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因果応報

 昔、縁日などでいろいろな小屋が建てられた。その中に、妖怪の見世物小屋があった。首の長い人や、蛇人間などの妖怪に扮した人や物を見せる小屋である。子供の頃、親の言うことを聞かないと、『見世物小屋に売る』と言われたものである。

 その見世物小屋の口上へ(呼ひ込みの言葉)に、『親の因果が子に報い、かわいそうなはこの子供』というのがある。親が悪い事をしたので、子供にその報いがきて、妖怪人間になったということである。これは、その昔、仏教が庶民に分かりやすく教えを伝えるために、狂言や物語、絵馬で、勧善懲悪を解き、悪い事をすると、子供や子孫に報いがくると、教えたことに始まるようである。

 『因果応報』という言葉もある。しかし、その『因果』と『応報』がどのような方程式になるのか、科学的にははっきりしていない。ただ勉強さぼると入試にすべる、働かずに遊んでいては貧乏する。というような『因果』と『応報』の関係なればすぐに分かるが、『親の因果が子に報い』はどうも分かりにくい。

『因果』の内容が、人を殺す、人を騙す(ウソをつく、ずるいことをする)、人の心をもてあそぶ、男女の道を外す、恩を仇で返す、人を虐待する、堕胎する、近親相姦をする、生き物をむやみに殺す、親に不孝する等をしてぬくぬくと生きている。いい生活をしている。ということであろう。

 しかし、このようなことをしても、その子供が蛇人間になったりはしない。それでは『因果応報』はないのか?法にさえふれなければ、いや法をごまかし、見つからなければ、何をしてもいいのか? 世間で言う、それは要領のいい人、世渡りの上手な人ということなのか?

 そうなれば、藤田まことの『必殺仕事人』にでも頼まねば、まともに生きている人はたまったものではない。このシリーズが流行るのも、なにか現代の世相を反映しているように思える。

 本当に『因果応報』はないのか? 私はやはりあるように思えて仕方がない。それは、子供が蛇人間になるというようなことではない。理由のーつは、人間は必ず年をとり死ぬということである。年をとると、人間は寂しくなるものである。いかに要領よく財産を貯めても、人の恨みをかっていると、孤独な老後を生きることになる。体がだんだん不自由になり、衰えを見せてきて、孤独ほど辛いものはない。人間は人間同士温かく触れ合ってこそ幸せである。また、その一生を終え死ぬ時に『いい人だったナ』と言われてこそ、生きてきた甲斐があるものであろう。大小様々な葬儀を会葬したり、仕えたりしてきたが、中には、泣く人の誰もいない葬儀もあった。亡くなった人の生き様がその葬儀に現れる。

 理由のニつは、親の生き様が良きにつけ悪しきにつけ、子供に影響するものである。よく親が『親の悪いところばかり似て』ということを言う。誰しもが経験したことであろう。それほど親は子供に影轡を与えるものである。親がズルイことをして金を貯めると、その子供はグウダラになり、金を湯水のように使ってしまう。あるいは、その金を当てにしてフヌケの生き方をする。男女の道を親が過つと、その子供は親を軽蔑しつつふしだらな生き方になる。人間にとって、親にとって、我が子がグウダラやふしだらになることほど辛いことはない。子供は自分が生きてきた証であるからである。

 藤田まことに頼まなくても、『因果応報』はこのようなこととして現れる。そこで、『応報』が怖いので、悪いことをしない、ズルイことをしない、というのではなく、一度しかない人生、かならず年をとり、やがて死ぬ人生、それでいて、子孫に影響を及ぼす人生であるならば、仕事に、人間関係に、お金に、物に、夫婦関係に、親子関係に、理念と信念とを持って生き抜いてゆきたいものである。その理念と信念を培ってゆきたいものである。
(H4.3.29 一般配布131号)




真の助かり

 新しく教会へ入って来られる人々は、なにかオドオドしておられます。それは、初めての所へ入って来るのですから、当然のことですか。それ以外に、

 『本当に助けてくれるのだろうか? 変なマジナイや法外な物を買わされたりしないだろうか? 人を勧誘せよとか、先祖の霊を捨てよとか、気味の悪い霊がついているとか言われないだろうか?』
 との不安があるように思えます。

 難儀をしている時は、誰しも助かりたい、楽になりたいと願うものです。自分の力ではどうしようもないので、神仏にすがりたい、宗教で助かりたいと思うものです。ところが、世間で話題になっているように、人の難儀を食いものにしている宗教紛いのものが多くあり、信心したくても、どの信心が本当に助けてくれるのか、分からないのが、事実のようであり、不安はそこからもきているようです。

 Aさんが初めて教会へ来られた時は、青い精気のない顔をしていました。事情を聞くと、若い時に友人と二人ドライブをして、友人がハンドルを切り間違い、堤防へ激突して、大変に怪我をしたそうです。その後遺症で、鞭打ちになり、首からの神経で、身体中痛んだり、天候の悪い は頭が重くなり、ゆううつな日々を送っている。医者に長年かかっても治らないとのことである。

 そこで、ある日の新聞折り込みで、どのような難病も治すとの広告があり、望みをかけて行ってみた。そこはマンションの一室で、受付には数人の女性がいて、「ここの先生のご祈祷で難病が治った」との雑談をしている。来てよかったと思った。受付で生年月日や家族構成、職業などを記した。自分は自営業をしていることも記した。

 中へ呼ばれて入ると、そこには、大僧正のような衣類を着た人が座っており、祭壇には大きな水晶玉ようなものが置かれていた。大僧正のような人は私の調査票を見てから、五分間ほどご祈祷をした。その後「この病気は、八代前の先祖の霊が浮かばれないことにより、おこっている。私が一年間毎日ご祈祷をしてあげよう。私のご祈祷がなければ、君は今年中に死ぬことになる」さらに、「一回のご祈祷料が一万円であるから、一年分先に支払いなさい」と、言われてとのことである。

 Aさんは「これは本当のことてしょうか?」と尋ねた。そこで「人間は生まれた限りは必ず死ぬ。それが明日なのか、十年先なのか誰も分からない。ただ、本当の宗教家であれば、難病で苦しんでいる人に、『今年中に死ぬ』というような脅しのことは言わない。例え、そうであっても、今生きていることを大切にし、希望を持つように教える。さらに、『一回のご祈祷料が一万円』というようなこともない」と言った。

 Aさんは半年もせぬうちにおかげになりました。

 金光数の信心は、加持祈祷・まじない等なく、縁談に相性をみることなく、家を建てるに方角日柄をみるに及ばず、素直に我が心を神様に向け、日々生かされていることをお礼申し、物事の道理、天地の道理を悟って、心を改め喜びを見つけだし、生き生きと日々を送ることにあります。さらに、身の上に難儀が生まれた時には、何事によらず、ありのままを素直にお願いしてゆけば、おかげになってゆくのです。

(H4.10.16 一般配布138号)

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