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 No.59
平成十八年 信心のモットウ
『人心を出すな人心は人心だけ、
          神心を出せば神心だけのおかげはある。』

『神心 人心』 (8)
『親心が分かれば、神心が分かる』


 赤ちゃんにお乳を含ましているお母さんほど、慈愛に満ちた顔はありません。無条件の愛情が注がれています。また、おしめを替えているお母さんの顔は真剣そのものです。赤ちゃんが排出した便に異物が混じっていないか、赤ちゃんの健康を便でチェックします。更に、赤ちゃんの泣き声で、お乳か、おしめか、あまえか、ねむたいか異状事態かを即座に判断します。また、夜に疲れて寝ていても、お母さんは授乳をしたり、赤ちゃんの様子を見ます。

 このお母さんは、これほどのお世話を無条件でしています。代償を求めません。まさに、神様が無条件に私たちを生かしておられるのと同じです。私たちは夜寝ると朝までグッすりです。その間に昼間の疲れをとってくださり、内臓をはじめ、筋肉、筋、脳など全ての働きをリフレッシュして下さいます。自分自身が気づかない間のことです。なんと有り難いことでしょう。

 赤ちゃんは、そのようにお母さんのお世話を受けていても、お母さんに『お礼』をいいません。してくれて当たり前とも思っていません。

 大人の人間も神様に対して同様ですが、大人の人間は、神様の無条件のお働きと愛情を分かることができます。それが『神の氏子』の所以です。

お母さんの赤ちゃんにそそぐ無条件の愛情を知り、神様の愛情を分からせて頂きたいものです。そのことが分かると、より神様の愛情を頂くことができます。受けとめることができます。
                           ○
 次に、少し子供が成長して、中高生の頃をみてみましょう。テストや入試が近づいてくると、子供は本人ですから勿論のこと『良い成績』をと、イライラしてきます。

同じように親も子供に『良い成績』と願いをかけます。子供は目の前のテストや入試に目標を定めます、本人ですから。親もそうなのですが、少し違います。勉強に取り組む子供の健康を願います。そして、この勉強が子供の人生に良いことであることを願います。

  『良い成績』が取れると本人は大喜びです。勿論、親も喜びますが、成績そのものを喜んでいるのではありません。子供の人生に光りが差し込んでいるように思えて、喜んでいるのです。

 人生にはいろいろな問題が起こりどうしに起こってきます。目先の問題をクリアするために、人は神様へ願います。信心(神様と人間の関係があること)をします。おかげを頂いて、問題がクリアすると、本人はヤレヤレです。
 
神様のおかげでと、感謝するのですが、自分の働きを評価しています。また、病気などであれば、ヤレヤレです。
 神様は『氏子の喜びは神の喜び』としておられますが、そのクリアした事柄や問題ではなく、信心して、『良い質の人生』となるように願いをかけておられるのです。それは、親が子供の人生に願いをかけているのと同じです。


                                                                                 【平成18年9月 No.386「光道」巻頭言より】 
 No.58

平成十八年 信心のモットウ
『人心を出すな人心は人心だけ、
神心を出せば神心だけのおかげはある。』


『神心 人心』 (7)
『人間の計算を放れたら神心となる』  


 教祖様の直信(教祖様から直に教えを頂かれた先生方)であります近藤藤守先 生(難波教会初代教会長)は、明治十四年(1881)頃から教祖様ご帰幽の明 治十六年(1883)十月まで、度々教祖様の元へご夫婦お揃いで参拝をされ、 親しく教祖様から御教えを頂かれました。

今のように交通機関が発達していません。船(蒸気船が瀬戸内海航路で利用さ れるようになった頃)で行く場合は、大阪湾の天保山から岡山の玉島港まで一昼夜 。 陸路で行く場合は、陸蒸気(汽車)で大阪駅から3時間ほどで神戸駅(明治5年 =1872=開通、しかし、運賃が高く、庶民はなかなか利用できなかった)。 そこからは、徒歩で約1週間の道のりです。 この道のりと経費、日数をかけて近藤藤守先生ご夫妻は、月の内、二度、三度 と参拝されています。人間の計算でいえば、とても出来るものではありません。                 

