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第四章 信心の実践

第三節 信心と生活

1 仕事

280.神のおかげで生きていられる人間は、日々神のご用を勤めなければならない。毎日勤める家業は信心の行であるから、家業をありがたく勤めれば、日々ありがたいおかげが受けられる。

281.重い物を背負っているか担いでいれば苦しいが、そうではないから信心は楽である。家業を勤めながら信心をせよ。

282.商売するというから神は見ている。商売させていただくという心になれば、神はつきまとってさせてやる。

283.農業するには、もみを水につける時、もみをつけさせてくださいと願い、苗代へまく時は、天地金乃神へ、あなたのお土地にまかせてくださいと願え。また、苗の生長と、病気、害虫のお取り払いを願え。田植えには、苗を三把ほど神に供えて、今から早稲植えをさせてくださいと言って願え。供えた苗をお土地に植えて、根つき、生長を願え。また、害虫、病気のないように、先では豊作をいただかせてくださいと願え。そのほかの作物を植えつけする時も同じように願え。よくよく心得て、天地のお徳をいただくがよい。


第四章 信心の実践

第三節 信心と生活

2 財

284.我を放せば神になるというが、人間は、生きている間は健康繁盛を願い、農家が五穀成就を願い、商売人が商売繁盛を願うのは当たり前の欲である。我を放さなければならないといって、商売人が損をしたり農家が穀物を取らなかったり、人間が早死にをしたりしたら国はもたない。

285.一年で金持ちになるような心になるな。先は長い。少しずつためたのは、尽きることはないが、一時に殖やしたのはなくなりやすい。信心をする者は、我欲なことをしてはならない。ぬれ手で粟のつかみ取りの気を持つな。人より一年遅れて金持ちになる気でおれ。

286.貧乏していた時、「金光様、仕事は人の倍くらいもしますが貧乏で困ります」と申しあげたら、 「それで貧乏ということはあるまい」 と言われた。「でも、お金が残りませんから貧乏に相違ありません」と申したら、「それは、どこかに無駄があるのであろう。招かれて行くのに、先に茶づけを食べて行くようなことをしてはならない。ごちそうをいただく時には十分にいただき、ごちそうをする時には十分にしなければならない。一円の無駄をすれば十円の罰をこうむる。それは天地が許さないからである。百円の無駄は何でもないと思うであろうが、千円の罰をこうむるから貧乏をする。無駄をしないようにすれば出世もできる」 と仰せられた。

287.金光様に、「私は長い間信心させてもらっていますが、貧乏で困ります」と申しあげたら、 「貧乏といって、食べない時があるか」 とおたずねになった。「いや、食べられないことはありません」と申しあげたら、「いくら金や物を積み重ねていても、食べられないことがあってはどうにもなるまい。健康でご飯が食べられれば、それが金持ちと同じではないか」 と仰せられた。

288.金を人に貸し、催促をして相手を破産させたりするより、神にくり合わせを願ってあげよ。払ってもらって喜び、払って喜ぶようになれ。

289.人から出る日給はわかっても、神から出る日給はわかるまい。


第四章 信心の実践

第三節 信心と生活

3 食事

290.食物はみな、人の命のために天地の神が造り与えてくださるものである。

291.何を飲むにも食べるにも、ありがたくいただく心を忘れるな。

292.食物を粗末にするくらいもったいないことはない。食べられるまでにするのは、容易でない。それなのに食べ物を捨てたり粗末にするのは、神のお恵みと人の骨折りとを粗末にしているのである。

293.食物は、わが心で毒にも薬にもなるものである。

294.人間は食べ物でできているのであるから、物を食べなければすぐにやせる。病気になると、欲しい物が食べられないので困る。その時に、不自由を行と思い、物を不足に思わないで、万事、神を一心に頼み、万物をありがたくいただく心を磨いていると、早くおかげが受けられる。

295.大酒大食は絶食のもとになる。

296.好きな食べ物は身の薬であるから、せいぜいいただくがよい。けれども、食べ過ぎると体に障る。それで腹八分目という例えもある。茶わんに八分目水を入れて持ってみよ。少し走ってもこぼれはしまい。そういう物の道理である。好きな物を食べて、もうよいと思ってから、また一杯飲めば一杯だけ、一膳食べれば一膳だけ神に無礼になる。

297.食事をする時に、このくらいでよいと思う時が、天地の親神のご分霊が分限を定められる時である。それが体に合う量である。それを、もう一杯、また一杯と、我食い、我飲みして病気になる人もあるが、これは神へ対し無礼ではないか。また、食べ過ぎ飲み過ぎして、嘔吐をする者もあるが、これもよくない。 信心する人は神の守りを心にかけており、万事不都合のないようにするのが信心である。飲食も無理に強いるのは親切ではない。国のため、人の身のため、わが身の上も思い、万物を粗末にしないような、真の信心をするがよい。


