大阪府第三教会連合会記念日集会において講演 ご用一筋 〜ご用と信心継承〜 那須 善太氏 平成22年1月31日 場所:真砂教会 |
|
御本部祭場での奏楽ご用 親子孫三代、典楽・吉備舞のご用に |
◆はじめに 皆さん、こんにちは。只今、司会の方からもありましたように、私は扇町教会在籍の那須と申します。よろしくお願いします。 いつもでしたら、こちらのお教会では、春と秋の御大祭に奏楽の御用をさせて頂いておりまして、こちらの左側の席に座らせて頂いて、典楽の御用をさせて頂いているわけなんですけども……このように皆さんの前で、正面でお話をさせて頂くというのは初めてで、今足がガクガクしております(笑)どんな話になるかわかりませんが、与えられた時間の中で、一つでも皆さん方のお役に立つようなお話をさせて頂けたらなぁと思っています。神様に使って頂きたいと思っておりますので、どうぞよろしくお願いします。 今、皆様の前に私のプロフィールが書かれた紙が届いていると思います。プロフィールを全部順番にお話させてもらおうと思ったらかなり時間がかかってしまいますので、この中から今日は三つに絞ってお話させてもらえたらなぁと思います。 まず一つ目は、『独立の願いと親孝行』ということについて聞いて頂きたいと思います。二つ目は、『笙のおかげ』についてです。そして、三つ目が、我が家の『信心継承の取組み』についてです。 独立の願いと親孝行 ◆大都会のど真ん中へ就職 私は、昭和の二十年八月二十一日生まれです。皆様もご存知だと思いますが、終戦記念日が八月の十五日です。私はその六日後に生まれたわけであります。私のお店に来られるお客さんで、「あんたは若そうやなぁ、いくつぐらいや?七十か?八十か?」とよく言われるんですけども、私はれっきとした六十五歳でありまして…(笑)ちょっと老けた感じはしますけども、まだまだ気持ちは若く持たせて頂いております。 そのように終戦後生まれではありますが、物資や食料の少ない中、両親は私たち五人の子どもを育てるのに、大変な苦労をしながら育ててくれました。私はそんな両親を見ながら、「大きくなったら絶対に何としてでも、親孝行をしたい、親に楽をさせてあげたい」という思いを持っていました。 学校を卒業すると同時に東京の方に就職をさせて頂きました。田舎といいましても、キツネやタヌキが出てくるようなかなり田舎で私は育ったんです。そして東京のネオンギラギラのところへ出て、もう百八十度全然違う大都会のど真ん中へ就職をさせて頂いたんですけども。その中でとても驚いたことがあるんです。それは何かといいますと、都会のど真ん中ということで、非常に人が多かったということと、ネオンがすごかったですねぇ。それは田舎に住んでおりました私はびっくりしました。そしてもう一つびっくりしたのが水洗便所です。田舎はボットンボットンでしたので、東京で便所に入りますと、ひもを引っ張れば水がジャーッと流れてきれいにしてくれるということにびっくりしました。 ◆押木先生との出会い そういう風に百八十度違う場所に働きに行ったわけなんですけども、しかし働いておる中でも、私は「何か独立をして親に楽をさせてあげたい」とそういう気持ちを持っておりましたので、仕事が終わった後、通信教育で時計修理の技術をマスターしました。二年間で、ひと通りの時計の修理ができるようになりましたので、いよいよ独立させてもらおうと、田舎の両親に報告しに帰りました。そしてその時に初めて扇町教会へ参拝させてもらい、押木先生と出会いました。 そして、押木先生に、私は東京で時計の店を開きたい、独立したいと言うことをお話しました。すると先生は、「商売はそんなに甘いものではない、牛のヨダレのように、細くても長く続く商売が大切なんだから、あなたはまだ二十二歳で若いのだから、とにかく大阪に一度出てきて、三〜四年修行をさせてもらってからでも遅くない」と言われまして、先生の知り合いでありました時計学校の校長先生を紹介して頂きました。 ◆最低の給料で結構ですわ その先生は「これからの時計は、性能も良くなって修理はどんどん少なくなっていくと思います。これからは販売力のある店が伸びていく時代なのですよ。」と言われ、守口市のある時計店を紹介して下さいました。その店は、松下、三洋と契約して、職域販売で業績を伸ばしている地域一番店でありました。 早速、押木先生と私と二人で挨拶に行きました。その時、店の社長の「給料はいくらにしましょうか」との話に、先生は「最低の給料で結構ですわ」と言われました。僕は「あぁ〜えらいことになったなぁ」と思ったんですが、社長は「じゃあ、三万円にしましょう。明日から来て下さい。」と言われ就職がアッサリ決まりました。 私はその時、前の会社では、残業代も含めて十五万円頂いておりました。ということは、五分の一になってしまったわけなんです。そして、更にその中から三万円を毎月両親に仕送りしていました。そうすると、今度の新しいところの給料が三万円ですので、かといって仕送り代を減らすと田舎の両親が心配すると思ったので、その頂いた給料はそのままそっくり仕送りすることになりました。あとは生活費、少し足りませんが、今までの蓄えを切り崩しながら過ごさせてもらうことになったわけなんですが……日曜日になりますと、教会へ参拝させてもらって、お昼ごはんを頂いておりました。先生も心得てくれてまして、「ご飯まだやろ?食べて帰りや」と随分と親切にして頂き、ありがたかったなぁと思わせてもらいます。 ◆一生懸命、誠意をもって 最低の給料からのスタートでしたので、とにかく後は頑張るしかありません。最初思っていた時計の修理部門ではなく、松下、三洋への職域販売が中心となりました。最初は見習いですので、先輩と二人で商売に行っておりましたが、三ヶ月目からは一人で商売に行くようになります。しかし、先輩との信用と経験の違いで、先輩が行くとよく売れるんですが、私が行くと全く売れないんですよねぇ。私には顔なじみが無く、なかなか売上げにつながりません。最初から、商売の難しさを経験させて頂きましました。やはり修業の身でありますので、一生懸命、誠意をもってお客様と接することにより、少しずつではありますが、徐々に売上げも伸びていくようになりました。そして、三〜四年後には、八人の販売員の中で、一、二の売上げができるようになっておりまして、売上げが伸びるとそれに比例して、自動的に給料も上がって行きました。少しは、生活の余裕も出てきましたので、小さな分譲住宅を買わせて頂きました。さらに、その後に結婚もさせて頂きました。 笙のおかげ ◆典楽のご用 そして、その年に、教会の奥様より「典楽のご用をしませんか」とお声をかけて頂きました。その時私は典楽というものをよく知りませんでしたので、「どういう楽器があるんですか?」と奥様にお尋ねしますと、「笙、篳篥、龍笛とあって、龍笛と篳篥は音が出るまでかなり時間もかかるし難しいみたいで、笙は息さえ入れれば音が簡単に鳴るみたいですよ」と言われ、それで僕は簡単に「じゃあ笙の練習をさせてもらいます」ということになったわけです。 早速、師匠に来て頂いて、私の仕事が終わってからの、夜八時から十時過ぎまで教会で毎週練習をさせて頂きました。練習が終わって、家に帰ってからの食事は十一時ごろになるので、時には、体がクタクタになる事もありました。疲れ果てて風呂の中で寝てしまったことも何度かありました。しんどい時もありましたが、今思えば、私以上に師匠も大変な修業を私と一緒にされていたのです。練習の合間には、楽を通しての信心話も、熱心に聞かせて頂いて、厳しくもあり、優しい師匠でありました。それが今でも印象に残っています。 そして、練習を始めてからすぐに、楽器の笙を注文しました。