                              ○  

そのようなある時の、陸路での参拝時の出来事です。「明石で烏をおとりにして雀を捕っていました。杭を打って烏をつなぎ、その前 にえさをまいて、烏がいるからと雀が安心して来たところを、かすみ網をかけて おりました。かわいそうなことをすると思いました」という話を申しあげたら、 「かわいいと思う心が、そのまま神である。それが神である」 と仰せられた。 と、道中の明石での出来事、それに対しての教祖様が御教え下されたことを、近 藤先生が書き残して下されたのが、教典に載せられています。  ここのところを読むと、『捕られた雀がかわいそうに思った』。それに対して 、 教祖様は「かわいいと思う心が、そのまま神である。それが神である」と教えら れた。
すると、『誰でも、私でも、かわいそうな』という心になります。

はたし て、そんな簡単なものでしょうか。 近藤先生ご夫妻は、大変な経費(片道1週間の宿泊代と食事代、さらにご霊地 の滞在費、帰りの経費)をかけての参拝です。そのような経費を使っても参拝し ておられます。参拝だけでも、『人心』ではできません。 さらに、この『かわいそうな、捕らえられた雀』を村人から買い取り、逃がして やっておられるのです。 

さて、ここが大切なことです。村人はご奇徳な近藤先生に、捕まえた雀を売り 、 臨時収入が入りました。放たれた雀もヤレヤレです。しかし、近藤先生ご夫妻が 旅を続け、その現場から遠のくと、村人はまた、雀を捕ることでしょう。誰でも 分かる話です。近藤先生もそのようなことは分かっておられます。 さて、貴方はどうでしょう。たとえ、『かわいそうに』との心が出ても、『村 人がまた、雀を捕る』と分かっているので、雀を買い取り、逃がしてやることを しないのではありませんか。ここが『人心』なのですね。『村人がまた、雀を捕 る』という計算が、『かわいそうに』との心を打ち消してしまうのですね。 全ての人には神様から『神様の分魂』を頂いています。誰でも『かわいそうに 』 との心を頂いています。しかし、計算が勝つのですね。  近藤先生は、『村人がまた、雀を捕る』ことは分かっているが、『今、神様が 、 この雀を助けるように』とのご神意を頂いたと、神様の御用として、雀を逃がし ておられるのです。後に、村人がまた、雀を捕る、捕らないは関係ないことなの でしょう。ここが近藤先生の『神心』の現れなのでしょう。 『神心』は誰でも頂いていますが、それが発露するのは、信心して神様へ心を 向け、神様のご意志を頂く信心をしてなければ出るものではない思わされました 。
No.57

平成十八年 信心のモットウ
『人心を出すな人心は人心だけ、
神心を出せば神心だけのおかげはある。』


『神心 人心』 (6)
『神心と人心の親切とは何が違うの?』


 六月十八日、大阪布教センター主催の中近畿教区巡教、紀北(和歌山県北部)連合会A会場が日方教会(和歌山県海南市=大阪から特急で、和歌山駅、次の停車駅)で開催され、その講師としての御用をさせて頂きました。 日方教会へは二十年ぶりに参拝させて頂き、その当時は周囲に家屋なく、広々としたところに教会が建っていましたが、ぎっしりと民家が建ち並んでおり、びっくりしました。

