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第四章 信心の実践

第一節 信心の仕方

1 参拝

144.神参りをするのに、雨が降るから風が吹くからと、大儀に思ってはならない。その辛抱こそ、身に徳を受ける修行である。

145.参拝するのに手間がかかる、暇がかかると思ってはならない。それだけの手間暇は、神がすぐに取り返させてくださる。

146.みな、忙しいからなかなかお参りができませんと言う。無理に忙しい時に参れと言うのではないが、おかげを受けていれば暇な日という日があるものか。今日は雨が降ったからお参りしよう、今日は休みだからおかげを受けようと、暇をつくって参り、おかげを受けるがよい。

147.信心は手厚くせよ。わが家で信心しておりますと言うのは、信心の抜けはじめである。

148.たびたび参って来なくてもよい。参って来ても、金をこれだけ使った、これだけあればあのことができたのにと思うようでは、神に心配をかけるようなものである。神は親であるから、子がお金の心配をするのは、かわいそうに思われる。無理にたくさんのお金を使って参らなくても、わが家で信心しても守ってくださる。

149.参るな、参るなと言っても、参らないとおかげは受けられない。金光大神が参るなと言うのは、参ってもおかげを受けなければ、足がくたびれたり大切なお金を使ったりするだけで、参って来る者が困ることになる。それで、参るなと言うのである。

150.私一人が参った時には、金光様は、 「たびたびよく参って来るなあ。参って来れば、来るだけのおかげがあるからなあ」 と言われた。しかし、大勢連れだって、途中、舟の渡し賃を払わなかったり、ひばりを捕るようなことをして参った時には、 「遠方を参って来なくても、わが家で壁でも拝んでおくがよい」 と仰せられた。

151.参って来なさいとは言わないが、たびたび参った人は、たびたび参っただけの神徳はいただけるであろう。たとえば、学校へ長く行った人は、何かと知っていることが多い。たびたび参って来る人は、金光大神の話を聞き覚えて、何かと知ることがあろう。 また、たびたび参っても、自分の思うことを頼み、帰ることを急ぐ人は、勝手な信心で、金光大神の話すことは何もわからないであろう。

152.よく、ちょっと前を通りましたからついでに参らせてもらいましたと言って、上がり口で拝んで帰ろうとする者があるが、ついでに参るからおかげがついでになる。同じように前を通ったのでも、わざわざここまで寄って参らせてもらったという心で、神前へあがって拝礼をしてみよ。神はわざわざのおかげをくださる。

153.痛い時はお願い参り、痛くない時が信心参り。

154.参る者のほとんどはお願いに参るのに、あなたは、いつもおかげを受けているお礼に参って来る。神も満足に思う。 おかげを受けてお礼に参って来ると、神も喜び、金光大神もひときわうれしいが、本人もうれしいであろう。人間がおかげを受けて喜ばないと、神も喜べない。

155.広前は信心のけいこをする所であるから、よくけいこをして帰れ。夜中にどういうことがないとも限らない。おかげはわが家でいただけ。子供がある者や日雇いの者は、わが家を出て来るわけにはいかない。病人があったりすれば、それをほうっておいて参って来ることはできないから、家族中が健康な時に、ここへ参って来て信心のけいこをしておけ。


第四章 信心の実践

第一節 信心の仕方

2 取次

156.願うことは、何事もかなわないということはない。金光大神の手続きをもって願え。何事もおかげがいただける。

157.神の広前を勤める者は、神の守り、神の前立ちである。神のお手代わりである。

158.神の取次は神がする。真の信心がある者は神である。そうであるから、神の取次ができるのである。狐や蛇や鳥などに、どうして神の取次ができようか。何の神は狐が使わしめ、何の神は蛇が使わしめなどと、いろいろなことを言う人があるが、天地金乃神は、神の子である人をもって使いとなさる。

159.神が天地の理を説いて、安心の道を授けてやる。

160.金光大神の道は祈念祈祷で助かるのではない。話で助かるのである。

161.ここへ参っても、神の言うとおりにする者は少ない。みな、帰ってから自分のよいようにするので、おかげはない。神の言うことは道に落としてしまい、自分勝手にして、神を恨む者もある。神の一言は千両の金にもかえられない。ありがたく受けて帰れば、舟にも車にも積めないほどの神徳がいただける。心の内を改めることが第一である。

162.差し支えのないように仕事を早くすませたり、仕事のくり合わせをつけておいて参って来て、話を聞いて信心の勉強をするのである。そうすると、ひとりでにおかげが受けられるようになる。