笙というのは、注文してから手作りしますので、二年も三年もかかるんです。出来上がるまでは、師匠の楽器を借りて練習をしておりました。 ◆笙に命をかけさせてもらえ その二年後に楽器の笙が出来上がってきたんですけども、お値段が何と当時五十五万円だったんです。私は困ってしまいました。その時は全くお金がなかったのです。というのは、その笙ができあがる二ヶ月前に、両親に親孝行をさせてもらいたいということで、隣の家を購入して、田舎から親を呼び寄せて一緒に暮らし始めたところだったのです。ですので、頭金としてお金を使っていましたので、全くお金がなかったんですよね。毎日神様にお願いをさせて頂いてたんですが、お金が無いからと言って、手作り品の楽器をお返しする訳にもいきません。 だんだんと年末も近づいてきますので、毎日神様に真剣にご祈念をして、お願いしておりました。そんなある日、ご祈念中に神様から、「笙に命をかけさせてもらえ」というお言葉が聞こえてきたのです。最初は意味がよく分らなかったのですが、「笙に命を……かけさせてもらえ……」じっくりと考えさせてもらうと、「あぁ、そうだ!生命保険をかけてたんだ!」と分らせてもらったんですね。四〜五年前からわずかな金額で保険に入っておったのです。 神様は、「保険を解約してそのお金で笙を買いなさい」とお知らせくださったのです。 そして、命の代償としての生命保険は無くなるが、笙でご用に立てれば、あなたの命は「神が守ってやる。神に任せよ」とのお知らせを頂いていたのです。 早速、保険外交員に連絡をして、解約手続きをさせてもらいました。そして戻ってきた金額がピッタリの五十五万円だったのです。これが本当なんです。私はびっくりしました。「神に願えば何でも聞き届けてやる」との神様は言っておられますが、本当にその通りだなぁと思って、神様にお礼を申しました。十二月三十一日にそのお金で無事支払いが出来ました。ということは、神様は年内中にきちんとご都合をつけて下さったのです。初めてこういう神様の有難みを感じさせて頂きました。元日祭には、真新しい楽器で神様にお礼を申しつつ、新たな気持ちで奏楽のご用をさせて頂きました。 ◆今日帰らないと大変な事になる そして、次の年、楽員認定試験を受けて合格のおかげを頂きました。早速、秋の練習会が二日間にわたり御本部であり、不安と期待を抱きながら、新幹線に乗って金光に出発させて頂きました。 折りしも、岡山地方にかなり大きな台風が接近していました。姫路を越えて相生付近はかなり雨も激しく、すでに川が氾濫して田畑が一面海のようになっていました。「これは大丈夫かなぁ……」と思いながらも金光に着いて、土・日の二日間の練習会が無事に終わり、急いで帰ろうとしましたが、新幹線も在来線も高速道路も、至る所で寸断されており、大阪に帰ることができなかったんです。練習に来ていた楽人百人近くが足止めされてしまいました。 その時に、たまたま月参拝をされていた扇町教会の先生と偶然にもお会いしました。先生は「焦ってはいかん、明日になれば状況が良くなるかもしれないから、今晩は金光に泊まろう」と言う事で一晩、泊まらせて頂くことになりました。だけども、私は朝からイライラしていました。どうしても今日帰らないと大変な事になるのを予感していたからです。……といいますのは、今までも私が典楽の御用で社長に無理を言って、特別に休暇をもらっていたので、これ以上欠勤するとクビになる恐れがあったからです。 午後のニュースで、中国自動車道が部分的に開通したとの事ですので、先生と二人で岡山まで出て、駅のレンタカーを借りに行きました。 しかし、早いものでそこには殆どの車が出払っていて、残りはトラック一台だけでした。トラックは運転したことが無いので迷っていると、予約していた他の車がキャンセルとなり、有難い事にその車を貸してくれることになりました。