                              ○

 無事に講演を終え、研修も終えて教会を退出する時です。各地で講演させて頂きますが、この退出する時が一番緊張します。今日の講演が喜んで頂いたかどうか、皆さんのお見送りの態度で分かります。 その日も緊張しつつ、教会の玄関で靴を履き(靴の状態を見る余裕なく)、外へ出ます。多くの信奉者の方達が「有り難とうございます」とお礼を言って下さり、お見送り下さいます。そのお顔を見つつ、私もお礼を言いつつ、信奉者の方の車に乗ります。まあ、講演は喜んで頂けたのではないかと、自己満足をします。 駅の改札口まで送って下さり、私はホームに入ります。ホームにはその地方のいろいろな案内のカンバン、掲示物があるので、これを見るのも楽しみの一つです。来る時には、お迎えがあるので、とても見る余裕はありません。しばらく掲示物を見ていると列車がホームに入ってきて、指定の席に着かせて頂きます。 列車は動きだしたら、無事に講演の御用をさせて頂いたお礼と、ホットするのも事実です。この日もホットしました。見るとはなしに車窓の景色を見ます。 心がゆったりして、フト、足下を見ました。いつも履いている靴ですが、誰が拭いてくれたのか、光り方が違うのです。出かける時には靴をスポンジの靴磨きで拭いて、汚れはとって履くのですが、その光沢と、この光沢とは違うのです。 靴を脱いで、いろいろな角度から靴をながめました。これは、たんに拭いたのではない、靴墨を塗り込み、布で吹き込み、ブラシングをして光沢をだしたものと分かりました。私は大変に感激をいたしました。 扇町教会に帰るとすぐに日方教会へ無事に帰ったことと、『どなたが靴を磨いて下されたか知りませんが、お礼を言っておいて下さい』と電話をしました。

                              ○

 扇町教会に帰り、この話しを信者の皆さんにしました。ほとんどの人は 『親切はいいことですね』『それも、隠れてするのが奥ゆかしいですね』という答えでした。 さて、この靴磨き親切でして下されたのでしょうか。勿論、それもあってのことでしょうが、もっと深いところからのことではないかと思わされました。

おそらく、私の靴を磨いた人は、 『私たちが助かるために、神様が先生を差し向けて下された。』 『神様の御用として先生はお起こし下された。』 せめてもの、神様へのお礼、先生へのお礼としての靴磨きをされたのではないかと思われます。 勿論、親切は大切なことです。しかし、『親切』は人と人との関係です。親切な人は『いい人・出来た人』です。そのような人は、世間に多くおられます。ボランティアをされている人も多くおられます。しかし、そこに神様は入っていません。人と人との関係です。気の毒な人のお世話をする、また人に親切にするのは、他の人に心を掛けています。 ところが、神様の御用は自分の命の問題、神様へのお礼としての働きです。 同じ事柄(ここでは靴磨き)をしても、神様を根本しているかどうかです。『この道のしんじんは 神・人と書く』と教えておられるのはそこです。 また『人が良いのと、神に信心しておかげを受けるのとは別物』とも教えておられます。人に対しての親切も、神様の御用としてさせて頂きたいものです。すると、お願いやお礼が先に立ちます。
No.56

●平成十八年 信心のモットウ
『人心を出すな人心は人心だけ、
神心を出せば神心だけのおかげはある。』


『神心 人心』 (4)
『いたわりの心』


 『神心』と聞くと、何か特別の心や特別の人の心、特別のことをする心のように思っている人があります。 四代教主金光鑑太郎師のお歌に(四月のお誕生日の方に短冊に書かせて頂きました。)『与へられしいのち おのづからもてるなり このすばらしき いたはりごころ』とありますが、この『いたはりごころ』は『おのづからもてるなり』の心なのです。誰でもが生まれながらに神様から頂いている心なのです。

                                                ○

 結婚をした男女に、『どうして、この人を結婚相手として選びましたか?』との質問に対して、 ・金持ちだから ・かっこいいから ・高学歴だから ・将来性があるから等の条件を押さえて『やさしい人だから』がトップと聞いています。 この『やさしい人だから』とは、『人を思いやる事の出来る人』即ち、『人にいたわりの心を持てる人』ということでしょう。この心が強い人に、人生の全てを託す、結婚相手にしています。 すると、この『人を思いやる心』『いたわりの心』は、人と人を結びつける、一番大切な心といえます。この心は生まれながらに神様が全ての人にお与えになっています。

