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第四章 信心の実践

第一節 信心の仕方

5 お礼

181.生きている者にはみな、おかげをやってある。恩を忘れるなよ。その中にも、まことのおかげを受ける者が、千人に一人もない。

182.あなた方は小さい所に気をつけて、夜分に提灯を借りても、手みやげをつけて、ありがとうと礼を言って返す。それならば、日乃神(太陽)にはどのくらい大きなお礼を申しても、過ぎることはあるまい。

183.信心する者は、山へ行って木の切り株に腰をおろして休んでも、立つ時には礼を言う心持ちになれ。

184.道で夕立に遭うと、お世話になりますと言って軒下を借りて、雨がもうやむかもうやむかと空ばかり見ているが、小やみになると、やんだやんだと言って、ろくろく礼も言わないで出て行く。そのような信心では、おかげにならない。

185.九死に一生のお願いでどうでもおかげをいただこうと、一心になっている時のように、お礼が本気で言えたらよい。願うことはすぐにできても、お礼はなかなか言えない。お願い一度にお礼十度というように、お礼を言う心が厚いほど信心が厚い。信心が厚いほどおかげが厚い。

186.「金光様、なにぶん突然にお参りをしましたので、何もお礼を持って来ておりませんが、何をお供えすれば神様がお喜びくださるでしょうか」とお伺いすると、「何もお礼を出すことはいらない。自分が受けたおかげを手本にして世の中の人を救ってあげれば、お礼になる」 と仰せになった。そこで、「私のような学問も何もない者には、それはむずかしいことです」とお答えすると、 「学問のある者しか神は使わないというわけではない。学問はなくても真の徳をいただけば、さしつかえはない。自分が受けたおかげを手本にしていくのであるから、むずかしいことはない。ご用をさせていただけ」と仰せられた。


第四章 信心の実践

第一節 信心の仕方

6 お断り・おわび

187.自分が悪かったと得心してお断りを申したら、神は叱ってはくださっても、罰はお当てにならない。すぐにお許しくださる。神は、常に人間がかわいいとの思いでおられるのである。

188.「先祖からのご無礼がありましょうとも許してくださいませ。日々信心いたしますから、信心の徳をもって、どのようなめぐりもお取り払いくださいませ」と言って願うがよい。

189.先祖、先祖からの罪をわびよ。めぐりは、ひなたの氷のようにお取り払いくださる。


第四章 信心の実践

第一節 信心の仕方

7 お供え

190.神の教えどおりに願って、願いどおりのおかげを受け、ありがたいと言ってお礼に供える物は、神も喜ぶ。末の繁盛を守ってやる。お札やお守りの代金、初穂、益を取るなどという神とは、神がちがう。

191.金光大神は金銭を目当てに拝むのではない。難儀な人を助けなければならないから、 「お供えのことを思わないで、こづかいだけのくり合わせを受けられた時に参りなさい」 と話しているのである。信心しておかげを受けた時に、心任せのお供えができるようになれば、供えた者も喜びであろう。

192.長者の万灯、貧者の一灯ということがあろう。その貧者の一灯も供えられない者もあろう。神は灯明でも線香でも、何でもかまわない。一本の線香さえ供えられない者は、一本を半分に折って供えても、灯明の代わりに受け取ってやる。線香も供えられない者は、切り火をして供えても、灯明の代わりに受け取ってやる。線香の灰でもおかげを受ける者がある。

193.神は供えたお金をただで取りはしない。昔から一粒万倍というであろう。大地に米を一粒まいてみよ、一合になるであろう。また、年が明けてその一合をまいてみよ、一俵になろう。天地の神に供えた物は、そのようなもので、一粒万倍にして返してやる。

194.人が真から供えるのは神にも喜ばしいが、寄付を募って人を痛めては、神は喜ばない。

195.「今日は少々寄付をしようと思って参りました。よそでは寄付札を立てたりしますが、こちらでは、そういうことはなさらないのですか」とお伺いすると、 「あの人がいくら寄付したので、私もこれくらいしなければということになり、それがたちまち神への信心に不浄を入れることになるから、いくら寄付されても、そういうことはしないのである」 と仰せられた。「寄付帳とか受付とかはありませんか」と申しあげると、 「はい、それもない。神へ供えられるのなら、ただ、さい銭箱に入れておかれても同じことである。金がなければ信心できないとなれば、貧乏人はみな死ななければならない。私の方では、お供えする物がないと言っても、ご神米を下げるのである」 と仰せられた。私は大金を持って来たので歓待されるかと思っていたが、調子はずれの話で間が抜けたことであった。そこで、そのお金を出して、「ご普請へ寄付いたしたい」と申しあげると、 「はい」 と言われ、ご祈念くださった。ご祈念が終わってお結界に下がられ、何も仰せられないでただお座りになっていた。私は心の内で茶づけでも食べよと言われるかと思っていたが、何のこともなかった。お礼を申して帰ろうとしたら、いつものとおり、 「それは、ご苦労であった」 と言われただけであった。

