東日本大震災被災の皆様
心よりお見舞い申し上げます
東日本大震災の犠牲者 慰霊詞     平成23年3月11日
是の仮の小床に斎き奉る東日本大震災の犠牲者の霊神達はや、痛ましき霊神達はや。

平成二十三年三月十一日午後二時四十六分、三陸海岸沖に起こりしマグニチュード9、史上四番目の大地震は大きな揺れ、巨大な津波が押し寄せ、青森、岩手、宮城、福島、茨城、千葉、東京、神奈川と東北、関東各地に甚大なる被害を引き起こしましぬ。

突如起こりし大地の揺れは家々を崩壊させ、それに加え、大津波は街ごと飲み込み、街は跡形もなく瓦礫と化し、元の姿を見るに能わず、ことごとく破壊なしましぬ。

海中に飲み込まれし人々、瓦礫の山の中で命を落とせし人々、一瞬の出来事にして、数えること能わざる人命が失われまししは、いともいとも悲しきことになむ。

汝達の家族は、汝達の名を呼びつつ、命からがら逃げ、災いを逃れたた人々は、避難所にて救助を待ちつつも、汝達の身を案じ、瓦礫と化した我が家の跡を、汝達の名を呼びてさまよひてありましぬ。

更には、、福島原子力発電所が津波の災いを受け、発電を停止したるも、制御不能となり、放射能を洩らし、住民の人々は避難なしてあり。

かかる大災害のニュースに接しし全国の人々、外国の人々までも打ち驚き、援助、救助の手を差し伸べてあり。

わが扇町教会にありても、汝達の犠牲者の霊を慰め奉らむと、是の処に新霊舎を設け、霊璽を奉安し、日々御祈念をなしてあり。更には『義援箱』を設け、信奉者諸々せめてもの救援の真心を現すべく、献金してあれば、あな良しと受け諾ひ給ひて、厚き幽界の冥福を蒙り給ひ。

かかれば、避難所の厳しき生活の中にありし、命を救われし人々家族達の身の上を守らせ給ひ。人々、心を合わせ、力を協へて、助け合い、祈り合ひて、乗り切らせ給ひ。更には、復興の上に厚き霊の御祈りを蒙らせ給へと、痛み悲しみの心もて、祈り奉らむ、願ひ奉らむ。

東日本大震災に思う   金光教扇町教会長 押木廣太
 『それでも 桜の花はほほえむ』

 言葉を失う惨事……。テレビに放映される光景は、被災した人々は、ドラマのセットでもない、演じている人でもない。どこまでも現実である。いや、被災者もテレビの前の人も、現実であってほしくない……ほしくない……。 

 数多の人命と街々、家々を一瞬にして崩壊し飲み込んでしまった、東日本の大震災と津波そして火災……。

 昨日(3/10)まで、家庭の団らんがあり、やがて来る春に、子供や孫の卒業、入学の話題に花を咲かせていたその家が、跡形も無く瓦礫と化している……。家族も行方不明……。昨日の団らんが夢であったのか……今(瓦礫と化した我が家の跡)が夢なのか……。この瓦礫の姿が夢であってほしい……。

我が家の瓦礫の山の前にしゃがみ込んで、木の棒で瓦礫の中の何かを探している老婆の姿……。派遣された報道の若い記者が「おばあさん、何を探しているのですか……」老婆はその記者をまぶしそうに眺め「ご先祖のお位牌……」




想像を絶する被害……。天地はなんとむごいことをするのだろう……そのような想いが横切る……。

 しかし、思い返しをさせて頂こう。はたして天地はむごいばかりなのか……。365日、このような大災害が襲うてきているのか……。観測以来ということは、地震観測を始めて百数十年以来の大地震。その百数十年の間、大小様々な災害はあったが、365日の毎日は、恵みの天地である。

 恵みを受けての日々の生活ではあるが、それも続くと、その恵みを忘れてしまうのが人の常であろう。大地が大きく揺れて、波が襲いかかって、はじめて、天地の働きの中に生かされていることを実感する。いや、させられる。『天地は生きている。天地が生きているから人間も生きていられる』。お許しを頂いて、この天地の間に居させてもらっているのである。





 やがて、被災地にも桜の花は咲くであろう。我が家のあった街の瓦礫も整理されていることであろ。しかし、避難所では未だ多くの被災者が、生活のメドさえつかず、日々を送っておられることであろう……。

 そのような人々にも桜の花はほほえみかけている。しかし、被災者の人々はその桜の花さえ、目にに映つらないであろう……。目に映ったとしても、昨年の花見は家族で楽しく出来たのに……あの日はもどらない……。
しかし、桜の花は、恨まれても恨まれても、ほほえみかける……。





 辛い辛い思いを押し込めて、この文章を作成しました。被災された皆様には、一日も早いご復興を日々、御祈念させて頂いています。