                                               ○

 夜、一日の御用を終えて、居間に入っていきますと、二才八カ月の孫がすぐさま駆け寄り、にっこり笑って手を握りにきてくれます。ハイハイの九カ月の孫は足下に寄ってきて、私の足を伝って立ち、にっこり笑ってくれます。二人の孫はまだ言葉が充分ではありませんが、『おじいちゃん、御用ありがとう、おつかれさま』と言っているのですね。二人を抱き上げ、頬ずりをすると、疲れなど吹っ飛んでしまいます。その日の御用をさせて頂いたことが本当に有り難いことにしてくれます。この孫達の『いたわり』の行為で。
No.55

平成十八年 信心のモットウ

『人心を出すな人心は人心だけ、神心を出せば神心だけのおかげはある。』

『神心 人心』 (3)


 金光教学院(金光教の教師育成道場)のお広前に、『ふと思う心神心 あとで考える心人心』と高橋正雄先生が書いて下されていました。

 『ふと思う心』と『あとで考える心』とはどう違うのでしょう。『ふと思う心』とは生まれてくる時に天地金乃神様から頂いた『神様の魂』が思う心『本心の心』でしょう。『あとで考える心』とは、人間の智恵で自己保身で考えた心のことではないでしょうか。

 この二つの心が簡単に分かることがあります。電車の座席に腰掛けていて、つぎの駅でお年寄りや体の不自由な人が乗ってきた時、の心の状況でよく分かります。
瞬間に座席を立って席を譲ろうと思います。ところが、その時に、周囲を見回し、若い人が座っていれば、『彼が立てばいい』と思う心が出てしまうことです。

 『瞬間に立とう』と思う心は、理屈も何もありません。『可愛そうと思う心』『神心』が働いて下さっているのですね。ところが『彼が立てばいい』という心は状況を考え、計算をし判断しようとする『人心』ですね。出来れば、立たなくてすむように、との自己保身の心です。『若い人が立てばいい』と理屈をつけます。

 その若い人も立たなかったらどうでしょう。仕方なしに立って席を譲るとしても、「今頃の若い者は……」と愚痴になり、人を責めています。折角席を譲っても、清々しい心にはなりません。
 『ふと思う心』は神様が教えて下された心です。この心を大切に、大きく育て、その心で生きることをさせて頂くと、保身的にならなくても、その人の生活は神様が保証して下さいます。
そればかりか、『先の世までも持ってゆかれ、子孫までも残る神徳』を下さいます。

 『先の世までも持ってゆかれ、子孫までも残る神徳』はその人の『家質』になります。『良い家質』になると、少々の浮き世の風にも飛ばされません。荒波にも沈みません。信心の代を重ねている信者を見れば分かります。
 
                                                            【光道No.381号巻頭言より】
No.54

平成十八年 信心のモットウ

『人心を出すな人心は人心だけ、神心を出せば神心だけのおかげはある。』

『神心 人心』 (2)

 一月の末、ご主人のお仕事の関係でシンガポールで生活をしておられる婦人より、月末のお礼のメールが入りました。

この婦人は再婚されて初めて、金光教という名前と、宗教のあることを知りました。ご主人の親が信心をされ、ご主人も信心しているとうことで、金光教に興味を持ちました。しかし、ご主人と共にシンガポールで生活をしているので、教会がありません。そこで、インターネットで金光教を検索し、扇町教会のホームページに出会いました。

 扇町教会のホームページを読むほどに、金光教の信心の素晴らしさ、神様の有り難さが分かり、扇町教会へメールでお届けをされるようになり、日々、ご主人と共に信心生活をされています。


金光教扇町教会  教会長 押木 廣太先生

お早うございます。

私達のために毎日ご祈念くださり有難うございます。
御蔭を蒙り無事に過ごさせて頂いております事を厚く御礼申し上げます。
先生はじめご家族の皆様お変わりありませんか?

