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【写真で見る扇町教会の歴史−1−】

真の傘開かれて

扇町教会史 第三集
 写真で見る八十年の歩み
◎ はじめに

 天地は活きている、天地の間にある人間も社会も生きている。生きているということは働きをなし、変化してゆくものである。一人の同じ人間も、一年前と違う人間である。

 扇町教会が開教八十年戦後復興四十年を迎えさせて頂くことが出来た、教祖金光大神様の『氏子あっての神、神あっての氏子、あいよかけよで立ち行く』との天地の道理を、世の難儀な人々に伝え、氏子の願いを神に、神の願いを氏子に取次がれた御信心と御用を、初代教会長押木領七師、マス夫人が『此方の道は唐傘一本で開くことが出来る』との御理解を杖に、同じ道を歩ませて頂こうと、明治四十二年、大阪は梅田の地に公の許しを受けて御広前を開いてより八十年。

 激動する近代日本史のそのままに、扇町教会も御縁を頂いた信奉者も、激動の歩みを進めるのである。特に第二次世界大戦の戦災に遇った教会は、その復興に四年もの年月を要している。二代教会長押木弘一師、富美恵夫人は何故の苦労をしたのであろう。

 はや、初代も二代もその姿を見る事が出来ない。その語る言葉も聞くことはできない。しかし厳然として、扇町教会はここに存在している。激動の中を生き、御用をなしてきた二代教会長が、昭和五十三年一月にその一生を終えて、早や十年、また時代は移り変わっている。この移り変わりの中に人は生き、教会は生きてきた、神様がお働きになった。

 扇町教会史の第一集を編集刊行したのが、昭和四十四年、第二集が昭和五十四年であった。今、開教八十年戦後復興四十年の記念に、この十年間の人の歩み、教会の歩みを整理し、これから先十年の指針を求めてゆきたい。この中に流れる金光大神様の御信心を、今日及び将来の人の助かるために、この第三集をおかげを受けて編集刊行させて頂いた。

 今後とも、十年毎に教会史が編集刊行される事を願うものである。それは、教会が人が生きて助かってきた『証』であるからである。

  平成元四年十月二十六日

金光教扇町教会長 押木廣太  


ここに神人の道生まれる

天地の間におかげ知った者なし。
おいおい三千世界、日天四の照らす下、
万国まで残りなく金光大神でき、
おかげ知らせいたしてやる
■金光大神取次の広前:立教聖場   嘉永3年8月の建築にかかり、明治22年まで金光大神取次の広前としてもちいられたものである。
人間が生きるということは、なんと問題の多いことか。

 人間として生まれて、幸福を願わぬ者はあるまい。みんなが健康で、大人は張り合いのある仕事に恵まれ、子供達は朗らかにすくすくと成長して、親子、夫婦、隣人、互いに善意を信じて、愛しあい親しみあって、その日/\が楽しく生きがいがある、というようにありたいに違いない。にもかかわらず、病苦、生活難など人生の暗い谷間にあえぐ人びとは、あまりにも多いのが、この世の現実である。全人類がひとしく、自由を求め平和を願っている。それでいて世界は絶えず戦争や他からの圧力の不安におびえている。

 この人間の難儀に助かる道を生み出した人がいる。

 この人は、学者でもなければ、伝統的な宗教家でもない。ごく普通の農民であったが、多年実生活の営みをとうして、人間がもつもろ/\の難儀に真剣に取り組んだ。そして、ついにその生きる奥底に神を見出して、天地の間に人間が生まれ住み、人の世の我々が生きるのは、もと/\この神の働きに生かされて生きているからであり、人みな神のいとし子として、かけがえのない生命であることを体得した。そこからすべてに神の働きを受けて人間生活を生き、人の働きに神を現していくという、神・人の働き合いの生き方を体得して、あらゆる人生の苦悩から救われる道を見出した。

 この人こそ、教祖金光大神である。

 安政六年(一八五九)、神はこの人に「世間になんぼうも難儀な氏子あり、取次ぎ助けてやってくれ」と頼み、神(天地金乃神)の願いを受け、終生、広前に座り、人々の苦しみ難儀を神に取次ぎ、神の願い、天地の間に生かされて生きる道理を人々に取次いだ。

 人々、次々に救い助けられゆく中、明治十六年、「三千世界を救いに出る」と現身の御用を終えたが、神と人とのあいよかけよの道は、各地に広まり、今も多くの人々助けられてあり。
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