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No:29
●神比礼(かんひれい)

 近頃、教団でよく使われる言葉は『御神願御成就』『神・人あいよかけよ』です。『神比礼』という言葉は、近頃あまり聞かなくなったように思われます。

 私が子供の頃(昭和三十年代−一九五五年以前)では、「神比礼が立った」「神比礼が輝いた」「神比礼を頂き」「神比礼が現れた」というような表現をよく耳にしました。また、父(二代教会長押木弘一大人)の祝詞に「神比礼いや著るく輝き亘り……」とあるのをよく耳にしました。

 『神比礼とは、神の威徳が明らかに現れる状態をも表す。』

教祖様は『御神願御成就』(その内容が『神・人あいよかけよ』)に身を尽くされたとされています。そのとおりですが、『御神願』を『御成就』するのは、おかげを受けて信心をさせて頂く人間の方になります。そうには違いないのですが……。

 教祖様はもっとシンプルに『神比礼』を輝かせられたのではないでしょうか。即ち、神様を主役にし、神様の出番の舞台を作られたのではないでしょうか。人々の人生に神比礼が現れるように、神様の出番を願われたのではないでしょうか。

 人々に『わが身はこの天地金乃神様のご威徳の中に生まれ、ご威徳の中で生活をし、ご威徳を受けて死んでゆく』、この一つを分かりさえすれば、人間のどのような問題も神比礼をもって助かることが出来ると、神様の出番、神様が働かれる舞台を準備されたのです。

 『金光とは、金光るということである。金は金乃神(全ての土台、生命の源を働いて下されているお土地の神様)光は天つ日の光である。天つ日の光があれば明るい。世界中に天地金乃神の光を光らせて、おかげを受けさせるということである。』    

 金光は教祖様が神様から頂かれた金光大神の金光です。即ち、教祖様は天地金乃神様の神比礼を世の中に輝かすために、そのご一生を捧られたのです。天地金乃神様の願いは全ての人間が、この天地の間に神様と共に『うれしく』『楽しく』『有り難く』生きることです。そのためには、人間の身の上に痛みや病気等の難儀があっては神様も人間も辛いことです。そこで『氏子、身の上のこと何なりと実意をもって願え』と導いて下さっています。

 教祖様を初め直信(教祖様から直接教えて頂いた先覚)の先生方のお広前では、神比礼が輝き、昨日今日来た人でも、足の悪い人は足が立ち、目の悪い人は見えるようになり、病気の人は健康になり、仕事の上、経済の上におかげを頂いた人が数多くおられます。その人達が、わが身に受けた神比礼を周囲の人達に教えてゆかれたのです。神様の有り難いことを伝えられたのです。

 扇町教会でも、今年の教祖様百二十年の『百日信行』の間に、世に言う『不思議なおかげ』を頂かれたかたが数人おられます。

【平成15年11月号No.352「光道」より】

No:28

●良い巡りあわせ

 十八年ぶりにタイガースが優勝しましたね。それほど野球に興味のない私も興奮させられました。ましてや『トラ狂』の皆さんにとると、大変な喜びですね。選手の活躍は勿論のこと、星野監督の活躍あってこそですね。

 優勝のインタビューで星野監督は「選手がよくやってくれました」と、選手を褒め、選手を労う言葉が多く出ていました。また、選手はその胴上げの前から、子供が父親にじゃれつくように、監督にすり寄っていました。その姿に感動しました。

 このタイガースの優勝は、監督が選手の素晴らしい才能を引き出し、また選手はそれに応えての猛練習の絶妙の関係と、対戦する他球団の状況によって、出来たことでしょう。

 プロの選手であれば、誰しもその技は一流でしょう。また、監督ならば、選手を結集して優勝へ導くために努力するのは当然でしょう。そのような中、タイガースは監督、選手の『良い巡り合わせ』が生まれ、双方の素晴らしい関係が生まれ、その働きが生まれたのです。更にその関係は、対戦する他球団の状況をしのぐパワーを生み出したのです。


 人間が生きるのは、他の生物と違い『願いを持つ』ことです。この『願い実現』のために人間は生きるといってもいいでしょう。学校へ行って勉強するのも、仕事をするのも、結婚するのも、子供を育てるのも、そして趣味を持つのも、『願い実現』のために努力するのです。自分の『生の証』として、『幸せの証』のために。

