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第四章 信心の実践

第二節 信心の心得

1 日常の信心

211.何事にも、自分でしようとすると無理ができる。神にさせていただく心ですれば、神がさせてくださる。

212.信心をしても、何もかも捨ててとびこんでしまうような信心をするな。茶づけでも食べているような心持ちで信心せよ。節のあるところで、あわててのこぎりをひくと、のこぎりの歯が折れる。

213.ふだんから、神に取りすがっていれば、神と心安くならせてもらっているのと同様である。無理も聞いていただける。大難は小難にまつりかえてくださり、小難は無難にお取り払いくださる。

214.「信心する者は、いつも、心にみきを供えて祈れ。いっさいの願い事を成就させてやる」 と金光様が教えてくださった。 信心する者は、これを忘れてはならない。みきというのは、ありがたき、恐れ多き、もったいなきの三つのきである。信心する者の心からこの三つのきが抜けたら、おかげは受けられない。

215.ふだんはふだんでおかげを受けなければならないが、いざという時にはなおのことおかげを受けなければならない。どのような時にでも置き場を忘れて探し回ることのないように、信心の心は肌身離さず持っていないと、用心が悪い。いざという時には裸でも、田んぼの中でもよい、「金光様、お願いします」と頼めば、すぐおかげをくださる。

216.人を頼むにも、日常心安くしておかないと間に合わない。神も、常日ごろの信心がなければ、いざという時に間に合わない。

217.「世の中には強欲非道な人間でも不思議におかげをいただくことがありますが、あれはどういうわけでございましょうか」とお伺いすると、 「いかに性根の悪い人間でも、一心にその時だけ改まって信心すれば、一時はおかげを受けるものである。ちょうど、やせ地に肥料をやれば一時はできるようなもので、長続きはしない。おかげを受けた時の心を忘れないように、日に日に心を改めて信心しなければならない」 と仰せられた。

218.病気災難があったからといって、にわかに信心を始めるよりは、ふだんから手厚く信心しておれ。手厚い信者であれば、神から心配してやる。いかに大病とか九死とかいう病難でも、峠を越えさせて全快させてやる。とかく信心の地を肥やしておけよ。

219.手厚く信心をする者は夢でもうかつに見るな。神は、夢にでも良し悪しを教えてくださる。

220.めでためでたの若松様よ、枝も栄える葉も茂る、とめでたい時に歌うが、枝も栄え葉も茂るのは、幹が太るからである。幹が太るのは、地の中に目には見えないが、大きく根を張っているからである。もとになる根が枯れると、太い幹も茂った枝葉も枯れてしまう。日々信心の根張りをよくしていると、無常の風が吹いても、たおれることがない。おかげで枝葉も茂って繁盛する。これがめでたいのである。


第四章 信心の実践

第二節 信心の心得

2 一心

221.神があっての人間、人間があっての神であるから、病気災難をはじめ何事でも、非常と平常とにかかわりなく神に願いをかけよ。信心とは、常日ごろ、神の心のようになるのが信心である。手を合わせて拝むばかりが信心ではない。一心とは、一つの心と書く。二心のうろたえ心を出さないで、天地金乃神に一筋に取りすがるのが一心である。十分なおかげを受けるには、一心でなければならない。

222.これまで、神がものを言って聞かせることはあるまい。どこへ参っても、片便で願い捨てであろう。それでも一心を立てれば、わが心に神がおられるからおかげになるのである。生きた神を信心せよ。天も地も昔から死んだことはない。金光大神が祈るところは、天地金乃神と一心である。

223.思う念力岩をもとおすというが、信心する者が一心を出して願えば、どんなことでもかなえてくださる。

224.うろたえ信心をするな。早くおかげを受けたいと思ってうろたえるのは、近道をしようと思って知らない道でうろたえるのと同じことである。金光大神の信心は大道を行くようなものである。一心になって信心せよ。

225.一心に信心すれば、おかげが受けられる。 たとえて言えば、女の人でも、いよいよ一心を打ちこむ男は一人しかない。この人と思ったら、心の底から一心を出して、身も心も打ちこんでしまうのでなければ、まことの恋ではない。他の男を見下げるのでも嫌うのでもないけれど、身も心も打ちこんでいきたいのはこの人であるというのでなければならない。 人にも、この人が親切であるとか、あの人が頼みがいがあるということがあろう。何事を頼むにも、一人に任すと、その人が自分のおよぶ限りの力を尽くして世話をしてくれる。二人、三人と頼むと、相談に暮れて物事がはかどらない。信心もこの一心を出すと、すぐにおかげがいただける。

226.「一心になることは、はなはだむずかしいものと思います。拝みながら、いろいろのことが思われたりして、心の内が定まりませんが、どういうものでありましょうか」と申しあげると、 「一心になる心は、子供をこしらえる時のようなぐあいに思い知れよ」 と仰せられた。


第四章 信心の実践

第二節 信心の心得

3 お任せ

227.天に任せよ、地にすがれよ。

228.四季の変わりは人の力におよばないことである。物事は時節に任せよ。

229.一生死なない父母に巡り会ったと思って、何事でも無理と思わないで天地金乃神にすがればよい。

230.金の杖をつけば曲がる。竹や木の杖をつけば折れる。神を杖につけばよい。神は、曲がりも折れも死にもなさらない。

231.建てた柱はたおれることがある。吊ったのれんにもたれる心になっておかげを受けよ。

232.金光大神は、どうにもならない時には、じっと寝入るような心持ちになるのである。あなた方もそういう心になるがよい。どうにもならないと思う時にでも、わめき回るようなことをするな。じっと眠たくなるような心持ちになれ。