その車で中国自動車道に入って帰ってきましたが、普段の倍の時間がかかり、大阪へは夜遅くに着きました。その足ですぐに社長の自宅に報告と謝りに行きましたが、社長には「他の社員の事や仕事の段取りも狂ってしまったので、そんなに休まれると困る」と叱られてしまいました。 次の日、私はとうとう、会社をクビになってしまいました。 ◆クビになったことが、お陰? 私は九年間、修行とは言え、八人の営業マンの中では常に一、二の売上げをして、会社にはそれなりの貢献をしてきたつもりだったんです。それを簡単にクビになってしまったので、自分の存在は一体何だったのか。思えば思うほど腹が立ってきて、あまりにも自分が情けなくて、悲しみも込み上げてきたのを思い出します。 憔悴しきって教会にお届けをすると、先生は「良かったな、お陰頂いたなあ」って言われたんです。「こうでもしないと独立できないんやで。あなたは今までのんびりしてきたから神様が思いきって宿題を出してくれたんやで。振り返って見なさい、あなたの願いは一体何だったの?親に孝行するための独立の願いだったんじゃないのですか?それに対してあなたは今までどんな取組みをしてきたんですか?これまでも、家を購入して、毎月の宅祭の祝詞で独立できますようにとお願いしていたのに、あなたは店では一番の高給取りになってしまって、ましてや家族もできたから、安定した生活を望んでしまったんじゃ無いんですか……?神様はあなたに初心を忘れないようにと、台風を通じて会社をクビにしてくれたんや。これで独立するしかないじゃないの。さあ、明日から信心をしっかり頂いてお陰を頂こう。」そのように先生は言われ、憔悴しきっていた私を諭して、励ましてくれました。 ◆神はからいは奇しくて しかし、私には、両親と子供二人の、家族六人の生活がかかっていましたので、内心、途方にくれてしまいした。独立の願いはずっと持っていましたが、あまりにも急なことで、資金もなければ商品もなく、店舗を持つことすらできないのです。 しかし、今から振り返ってみますと神様はちゃんとお働き下さっていたのです。会社をクビになる一週間前に、国鉄を紹介して下さった方が偶然にも、金光教の信者さんと分かり、私のその時の事情を知って、私が国鉄ですぐに商売が出来る様にと交渉してくれました。その方のお陰で、吹田操車場や宮原操車場で商売が出来るようになりました。また、商品も仕入れできずに困っていた所、好意的に委託商品を貸して下さった方も、実は卸業を営んでいる教会の信者さんでした。 典楽のご用でクビになって、独立のきっかけを作ってくださったのも神様ですが、独立の準備をして下さったのも、神様のお働きによるものでした。私自身の力は何もなく、まさに「神はからいは奇しくて」人間の力では及ばないところで、神様はちゃんと道をつけて下さっていたのです。本当に有難く恐れ入った事でありました。 ◆一番苦しく大変な生活 日々教会長先生に祈り祈られ、願って頂き、神様のおかげで独立の準備もさせて頂きました。これで国鉄への出張販売の準備が整いました。 最初は新顔でしたのでまったく信用もなく、大変苦労をしました、国鉄の操車場は二十四時間営業ですので、朝から晩の遅くまで、毎日休みなく職場を回り、まずは顔を覚えてもらえるように努力しました。そのため、少しずつ信用も付いてき、高額商品も売れるようになってきました。 ところが、売れば売るほど大変なことが分かってきたのです。国鉄のお客さんは、給料から十回払いの月賦で買ってくれます。そして国鉄からは、私への口座に、全額ではなしに、十分の一ずつしか入金されないのです。と言う事は、売れば売るほど、伝票上の売掛金がどんどん増えていくのですが、お金は十分の一ずつしか入ってこないのです。ですので、商品は売れて減っていくので仕入れしないといけませんが、資金が回らなくて大変苦労をしました。 