第四章 信心の実践

第三節 信心と生活

4 家庭

298.家族中、神のことを忘れるな。何事があっても人に頼ることをするな。良いことも悪いことも、神任せにせよ。心配をするな。世は変わるものである。辛抱せよ。とにかく、内輪はきげんよくせよ。ものの言い方でも、あなたこなたと言うがよい。何事もむだ口を言うな。

299.家族中親切にし合い、信心をすれば、心がそろうようになり、みなおかげを受けられる。親子でも、心が一つにならなければおかげにならない。

300.「家族が仲良くいきませんが、どうしたら、仲良くなるでしょうか」とお伺いすると、 「それは、信心するとよい。信心は家庭に不和のないのがもとである。得をすると思って、物事をこらえるのが第一である。言い争わないのがもとである。家族中その事を心得て信心すれば、万事におかげをくださる」 と仰せられた。

301.世間では勢信心ということを言うであろう。一人で持ちあがらない石でも、大勢で、よいしょと一度に力をそろえれば持ちあがる。家族中、力をそろえて信心をせよ。

302.女は神に近い。信心は女からである。

303.女の信心が、神のお楽しみお喜びである。懐妊の間、心を改め磨き、真心の子供を産んで養育せよ。日々食べ物の取りあつかいの注意不注意によって、病気にかかることもあり病気を除くこともある。子供の間は母親が子供の真心を作るのである。 また、着物の洗濯をするのも子供の健康のためである。こうした役目を油断なく心がける者を見て神は楽しみ喜ばれる。ここに母親の大責任がある。 神の前に参って自分の思うことを頼むばかりが信心ではない。神へ参らない時に信心することがたくさんある。

304.ある人が、子供の数が多くそれぞれ性格が違うので困っているとお願いした。金光様はその人に、 「もし、五本の指がみな同じ長さでそろっていては、物をつかむことができない。長いのや短いのがあるので物がつかめる。それぞれ性格が違うので、お役に立てるのである」 と教えられた。

305.年寄りを大切にせよ。人間は自分の考えで先に生まれて来たのではない。みな、神のおかげで生まれて来たのである。早く生まれた者ほど世のために働きをたくさんしている道理であるから、年寄りを敬うのである。

306.元気を出して信心せよ。年をとったのを苦に病むことはない。年をとっても一人前にできるのは信心だけである。信心していると、年を重ねるほど身に徳がついて、神がかわいがってくださり、若い者が大事にしてくれるようになる。

307.隠居は幾つ何十になってもするものではない。人は神が天地の内に働くようにお造りなされたのであるから、幾つ何十になっても手足の動く限りは働くのである。

308.人は一代、名は末代というが、人間は一代の内に、死んだ後へ名の残るようなことをしておくがよい。そのように思って働けば、年寄りが集まった時、若い者が礼を言わない、喜んでくれない、と不足話をしないですむ。若い者から、おじいさんおばあさん、話が聞きたい、と言われるような信心をせよ。


第四章 信心の実践

第三節 信心と生活

5 信心の継承

309.金光大神の話を聞いて信心する人は、その子孫が安心に日を暮らすようになる。子供に安心のことを伝えるのは、真の信心である。

310.信心は何を目的にすればよいか。病人は痛いのを治してもらいたいと願い、健康な者は、作物がよくできるようにとか、商売が繁盛するようにとか願って参るが、それは一時のことである。 信心は、末の安心を楽しみにしないと続かない。末の安心のためには、自分一人がおかげを受けただけではなく、子孫に伝わる信心をすることが大切である。家庭が円満で、主人が信心しなければ、子孫には伝わらない。 痛いのを願うのは信心の糸口ではあるが、それだけでは、治ればお礼参りをして、その後は参らないことになる。自分の心を改めて、よい子供を得ることを、信心の第一の目的としなければならない。一代の信心は神が喜ばれない。

311.氏神様の祭り日には、家々でたいそうなことをしてお祭りをするが、天地金乃神からは日々のおかげを受けておりながら、その祭り日には特別のこともしないで、ろうそく一本を供えるくらいのことである。白いご飯を炊いて、おなますでもつけて供えるようにせよ。そうすれば子供でも、お母様、何事ですかと言って聞くようになる。わけを話してやると、神の恩を知るようになり、大きくなって、だんだん自分でも尊ぶようになる。

312.子供が十五歳にもなれば、そろそろ身しのぎをする術を教えこまなければならない。自分のことは自分で信心しておかげを受けさせるようにしなければならない。親から見れば、大きくなっても子供のように思うけれど、かわいがり過ぎたり、世話をやき過ぎると、先のためにならない。かわいい子には旅をさせよ、ということがあろう。信心のありがたいことを話してやっていれば、ひとりでに親の跡を継いで信心するようになる。

313.話を熱心に聞くのはよいが、わが家へ帰り、大変な信心家になって、うちの者を叱るばかりして困らせてはならない。世間には、あの人は講釈はよいが、という講釈だおれがある。信心する者は、神の話を聞いて納得したら、第一に、自分がしてみせて、それから言い聞かさなければならない。口ばかりの先生ではうちの者も聞かないし、神にも相すまないことになる。