一月も私達に関係ある人々も本当に無事に過ごさせて頂きました。
改めてご祈念頂いて無事に過ごさせて頂いていると感謝申し上げます。

夫が、同僚との間で、今年の信心のモットウの
「人心をだすな人心は人心だけ、神心を出だせば神心だけのおかげはある」
お蔭を蒙らせていただきました。

日本人同僚が三人しかいないのに、三人の中で不協和音が続いていました。
夫は、仕事に対して前向きに、誠実にさせて頂いていたのですが、
後の二人は、非協力的な日々が続き、精神的に参っておりました。
夫が、「相手も助かっていきますように」と金光様に祈らせてもらいながら
精神誠意仕事をさせてもらっていましたら、一月二十七日に話し合いがあり夫は、仕事に対する心構えを丁寧に改めて話したそうです。

そうしたら、夫でなければ「この現場は立ち行かなくなると」二人が分かってくださり、
凍っていた心が溶けたかのように三人で、それは、それは硬い握手をしたそうです。
それぞれの人の目には、熱い涙が、溢れていたと事でした。

その後、「御用にたたせてもらっている」と喜んで夫は、仕事をさせてもらっているようです。

私はその話を聞かせてもらい、信心のモットウの通りと気づかせてもらいました。有難く思います。

先生!「信心させてもらう」って、楽しみが沢山あるんですね!
今月も信心の稽古をさせて頂きますので、ご指導の程お願い申し上げます。

寒さが続きます、ご家族の皆様ともにご自愛ください。

No.53

平成十八年 信心のモットウ

『人心を出すな人心は人心だけ、神心を出せば神心だけのおかげはある。』

『神心 人心』 (1)

 扇町教会はご承知のように、大阪は梅田の繁華街、殊に『ピンク街』といわれるところにある教会です。二十四時間人がうごめき、人間が動物の本能をむき出しにするところです。そのようなところですから、ここに集まる人達は、人の迷惑とかルールとか、とんちゃくしていません。車の一方通行の逆行も当たり前。うしろから車がきても、道をゆずろうとはしません。以前、家内がヨチヨチ歩きの孫を連れて出かけ、帰りは荷物と孫とで、タクシーを利用しました。教会は幹線道を少し入ります。教会の前まで車を付けてくれるように運転手に頼むと、「あの道は入るのが恐いので、ここで降りて下さい」と幹線道路で降ろされ、 ヨチヨチ歩きの孫と大きな荷物を抱えて、教会まで歩いてくるのに苦労したことがありました。更に、このような処のため、営業の終わった各店のシャッターの前には、生ゴミの袋が積み上げられており、そのゴミを朝の五時過ぎに、ゴミ回収車が集めにきます。しかし、店のゴミ、酔っぱらいの通行人が捨てるゴミと、道路はあちらこちらにゴミは散乱しています。

 毎朝、神様、霊様の『お給仕(ご飯やお水のお供え)』を終えて、5時過ぎに教会の玄関を開けます。ほうき、ちりとり、ゴミはさみ、ホース、シャク(手洗鉢の水を替えるための)、バケツを調え、道路(玄関から1mが道路)に立ち、その日の『お清め』の開始です。ゲロ(酔っぱらいがもどしたもの)もあります。ゴミ回収車が落とした生ゴミもあります。ピンクの広告、風俗ホステスの名刺、コンビニのにぎりめしのかじりさし、タバコの吸い殻など、様々なゴミの帯です。そこを時間の許す限り『お清め』をします。