233.何事にも無理をするな。我を出すな。わが計らいを去って神任せにせよ。天地の心になっておかげを受けよ。

234.天地金乃神は天地を一目に見ている。神は平等におかげを授けるけれども、受け物が悪ければおかげが漏れる。神の徳を十分に受けようと思えば、ままよという心を出さなければおかげは受けられない。ままよとは、死んでもままよのことである。

235.わが子の病気でも、かわいい、かわいいと思ってうろたえてはいけない。言うことを聞かない時にも、ままよと思ってほうっておくような気になって信心をしてやれ。おかげが受けられる。

236.いかなる大しけの時でも、金光大神を頼んで、助けてくださいと言って、船の向く方へ行かせるようにせよ。船の行かない方へわが力で進めようとするから、命を失うこともある。


第四章 信心の実践

第二節 信心の心得

4 難儀の受けとめ方

237.信心していても、よいことばかりはない。悪いこともある。手にでも、表と裏とがあるようなもので、裏の出た時には、早く表の出るようにおかげを受けよ。

238.信心しているからといっても、みなの身の上のことが何もかも同じになるとはいかない。山の木が三十年たっている、五十年たっているといっても、同じような木ばかりはない。ある人は信心しないのに金持ちになることもあるし、信心してもなれないこともある。米麦を作っても、実のない白穂もできるし病気の黒穂もできる。そのように、全部同じようにとはいかないので、心を広く持って信心しなければならない。

239.人間はみな、生まれる時に約束をしてきているのである。だから、家族が一人よりは二人、二人よりは三人、三人よりは五人と大勢いるほど、家庭の中にさまざまな難儀がある。幸いに信心をしていると、それを除いていただけるが、生まれた時の約束であるから、またこういうことが起きたというようなことが出てくるかも知れない。その時に、これほど信心するのに、なぜこういうことが出てくるのだろうかと思えば、もう信心はとまっている。これはまだ私の信心が足らないのだと思い、これはどこまでも私の勤めるべき役であると思って、信心をしていかなければならない。そこからおかげがいただける。

240.生まれた者には死ぬということがあり、死に方にもいろいろある。稲や麦にたとえて話せば、春、もみを苗代にまき、本田に植えつけ耕作しても、稲は白穂、麦は黒穂になることがある。子供が成長し、結婚し、その本人に子供のできないうちに死んだのは、白穂黒穂のようなものとあきらめるほかない。 また、早稲、中手、晩稲などの種類に分けてあるが、人間にも短命長命の別があり、途中死にという難儀なこともある。その時、子供が後におれば、相続する人があるので早稲のようなものであると悟りを開いて、あきらめるほかない。万事におくり合わせをこうむるよう神に頼み、先を楽しむ信心をせよ。

241.子供が死んでも、おかげがなくて死んだというような不足を神へ向けてはならない。先祖代々私どものめぐりでこういうことになりましたと、お断りを申すようにせよ。

242.信心する者は驚いてはならない。これから後、どのような大きな事ができてきても、少しも驚くことはない。

243.心配する心で信心をせよ。

244.心配が増したり、物事を苦に病むようになるのは、信心が落ちた証拠である。その時、これをありがたく思って信心すると、これが修行になって、また一段と信心が進んでいく。そうでないと信心が落ちてしまって、心配や苦難に負けて、どうにもならないようになってしまう。

245.人間であるから、生きている間は先々のことを考えもしようし、心配の尽きる時はあるまいが、それがみなおかげになれば、心配はあるまい。心配は、信心すればみなおかげになる。心配は体に毒、神に無礼である。心配する心を神に預けて、信心する心になれよ。おかげになる。

246.明日塩辛を食べるからといって、今日から水を飲んで待つわけにはいくまい。取り越し苦労をするな。

247.信心をしていれば神と心安いのと同じであるから、大難は小難に、小難は取り払いのおかげをやる。これほど信心をしても、まだこのような難を受けると言うのは、真の神徳を知らない者の言うことである。難は人間には計り知れないものである。熱心に信心している者でも、難が強く信心をやめる者がある。信心をして難の根の切れるおかげを受けなければならないのに、難の根よりも先に信心の根を切るのは、やはり真の神徳を知らない者のすることである。信心する者は、真の神徳を知らなければならない。

248.人間は、生まれる時に証文を書いてきているようなものである。生まれた時に、悔やみを言いに行ってもよいくらいのものである。どういう災難があるとか、こういう不幸があるとかいうことは、決まっているのである。神はよくご承知なのである。信心を強くすれば、大厄は小厄にしてくださり、小厄はお取り払いくださる。それが、おくり合わせをいただくということである。

249.大厄は小厄におまつりかえを、また、小厄はお取り払いをお願いせよ。物にたとえれば、たらいにいっぱいためた水を屋根の棟から少しずつ流してみよ。これが小厄のたとえである。それをどっと流すのが、大厄のたとえである。信心して、大厄は小厄にしてもらい、小厄はお取り払いいただけば、後は繁栄をいただける。

250.信心しながらも、次々に不幸せが重なると、「何かのしわざではないでしょうか。何かの罰ではないでしょうか」と言って参る者があるが、どうして、神がかわいい子に罰をお当てなさろうか。心得が違っている、気をつけよ、とお気づけがあるのであるから、今までとは心を改めて信心をすれば、不幸せがおかげになってくる。

251.信心が厚くなるほどお試しがある。お試しがあるのはおかげである。