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【写真で見る扇町教会の歴史−7−】

傘はやぶれず

「扇町のことは、日々願っております
 次第次第におかげをうけます。」
三代金光様
■三代 
 金光摂胤(せつたね)君
 国は敗れて、国土は焼け野原となり、国民は肉親を失い、家を焼かれ、食べることさえ事欠くありさまであった。

 弘一師は大阪市西淀川区野里に仮住まいをしながら、復興の機会を願っていた。昭和二十一年二月、元の扇町教会の跡にバラックの教会を建てた。ところが、その土地を貿易庁の駐車場に使用するため、立ち退きを命じられたのである。

 三度教会を失った弘一師は、教会の復興を断念しようとさえ思った。ところが、福嶋真喜一師(佐野教会長)が、扇町教会のことを気の毒に思い、三代金光様に御取次を頂いてくれた。

 その時、三代金光様は
「扇町教会のことは、日々願っております。次第々々におかげを受けます」との、お言葉を頂いた。そのことを、福嶋真喜一師より聞かされた弘一師は、再び復興の願いを強めていくのである。


一心の祈り

■廣太師の身代わりとなった下駄
 初代教会長夫人マス師は、野里の仮住まいで 教会の復興を願いつつ、昭和二十三年四月七日八十二歳をもって帰幽した。

 マス師の帰幽の少し前、大阪市より現在の教会の土地を換土地として与えられることが決まり、マス師は喜びつつ亡くなった。

 更にマス師は霊となっても、その祈りを現した。それは、マス師の五十日祭の日であった。マス師が教会の後継として願いをかけていた、現教会長廣太師(当時、三歳)が冨美恵夫人に連れられて、神饌物を調えるため、市場へ行く道中、廣太師が国道でトラックにひかれたのである。即死かと思われところ、廣太師の履いていた下駄がトラックのタイヤの噛ませとなり、トラックを止めたのである。

 かくして、マス師は霊となってからも、教祖から頂いた「此方の道は唐傘一本で開くことができる。傘一本とは真一心になりきることぞ」との御教を守りとうしたのである。

■弘一師が事故の様子をしるした文

傘一本を開く

昭和24年 復興
 弘一師と冨美恵夫人は今一度、「此方の道は唐傘一本で開くことができる。
傘一本とは真一心になりきることぞ」との御教を改めて頂き直し、新たな布教地である、大阪市北区神山町八十九番地(現在は九番十五号)に御用始めた。

 それは、正に「傘一本」であった。昭和二十四年四月二十五日、建物の無いこの地で、春の大祭を仕えた。続いて同年十一月に、仮の広前が建築された。
 その建物は、屋根に瓦なく、天井、壁なく畳もない、窓にガラスもなければ、勿論電気もガスもない建物であった。

 「人にものをたのむな」との御教のごと、ただ/\神を信じ、御用にお使い頂くことを願った。

■二代教会長夫人
 押木冨美恵夫人
■当家族4人衣料の入った行李(こうり)
■復興当時の広前玄関
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