163.信心は話を聞くだけでは十分でない。わが心からも練り出すがよい。

164.いくら学問がある、よく理屈がわかっているといっても、神信心のことは、わかっただけでは役に立たない。わが心に食いこんで、事にあたって実際に出てこなければ、神の徳はいただけない。


第四章 信心の実践

第一節 信心の仕方

3 祈念

165.神は昼夜も遠い近いも問わない。頼む心にへだてなく祈れ。

166.神を拝礼するのに、別に決まりはない。実意丁寧、正直、真一心がかなめである。日々生かされているお礼を申し、次に、お互い凡夫の身で、知らず知らずにご無礼、お粗末、お気障りなどをしている道理であるから、それをお断りおわび申して、それがすんだら、身の上のことを何かと実意をもってお願いさせてもらうがよい。

167.信心といっても別にむずかしいことはない。親にものを言うように、朝起きたら神にお礼を申し、その日のことが都合よくいくように願い、よそへ行く時には、行ってまいりますと言ってお届け申しあげよ。そして、帰って来たら、無事で帰りましたとお礼を言い、夜寝る時にはまた、その日のお礼を申して寝るようにすれば、それで信心になる。

168.神を本気で拝むには、拍手を打って神前に向かったら、たとえ槍先で突かれても後ろを振り向いてはならない。物音や物声を聞くようでは、神に一心は届かない。

169.いかにありがたそうに拝みことばを唱えても、心に真がなければ神にうそを言うのと同様である。拍手も、無理に大きな音をさせるにはおよばない。小さい音でも神には聞こえる。拝むにも、大声を出したり節をつけたりしなくても、人にものを言うとおりに拝め。

170.はじめは、お祓を一週間に一万回も唱えていたが、後、そのことを金光様にお話し申しあげたところ、 「拝み信心をするな。真でなければいけない」 と言われた。また、 「神を拝むのに手や口を洗っても、心を洗わなければ何にもならない。心は火や水では洗えない。真一心で心を洗って信心をせよ」 とも教えてくださった。

171.手を洗ったり口をすすいだりしなければ信心はできないことはない。農作業をしていて、肥料をあつかっている間に事が起こった時、手を洗ったり口をすすいだりしていては間に合わない。そうした時には、すぐそのまま拝礼してお頼み申せばよい。


第四章 信心の実践

第一節 信心の仕方

4 お願い

172.天地の間に住む人間は神の氏子である。身の上に痛みや病気があっては、家業ができがたい。身の上安全を願い、家業出精、五穀成就、牛馬にいたるまで、身の上のこと何事でも、実意をもって願え。

173.大きなことはお願いし、このくらいは構わないということはない。神には、大きいこと小さいことの区別はない。何事にも神のおかげをいただかなければならない。

174.病気にでもなると、だれでも人には話すが、神に申しあげることはしない。人には言わなくても神に申しあげてお願いすれば、おかげが受けられる。拝み方は知らなくても、一心にすがればおかげをくださる。

175.願い事があると、遠方からわざわざ参って来て頼む人が多い。人を頼むにはおよばない。真の信心をして、自分で願っておかげをいただけ。人を頼まなければ、おかげがいただけないとすれば、取次をする者のそばにつききりでいなければなるまい。神はそういうものではない。自分で願って、自分でおかげをいただけ。

176.自分から日切りをして願え。一週間とか一日とか、今のことを今とお願い申して、おかげを受けよ。一度日切りをしてお願いし、おかげのしるしがなければ、重ねて願え。それでもしるしがなければ、なおもう一度と、三度までは押して願え。願主があきらめてはいけない。押して願っておかげを受けよ。

177.みな、おかげを受けるために参って来ているはずであるが、中には、神が「おかげをやろうやろう」と言われるのに、「いや、結構です」と言って帰る者もある。おかげをぜひいただかなければ帰らないという気でいる者こそ、おかげがいただけるのである。

178.商売上のことを願ったところ、金光様は、 「あなたの家には病人があるのに、それをほっておいて願いもしないで、不孝な者である」 と言われ、「よく考えてみると中風で動けない老人がいます」と申したら、 「それをそのままにしておいてもよいか」 と仰せられた。「治るでありましょうか」と申したら、 「老人だからといって治らないことはない」 と仰せられ、信心して全快した。

179.死んだからといって、神のおかげを受けないではいられまい。死に際にもお願いせよ。

180.容赦をするな。鐘は打ち割る心でつけ。太鼓はたたき破る気でたたけ。割れも破れもしない。ただ、その人の打ちよう、たたきようしだい。天地に鳴り渡ってみせよう。