 私は道路の掃除のことを『お清め』と表現しています。コンクリ街ですが、この天地の神様のお体にこの街も生かされていることを思うと、『お清め』をせずにはおれません。

 正月も七日を過ぎた頃でした。玄関を開くと、いつものゴミの料とはほど遠い料の生ゴミが散らかり、異臭を放っています。

 まだ暗い中ですが、ネオンにすかして見てみると、店のシャッターの前の生ゴミの袋が道路に放り出され、そのゴミ袋を車が轢いて、生ゴミが道路にへばりついているのです。

営業用の数個の袋ですから、半端な料のゴミではありません。

 それを見た時「アッ! 神様が正月早々に御用を下された、有り難いことや」と思えたのですね。それは、瞬間のことです。思おうと思って思ったのではありません。

 すぐさま行動に移ります。新しいごみ袋を持ち出し、道路にへばりついた生ゴミはほうきではとれませんので、柄つきのたわしを持ち出し、道路をこすります。バケツに水を入れ、何度も何度も洗います。その横を風俗のお姉ちゃん達が通ります。気が付くと、寒いはずの体に汗が出るほどでした。

 『お清め』が終わった時は、有り難とうて、有り難とうて、神様にお礼を申し上げ、朝の御祈念に入らせて頂きました。御祈念をさせて頂きながら、どうして、このような有り難い心にならせて頂くのかと考えました。

 『神様が喜ばれ、神様がともに御用をして下された』

と分からせて頂きました。

【平成18年2月号 No.379「光道」より
No.52
●今年もいろいろありましたが……

 ある日の朝の御祈念の後……一人の中年の女性(あとで五十二才と言っていました)が飛び込むように入ってきました……。

 目は腫れ、化粧もないその顔には涙が流れていました。ご神殿の前にペタリと座り込み、暫くの間、泣いていました。やおら、神様をにらむように、

 「別れてきました。三十年、尽くしてつくしてきました……もう、いいでしょう……  もう、いいでしょう……これからは、私の第二の人生を生きてゆきます……」

神様に宣言しているようでした。宣言している顔にまた涙が流れます。どのような理由か、その訳さえ言いません。淋しいな笑みを私に向け、会釈して出てゆきました……。


 誰しもが迎える年の暮れ。ボーナスの額を皮算与している人もあるでしょう、病院のベットで伏せている人も、別れた人生を泣いている人も、受験勉強に追われている人も、年を越せず夜逃げの計画をしている人、愛憎の狭間に苦しんでいる人も、川岸のテントの中で震えている人も、デパートの食品売り場でおせち料理を注文している人も……。

 人生いろいろとは言うものの、幸せないろいろであれば良いのですが……。梅田の繁華街で生活をしていると、様々な人生模様を見せて頂く。そのほとんどが『私の人生暗かった……』の人達である。

どうしてそのようになるのでしょうね……。信心していても、いろいろな事柄に出会います。それが生きているということです。木枯らしの吹く冬もあります、カンカン照りの夏もあります。自分はまともに運転していても、横から突っ込んでくることもあります。病気になることもあります。信心をしていない人と同様です。

 しかし、そこで、信心の無い人は、あわててうろたえます。あがきます。あがけばあがくほど深みに落ち込んでゆきます。傷が深くなります。あの時、あのことがあったので……というように、そこから引っ張ります。総崩れになってしまいます。

信心をさせて頂いている人は、『親のある子と無い子との違い』と言われているように、たとえ、うろたえていても、まず、神様へその問題を持って行きます。御取次を頂きます。すると、その問題の本質を導いて下さいます。わめき回ることなく、その問題に対応する道筋が見えます。そして、神様のお力を頂き、その問題を乗り越える力を頂くことが出来るのです。その問題はその問題として解決させて頂き、引っ張らなくてすみます。


 いろいろの年の暮れです。今問題を抱えている人は、来年まで持ち越さないよう、真剣に信心をして下さい。しかし、人によっては『悲劇の主人公』を楽しんでいる人もいます。このような人が多くなってきたことも事実ですね……。