 そのために努力するのですが、一人の努力などでとても実現出来るのもではありません。

まず、健康、才能(自分の特質)、家族、時、場所、財、情報、人との出会い等あらゆる条件が調わなければ、その願いは成就しないでしょう。ほとんどの人が、途中で『まあまあの人生』をおくることになります。

 『まあまあの人生』でもいい方です。働き盛りで病気や事故、家族の病気や事故、様々な理由の家庭崩壊、会社の倒産やリストラなど、『悪い巡り合わせ』になる人が多いようですね。

『願いに生き、願い実現』に夢を持ち努力するのですが、よほど『良い巡り合わせ』にならねばなりません。どうすれば『良い巡り合わせ』になるのでしょう。

 金光教祖は、

 『人間は、神様のおかげの中に生まれ、おかげの中で生活をし、おかげの中に死んでいくのである』

と教えておられます。

 この道理を知り、自分を生みだし、生かし、生活の面倒をみて、死ぬにも都合をつけて下さる、神様に心を向け、素直な心でおすがりしてゆけば、人生の『良い巡り合わせ』をつけて下さいます。

 なぜなら、この神様は、天地を動かし、天地の働きを巡らせておられる神様だからです。

【平成15年9月22日号No.269一般配布チラシより】

No:27

●八人目の孫との縁(えにし)

 七月二十七日、次女の高橋浩美が大変なおかげを頂いて、第三子を出産させて頂いた。女子で次女である。

 私にとると『八人目の孫』になる。しかし、それは、上から数えた数であって、私とこの孫とは、毎日、毎日誕生を神様に御祈念をさせて頂いた、かけがえのない、『祖父にとってのたった一人の孫』である。それは、他の七人の孫も同じである。

 今は、母親からお乳をもらい、泣くか寝ているか、起きていても、のぞいても、祖父である私のことなど分かろうはずがない。しかし、私にとると、かけがえのない、孫である。おもわず、ほほえんでしまう。これが『縁(えにし)』というものであろうか。

 この孫は高橋君のご両親が『愛(あい)』と名づけられた。名が付けられて始めて人間の仲間入りである。高橋君のご両親は、この孫の幸せな人生を、人に愛される人間として育つよう、祈りと願いをこめて名付けられたことであろう。

 私もこの同じ思いと願いをもって、この孫を見つめる。この時、ふと思う。それは、この赤ちゃんからすれば祖父である私であるが、私の親からすれば、私は『子』であり、祖父母からすると『孫』である。慈しみと願いをかけられて生まれてきたのである。

 今、生まれたての孫を見つめつつ、私を見つめて下されている、今は霊様となっている両親、祖父母の慈愛と祈りの視線を感じる。

 このように、肉親の親達の慈愛と祈りの視線以上に、親先祖よりこの私、子や孫にいたるまで、その『いのち』を生かし育み、整えて下さる、天地の親神様の慈愛と祈りの視線を感じることがある。

 今、孫『愛』に、生き生きと生きてくれ、心豊かに生きてくれ、大きくお役に立つ人間になってくれ、祈る心と同じ心を、天地の親神様は、全ての人間にかけて下されている。

 人の誕生を間近に見ると、天地の親神様と同じような心にならせて頂ける。有り難いことである。

【平成15年9月号No.350「光道」より】

No:26

●神様スイッチON

 『氏子、身の上のこと何なりと願え』と、全ての人の命の親神様である天地金乃神様は、神様の子供である人間の立ち行きを願われています。

『人が苦しんでいては、神が助からない』

『人間は先のことを知ってはいない』

『神に頼むのに、何もきまりはない。親にものを言うように頼め』

と呼びかけておられます。

それなのに、

『親は、心配させる不肖(困った、出来の悪い)子ほどふびんに思うであろう。神も神の心を知らないでいるものほど、かわいいと仰せになる。親を頼って来る子には、うまい物でもやれるが、来いと言っても、なにかと逆らい、親を仇のようにして、よそへ出てしまうと、どうしているだろうかとふびんに思う。親がそうして子をかわいがるのも、神が人間をかわいがってくださるのも、同じことである。』


 金光教の信心させて頂くのに、何も特別のことはありません。戒律も無ければ、険しい峰々を巡りまわったり、滝に打たれたり、断食をしたり、おこもりをしたり、寒中に拝んで歩いたりする必要はありません。