196.お供え物とおかげは、つきものではない。

197.家族一同、仲よくして信心せよ。彼岸もちなどをこしらえる時に、子供がそばで、くれ、くれと言うのを、神に供える前はいけないと言って頭をたたいたりしては、神は喜ばない。先に子供にやって喜ばせておいて、それから神に供えてくれれば神は喜ぶ。招かれて行っても、台所で子供が頭をたたかれて泣いたりしていては、ごちそうを出してくれても、うれしくはないであろう。

198.農作業で忙しい時など、ご飯を神に供えるのに、足が汚れているからと、めんどうに思って供えるのでは、神は喜ばない。それよりも、釜の中で少々かき寄せて、神様と言って拝んで、それをよく混ぜていただけ。神はそれを喜ぶ。


第四章 信心の実践

第一節 信心の仕方

8 修行

199.表行よりは心行をせよ。

200.世の中に表行をいろいろする人がある。寒行として拝んで歩いている人もあるが、心行といって、人に不足を思わないで、物事の不自由を行とし、家業を勤め、身分相応を過ごさないよう倹約をし、だれにも言わないで行えば、これが心行である。

201.世間には、水の行、火の行などがあり、いろいろの物断ちをする人もあるが、そのような行はしなくてもよい。巡礼のように白い着物を着てあちらこちらを巡り歩く暇に、毎日の家業を信心の行と心得て勤め、おかげを受けるがよい。

202.水をかぶって行をするというが、体にかぶっても何にもならない。心にかぶれ。寒三十日の水行をするといっても、それは体を苦しめて病気をこしらえるようなものである。家内や子供の病気のために水をかぶって、一週間日参をしても治らなければ、自分の体に傷がつくだけである。水をかぶったから真である、水をかぶらないから真がないとはいえない。食わずの行をするのは、金光大神は大嫌いである。食べて飲んで体を大切にして信心をせよ。

203.「しばらくの間、山に入って修行させていただきとうございますが、いかがなものでしょうか」と申しあげると、金光様は、 「山に入ったら、どのようにして修行をするのか」 とたずねられた。「山に入ると、はじめは麦粉を練った団子で命をつなぎます。それをしばらく続けると、次には木の実や木の葉で生きられるようになります。またしばらくすると、ついには水ばかりで生きられるようになってまいります」と申しあげると、 「いったい、どんな山に入るのか」 と仰せになったので、「なるべく深い山に入って、浮き世を逃れるつもりでおります」と申しあげた。金光様は、 「それは結構である。しかし、何もわざわざそんな不自由な山に行かなくても、心の中に山をこしらえて、その中で修行をしたらそれでよい。自分が山に入った心になっていれば、どんなに不自由なことがあっても、また家内のこしらえたものがまずくても、けっして不足を言うことはないであろう」 と仰せられた。

204.人間は人間らしくすればよい。何も求めて不思議なことをしなくてもよい。

205.座敷、押し入れ、板の間にちりが積もるように、人間は我欲のためにわが心にちりが積もる。わが心わが身が汚れないように、心と体の掃除をするつもりで、今月今日で信心をせよ。


第四章 信心の実践

第一節 信心の仕方

9 祭り

206.家を建てる時、まず神をどこにまつるかを考えて後、床の間や座敷を考えるようにすれば、子孫も家も繁盛する。

207.祭り日は、信心を忘れないための大切な日である。この祭り日を忘れさえしなければおかげがある。忘れたらおかげはない。親の恩を忘れないための法事のようなものである。何事にも恩を忘れてはならない。

208.御霊の祭りは大切にせよ。

209.木のもとへ肥料をやれば、枝振りまで栄える。先祖や親を大切にすれば繁盛させてくださる。

210.分家をすると、うちにはまつる御霊がないと十人のうち九人まで言うが、それは大きな間違いである。人にはみな先祖というものがある。押し入れのはしにでも、先祖様と言ってまつらなければならない。