄方角などで、神が人間を苦しめることはない。

341.家を建てる時、日柄方角を言う必要はない。暦では吉日であっても、雨が降れば、棟木などの大木は上げにくく、過ちがなければよいが、と心配をすることになる。神にすがって、いつでも吉日にしてもらう方が安心であろう。

342.疑うならば、鬼門の方角へ家を建ててみよ。神が叱らないと言ったら、叱りはしない。憶病を去れ。おかげをやる。

343.縁談には、相性を調べ見合わせるより、真の心を見合わせよ。

344.建築や縁組みなどをするのは勝手であると思い、お願いしないでする人は、お叱りを受ける。天地金乃神にお願いしなければならない。

345.この道では、やくとは世間でいう厄ではなく、役目の役という字を書く。やく年とは、役に立つ年、ということである。大やくの年とは、一段と大きな役に立つ年と心得て、喜び勇んで元気な心で信心をせよ。 草木でも節から芽が出て、枝葉を茂らせているであろう。しかし、節は堅くて折れやすい。人間のやく年も同じことである。信心辛抱していけば、節年を境に年まさり代まさりの繁盛のおかげを受けることができる。


第四章 信心の実践

第四節 信心と社会

346.世が開けるというけれども、開けるのではない。こわれるのである。そこで、金光大神が世界を助けに出たのである。

347.今の世は知恵の世、人間がさかしいばかりで、わが身の徳を失っている。

348.今の人は何でも時勢時勢というけれど、たとえ時勢に合ったとしても、神徳をいただかなければおかげにはならない。

349.神があってお上ができたのに、お上ができたら、神がお上の支配を受けることになっている。

350.国のため、人のため、わが身のためも思い、すべてを粗末にしないように、真の信心をせよ。

351.世のため、人のため、わが身のためを思って、家業をありがたく勤めることができれば、それがおかげである。それが神の心にかなうのである。