【写真で見る扇町教会の歴史−10−】 | |||||||||||||||||||||||||
一本の傘の中に生かされて |
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復興のおかげを頂いた弘一師はだん/\に高齢となり、冨美恵夫人はます/\身体が弱ってきたが、二人の御用は真実、人を思う御用となっていった。 その間、廣太師は昭和四十一年、教師を拝命し、次の代へと時代は移ろうとしていた。 昭和四十五年二月七日、冨美恵夫人は五十八歳をもって帰幽した。その一生は、扇町教会の復興のために生きてきた一生であった。 昭和五十三年一月三日、弘一師は九十歳の長寿をまっとうし、安らかに、波瀾多い人生、御用一筋の人生を閉じた。
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■弘一師が88歳の祝いに 感慨を書いたメモ |
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■弘一師の葬儀 | |||||||||||||||||||||||||
■冨美恵夫人の遺訓を弘一師が書いた屏風 | |||||||||||||||||||||||||
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一本の傘
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■現教会長夫妻 押木廣太師 正子夫人 |
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廣太師は、昭和四十四年に四条畷教会長長井金蔵師の三女正子師と結婚した。 弘一師の後を継いだ廣太師は、現在の社会に金光大神の信心を現すべく、布教、育成、教務の充実をはかり、信徒参加の教会、社会に開かれた教会、人が育つ教会を願って、その活動と方途を求めていった。 この、開教八十年復興四十年の節は、現教会長の布教十年でもある。 |
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現在の社会に金光大神の信心を現す手立てとして、布教の面においては、布教文書五千枚を毎月配付。公開講演会を毎年開催。誰でもが、何時でも教話を聞ける、「テレホン教話」を設置(内容は週間)。信者宅の掲示板設置。教会機関紙「光道」の毎月発刊。 育成としては、少年少女会の活動、特にブラスバンド、ポンポン隊の設立、中高生研修会、吉備舞、典楽、祭員の育成。 信徒参加としては、信徒会の活動、信徒会幹事会の機能充実、大祭等の行事に全信者の参加月次祭の奉仕当番制。 教務の充実としては、事務の分担、オフセット印刷機、コピ−、ワ−プロ、タイプ、裁断機等の事務機器の充実。 昭和三十八年、復興新築した建物は、順次、台所を拡張、昭和四十四年には三階増築、神具庫の増設等、改修がなされた。 しかし、教会の活動が活発となり、大祭等広前に参拝者が入りきれなくなって、昭和三十八年の建物を土台としての改修では、とても活動ができにくくなった。 そこで、広前を拡張し、二百人分の食事の用意のできる台所、奥三階建の増築等、根本的な大改修を行った。 現在の社会に金光大神の信心を現す広前としての、働きはついたところである。ここからの「傘一本とは真一心になりきること」を現してゆかねばならない。 更には広太師の長女清子氏がお道の教師を志し、金光教学院へ入学したのも、この開教八十年の年であった。 |
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