家庭の中では、子どもは一歳と二歳で、その上、二軒目の家を買って両親と住み始めたばかりでしたので、独立したといっても最初から大変な生活を強いられました。子どもたちの衣類を買うにもお金に困り、妻も生活のため内職をしたり、子どもを保育所に預けてパートで働きに行ったりと、この時代が一番苦しく大変な生活が続きました。 そんな中でも毎月の宅祭は続けておりました。妻も神様に祈り続けておりましたが、今から思えば、そんな厳しい生活から逃げずによく頑張ってくれたと、今では感謝しております。 ◆真心こめてお迎え そして何年か後、先生は、「商売を長く続けるには店舗を作りなさい。小さくても、一国一城の主となれば信用度が違うから」との事で、家の二坪ほどの小さな庭に簡単な店舗を作らせてもらいました。店舗と言っても資金がないので、ドアと窓一つという簡単な店でありました。この店が後ほど、職域販売の商売から店舗販売へと転換していく第一歩となったのです。しばらくして、国鉄は民営化されてJRとなり、職域販売もだんだんとできなくなってしまいました。 その後、家の近くのスーパーの前に、十二坪ほどの店輔を持たせて頂き、日本の経済史上、最大のバブル景気が始まって、私の店もかなり忙しくなってきました。しかし私は典楽の御用や、四年間に渡るPTAのご用などで大変忙しくなり、その間、店はほとんど妻が頑張ってくれておりました。 その後、バブルが弾けてすでに二十年が経ちますが、日本経済はいまだに回復ならず、景気も低迷しております。今でも同業者の廃業が続くなか、厳しい現状ではありますが、息子が中心となって、私達夫婦と三人で、宝石・時計・メガネの店として、神様に守られながら今日までお陰を頂いております。 お客様は、数多くある店の中から、私の店に来店いただいた事に、真心こめてお迎えをさせて頂き、お客様の要望に少しでも満足して頂けるような接客を常に心がけて掛けております。お客様が、「またあの店に、行きたいな」と思って頂けるように、日々努力いたしております。 私の店には、教会長先生に書いて頂いた、大きな掛け軸がかかっております。 『大切にしたい』とのタイトルで 大切にしたい 私の命 あなたの命 生かされている今日の命 お役に立ってこそ輝く命 今日一日を 心をあわせ手を携えて 喜びの種をまき みんなの暮らしが幸であるように と書いて頂いております。 お客様の幸せと豊かな生活があって、私達の店も成り立っております。これからもこの気持ちを忘れずに、神様に願い続け、神様に守られながら日々、うれしく、楽しく、ありがたく、元気に取組んでいきたいと思っております。 ◆一生の典楽御用として 私は、今も神様から命と引き換えに頂いた笙という楽器を、一生の典楽御用として、体の続く限り続けさせて頂こうと思っております。 今までの三十二年間、怪我、病気、過ち一つなく、御本部での大祭奏楽の御用や月例祭に、一度も途切れることなく続けさせて頂くお陰を頂いております。 また、教会での大祭や霊祭、さらには地方大祭など、神様にお任せした元気な体と、守られている安心な心で、忙しく御用をさせて頂いております。 典楽には、研究熱心なる練習と努力と忍耐がいります。「楽は神様へのお供えもの」とよく言われますが、影も形も見えない神様に、典楽の「心と形」を、どれだけお供えし、喜んでいただけたかは、それはめいめいの「我が心の中にある神」にかかわってくるのではないでしょうか。楽の御用には、仕事や健康のおかげ、それから財や時間の御都合、さらには、家族の理解まで、すべての御都合を神様から頂かねばなりません。御用の大切さや有難さを、さらに信心を深めながら、分らせて頂きたいと願っております。 信心継承の取組み ◆子孫に伝わる信心 また私は信徒総代と輔教の御用もさせて頂いております。教会長先生は、信奉者一人ひとりの助かりを願い、開かれた教会として色々な活動に取り組んでおられます。