 それは、全ての人の命の親神様である天地金乃神様は、ありのままの人間生活を守って下されているからです。ありのままの人間生活が順調良く営まれることを幸せといいます。人間の幸せが神様の幸せです。

 ただ、ありのままの人間生活の営みの中で、『わが心神に向けよ』、『信心とは、わが心が神に向かうことである』と教祖様は教えておられます。

 『わが心神に向ける』ということは、ありのままの人間生活中で、どんなささいなことでも、神様に願うことです。『願うことが、神様にスイッチON』となります。いくら神様が助かってくれと願われても、『スイッチON』になっていなければ、助けようがないのです。

 天地金乃神様の広前は世界中であり、神様のご恩徳の中に人間は生かされているので、生活の現場(たとえ寝ている布団の中でも、トイレの中でも)で神様に願えばおかげを下さいます。

 ところが、日頃、神様へご無沙汰している人は、神様へ願うことができません。願いたくても願えません。願う訓練が出来ていないのです。そこで、教会へ参拝して、『わが心を神に向ける稽古』をするのです。

 『わが心を神に向ける稽古』は何も難しいことはありません。一日のことや、気にかかることを教会のご神前で祈るのです。そして、教えのお話しを聞くだけいいのです。

 ただそれだけです。それさえしていれば、ありのままの人間生活中で、『神様スイッチON』となり、神様から『良い巡り合わせ』頂いてゆきます。

【平成15年8月号No.349「光道」より】

No:25

●宝くじ、夢は夢のままがいい

 扇町教会では、世の中の多くの人々に助かって頂きたいとの願いのもと、インターネットのホームページを開設し、自由に金光教祖の教えや、扇町教会の教話集を読むことが出来るようにしています。そのホームページの中に、『ネット祈願』のページがあり、誰でも、人生の問題や難儀を神様にお願い出来るようになっています。

 この『ネット祈願』には毎日、数人の方(インターネットからですから、顔も知らない人達)から、様々な願い事が届きます。扇町教会では、その一つ一つを神様に『お届け、御祈念』させて頂くとともに、その一つ一つの問題に『導きのことば』として、インターネットで返事を送っています。多くの人々に喜ばれています。

 そのような中、先日、次のような『ネット祈願』が届きました。


・Aさん ・女性 ・九州 ・会社員

*『ネット祈願』

 高額の宝くじが当たりました。人間関係が円満にゆきますように。仕事のトラブルが回避しますように。

 (宝くじの問題と、人間関係や仕事の問題は関わりがないように思えますが、高額の宝くじが当たったことにより、人間関係や仕事に問題が生じることを恐れてのことと思われます)


*『導きのことば』

はい、貴女の神様へのお願い、そのままに、神様へお願いさせて頂きます。


 貴女が幸せな人生を送られるよう、アドバイスをさせて頂きます。

○結論から先に書きます。

 この宝くじの賞金は、当たらなかったと思い、誰にも言わずに、すぐに『冷凍』されることです。

 『宝くじ』は夢を買うものです。夢は夢で終わらせねばなりません。夢が現実の生活の中に飛び込んできた時、これは、とんでもない『やっかいもの』を背負い込んだことになります。現実の生活の中に飛び込んできた『夢』が、今まで築きあげてきた生活や努力してきた人間関係や仕事を無茶苦茶にして、『夢』から覚めた時(お金が無くなった時)、何もかも失うことになっています。

 その証拠に、貴女は宝くじが当たり、嬉しいはずなのに、『人間関係が円満にゆきますように。仕事のトラブルが回避しますように』と、願っておられます。そして、今までの貴女の生活に関わりの無かった、顔も知られていない、扇町教会の『ネット祈願』に申し込まれました。宝くじが当たったことにより、このようなトラブルが起こることを予想されているからでしょう。


 少し賢い人は、このお金を運用して、『財テク』をしようと考えます。おそらく、貴女も考えておられることでしょう。しかし、素人がすると、その道のプロの餌食になります。どれほど多くの小金持がこの餌食になったことか。それなら、自分で『財テク』を勉強してこのお金を運用しようとしますと、その方ばかりに意識がいき、『守銭奴』のような人間となり、とんでもない人生となるでしょう。