【平成17年12月号 No.377「光道」より

No.51
●心配からはおかげはうまれない

「先生……えらいことになりました……なんとか」

「それは、いかんな……それで?……」

「えらいこってすわ……」

「えらいこっちゃは分かってる、それで」

「先生……なんとか……」

「そんなこと言うたかて、ワテ、どないもようせんよ。あんた、ここへ来たんは、神さんに助けてもらいたから来たんとちゃうん?……」

「ヘエ……そうでんねん……よろしゅうたのんますワ……」

「だれのこっちゃねん、そんな頼りない頼み方されたら、神さんかて、力入れへんは。あんたのこっちゃろ。もっと本気に神さんへ頼まな」。

「ヘエ……神様にお願いします……どないしたらよろしおまっか?」

 日頃いいかげんな信心(神様と義理の関係、みずくさい関係)の信者さんはさてという時に、神様へ向かうことも出来ない。神様に助けてもらいに来ているのに、『お願いします』が出てこない。問題や病気の説明ばかりしている。

「一生懸命にお参りしたらよろしおまんナ」

「それも一つだんナ」

 助かりたいために毎日のように参拝してくる。しかし、パチパチと柏手打って頭を下げるだけ、一分もかかっていない。そして、お結界へ来て「ああでんねん、こうでんねん」と辛い事柄を並べている。そして、最後に「困ったこってすワ……もう、あきまへんワ……」

「先生、一生懸命に参ってまっけど、よけいに悪うなりますワ……どないしまひょう」

「そら、あんた、一生懸命来て、一生懸命に心配してるワ。神さんお願いする言うことは、神さんにお任せするということやん。お任せすると言うことは、どうなっても、文句言いまへん、いうこっちやがな。」

「そんなん、無茶苦茶や、これ以上悪うなったら、終わりですワ」

「さあ、そこやんか、あんた、神さん信じてへんねん。神さんにお任せしたら、悪いようにしはれんということ、信じてへんねん。そやから神さんにお願いしてへんねん。」

「……どないしたらよろしおまんねん……」

「あんた、教会へ来たかて、パチパチと柏手打って頭を下げるだけ、一分もかかってへん。そんなもん、御祈念と言えへん。

 まず、神さんへ向かって、今まで、神さんにどんな態度やった、とないしてたか、どないかんがえてたか、じっくり、見つめてみることや。そこからや。それをしてきたら神さんに誠意を認めてもらう入り口に入ることになるねん。」


 心配もお願いも、事柄はよくにている。どちらも、難儀な事柄がよいようになることである。しかし、根本が違う。

 『心配』の根本は、自己保身、自己中心の心からである。『お願い』は神様に身を任すということである。

『世界中、天が下の者は、みな天地金乃神の子である。天地金乃神のおかげは世界にいっぱい満ちている。そのおかげがなければ空気がないのと同じで、人間は一時も生きてはいられない』

『人間は、おかげの中に生まれ、おかげの中で生活をし、おかげの中に死んでいくのである』

 この天地の道理をしっかり腹入れをすれば、生かされている自分の命が、神様のお役に立てるようにと、お願いしてゆくのである。

『身の上に痛み病気あっては家業出来難し。身の上のこと、なんなりと実意をもって願え』

 『痛み病気』とは、単に病気のことだけではない。人生の上での難しい難儀のことである。『家業』とはその人に神様がお与えになった御用である。

『先へ先へ、これで、先がどうなるやらと、わかりもせぬことを心配ばかりなさるなよ。ご信心しておられたら、神様が、さしつかえるようなことはなさりはせぬわい。日々おかげをもらえば、先がなんぼうあろうと心配はないじゃないか。日々身や心にまつわるお断りをして、昨日のお礼を申し、今日のおかげを願うてありがとうに暮らし、来る明日を楽しんで迎えれば、みなおかげになって、先の心配はないぞ。』

 『心配する心で信心をせよ』とも教えておられます。さてという時に、間に合う信心をさせて頂きたいものです。


【平成17年11月号 No.376「光道」より】