私たちはその働きの中で教会長を補佐し、諸活動の手助けをさせて頂こうと思っております。 輔教になりますと、研修会に参加しなければいけませんが、その後の班別懇談会では、必ず信心継承で悩んでいるとの話が出てきます。「私以外は誰も信心をしてくれない」とか、「子どもは小さい時には教会へ参っていたのに、大きくなったら教会に行かなくなってしまった」とか、「私の代で信心は終わってしまうのだろうか」とか、どうしたら信心継承が出来るのだろうかと多くの方が悩んでおられます。 それぞれの家庭事情によっても異なりますし、また相手に信心を押し付けると逆効果になる事もあるので、一概にこのようにすれば信心継承ができますよという答えはなかなか見つからないように思います。私の家においても、親から教会へ参りなさいと言われたことはありませんし、私も子供たちに信心を強要した事はありません。ごく普通の一信奉者の家庭だと思っております。それでも、私の家では今日まで、親、子、孫と、皆で教会参拝が続いております。 教祖様は御教えの中で、「信心は何を目的にすれば良いか、商売が繁盛するようにとか願って参るが、それは一時の事である。信心は、末の安心を楽しみにしないと続かない。末の安心のためには、自分一人がお陰を受けただけではなく、子孫に伝わる信心が大切である。」と言っておられます。 そこで、信心継承の参考になるかどうか分りませんが、私の三人の子どもたちと孫のことから少しお話をさせて頂きます。 ◆知らず知らずの間に教えを聞いて 子どもたちは小さい時から、親と一緒にお参りをして少年少女会でブラスバンドやその他の行事にも参加をしておりました。中学生になると息子はそれぞれ典楽の笛と篳篥を習い、娘は小学生から吉備舞の御用をさせていただくようになりました。 ちょうどそのころ、私達親も独立して大変に忙しく、子どもたちにかまってやれずに、日曜日の度に子どもたちだけで教会へお参りをして、行事に参加しておりました。先生からは、御教えや子ども向けの信心話などいつも聞かされおり、その教えが少しずつ体に入っていたのでしょうか。 娘が小学校五年生の時、国語の授業で「いのちについて考える」というテーマの中で「死ぬことについてどう思いますか」との質問に、「死ぬということは、体と魂が分かれるという事だから、体は土へ、魂は神様のもとに帰り、魂は守ってくれるからずっと一緒にいるのと同じです」と発表して、担任の先生が驚いたそうです。その娘も今では小さい時からの願いであった、保育士になって、毎日赤ちゃんや子どものお世話をさせて頂いております。これも、知らず知らずの間に教えを聞いて、「私も何か人のお役に立ちたい」と思ったからだと思います。親に言われなくても大学受験の時や、何か悩みや問題があれば自分でお届けをして、自分自身の信心を求めてお参りするようになりました。 これも、それぞれの御用を通して神様により近づき、「信心が日常生活にはなくてはならない、大切な心のよりどころ」、となっているように思います、 ◆独身時代から続く宅祭 又、もう一つ有難いなぁと思うことがあります。私の家では、結婚して三十六年が経ちますが、その前から、ずっと宅祭をさせて頂いております。二年前までは私の母も同居しておりましたので、母からすれば、息子、孫、ひ孫、四代全員が集まり、それは賑やかな宅祭となっておりました。小さい孫などは、お祭りの最中でも静かにせず、ドンチャン騒ぎをしておりましたが、それでも先生は、「小さいときはしゃあないわ。大きくなれば、おとなしくなって宅祭の意味も分ってくるやろうから」と言って大目に見てくれています。 その私の母も、二年前に九十歳でお国替えをさせて頂きましたが、晩年は、孫やひ孫たちに囲まれ、日々神様にお礼を申しながら、過ごしておりました。 今では息子達も結婚して、家が三軒となりましたので、毎月順番に宅祭をして頂いております。また教会では、親、子、孫、若嫁さん共に、典楽や吉備舞の御用もさせて頂いております。さらに、小学校一年生の孫も祭員の御用をさせて頂いておりますが、この男の子が一番ヤンチャで、いつも手をやいているのに、祭員の時だけは真剣に御用をしております。その祭員の御用は、親からお願いしたのではなしに、自分から先生に、「御用させてほしい」と願い出たそうです。それに対して、心よく受け入れてくださる先生の願いの大きさに有難さを感じております。 このように、私の家では小さい時から教会に参り、何かの御用を積極的にさせて頂いております。 ◆おわりに 振返りますと、私たちは結婚してからの二〜三年は、普通は楽しいはずの新婚生活が、神様から難題を次から次へと与えられました。笙の購入の事や、台風でクビになった事、両親との同居や、独立後の商売の苦労、PTAで忙しかった事や、両親が亡くなった時の事など、数え上げればきりがありません。これに対して私達夫婦は、その都度お取次ぎを頂き、時には先生のキツイお言葉も、神様からの願いだからと受取り、次々に起こってくる問題にも逃げずに、辛抱の棒も折れずに、ただ神様を信じ、夫婦力を合わせて、大難は小難に、小難はおかげへと一つ一つ乗り切らせて頂きました。 この様に、私達夫婦が助かって来たことを、先生はすべてご存知で、宅祭の時などにも話をしてくれております。そして子や孫に、信心の大切さや、御用の大切さ、宅祭の大切さや、さらには親の大切さの話しもしてくれています。子どもたちも小さいときから、何も分らないながらも、神様や霊様に手を合わせ、信心は理屈ではなく知らず知らずのうちに体に沁みこんで成長と共に先生の御教えや信心の大切さも徐々に分ってくるのではないのでしょうか。 昨年、扇町教会では、開教百年祭が執り行われました。扇町教会史、第一巻、二巻、教会百年のDVD作成など、多くの信者さん達が御用下されて、有難く、麗しく、印象に残る記念祭、直会宴のお陰をいただきました。 私たち家族も、それぞれの所で御用にお使い頂き、大変有難く、嬉しく思っております。今日まで、おかげを頂いてきた一つには、子どもたちも含めて、典楽や祭員の御用までもさせて頂ける、そういう環境の整った教会にあって、「皆が助かってくれ」との教会長先生の熱意のある、開かれた教会の体制が、私たち信奉者のおかげに繋がっているようにも感じます。今日までお祈りとお導きを下さいました教会長先生と奥様に厚くお礼を申し上げる次第であります。 これからも、私達、家族皆が、まずは健康のおかげを頂き、子や孫たちに、特に今の世に大切な教祖様の御教えを頂き、神様が一番願いとされています、子孫繁盛、家繁盛へと信心が伝わるように、親として心から願わせて頂いております。 私の家のことばかりの話になってしまい、皆様方に信心の上でどれだけ参考になったかどうか分りませんが、分りにくい話を最後まで、お聞き頂きまして、誠に有難うございました。 |
【プロフィール】 昭和20年8月 35年3月 42年2月 46年 48年5月 49年4月 50年7月 10月 12月 51年7月 9月 10月 60年3月 61年5月 62年3月 平成2年〜4年 2年10月 17年12月 20年 4月 |
疎開先の和歌山県田辺市で出生 東京の会社に就職 ※時計修理の技術を習得 扇町教会の押木先生と出会い、大阪・守口の時計店に就職 家を購入 結婚 典楽練習を始める 長男 誕生 次男 誕生 隣の家を購入 両親同居 楽器の笙購入 より笙に命をかけさせてもらえ、との声を聞く 典楽認定試験に合格 本部の練習会、台風で帰れず1日無断欠勤で解雇 ※神様が私に目を覚まさせた独立し、国鉄へ職域販売 長女 誕生 店舗開店 父 帰幽 PTAのご用 家の新築建て替え 輔教任命 母 帰幽 息子が中心に3人で店を運営 |