 家族や知人に宝くじが当たったことが分かると、その人達はどうしても、このお金に意識がゆき、結局はあてにします。貴女がお金を守ると、人間関係が潰れるだけではなく、家族や知人を、人のお金をあてにするような人間にしてしまいます。絶対に知られてはいけません。

 しかし、家族や知人に宝くじが当たったことを知らせなくても、貴女の生活態度や臭いで分かってしまいます。

 ですから、このお金はすぐに『冷凍』されることです。

 十年、二十年の長期の定期預金にして、引出せないようにして、銀行の貸し金庫へ入れておくことです。


 人生には三度の危機があると言われています。一つには、体の危機(大病)。二つには、経済の危機(リストラなどで収入の道が途絶える)。三つには、家族や仕事の崩壊の危機。

 その時にこのお金を『解凍』して、役立てるお金にして下さい。すると、『やっかいもの』のお金から、役に立つお金となるでしょう。


 このようにAさんにメールで『導きのことば』を送っておきました。貴女もご遠慮なく扇町教会の『ネット祈願』へ申し込んで下さい。

【平成15年7月号No.348「光道」より】

No:24

●当世、はやりの『癒し』

 近頃、昔は強面の役柄の俳優さん達まで、優しい顔付きやことばで、癒し系のドラマに出演している。昔の役柄を知っているだけに、何かちぐはぐの感があるが、テレビに出てくる人気のあるタレントさん達はたいがいが、癒し系である。

 ファションをはじめ様々な道具やグッズに癒しをほどこしているのがよく売れている。そればかりか、癒しのペットのから、癒しのロボットペットまで、『当世はやりの癒し』と言える。

 『心の癒し』というが、心を癒さなければならないほど、現代人はストレスが溜まっているのだろう。癒し系の商品だけではなく、露天風呂から、健康グッズまでストレス解消が大流行である。


 ほんの三、四十年ほどの前の日本人の生活は、会社の休みは日曜日だけ。2DKに五人家族、枕を並べて寝る。日々の家族の食卓は一品のおかず。外食など、年に一、二回。着ている衣服は、春夏秋冬の一着づつ、特別のところへ行く時には『よそ行き』と称する特別の衣服。一家の主人は遅くまで残業、主婦は生活を支えるために内職、さらには、子供は中学生からは、生活のために新聞配達のバイト。やっと『月賦』で買った白黒のテレビは一家に一台。それこそ、ストレスが溜まって当たり前の生活……。

 現在では、週休二日は当たり前。家族一人一人に部屋を持ち、冷蔵庫には一杯に食べ物が詰まり、好きな時に好きな物を食べ、グルメをあさり。衣服は、箪笥からあふれ、整理するのにも困るほど。一家の主人は遅くまで残業しなくても給料が入り、主婦や子供のバイトは全て小遣い。海外旅行や温泉旅行。家族一人一人に専用のテレビやパソコンは当たり前。好き放題に生活をしている。これで、どこがストレスが溜まるのか……。


 おかしいですね……。現代人のストレスはなぜ溜まるのでしょう……。

 どうも、『好き放題に生活をしている』ので、ストレスが溜まっているようですね。ちょっと小学生や中学生の頃を思い出して下さい。一カ月間の楽しい夏休みがありました。その頃は、補習授業も塾もありませんでした。宿題も放ったらかして、朝から夕方まで外で遊びました。大変に楽しい思いをしました。しかし、この『好き放題に生活をして』楽しいのも、十日ほどでした。何か『虚しい』思いがしました。

 しかし、だからと言って、勉強に向かうことが出来ませんでした。『虚しい』思いをしつつ、『好き放題に生活をして』いると、ストレスが溜まり、早く学校が始まらないかと思ったことがありました。皆様はそのような経験をしたことがないですか。

 現代人のストレスはそのような単純なものではないでしょうが、何かおかしい生活をしているのでしょうね。癒しのロボットペットのお世話にならなければならないのは……。


 『好き放題の生活』を求めれば求めるほど、心の中には無意識のうちに矛盾を感じるのです。それがストレスになります。それは、神様が造られた人の命は、『お役に立ってこそ輝く命』なのです。小さい子供(人間の原点)を見れば分かります。気儘をしている時の顔と、お母さんのお手伝いが出来て、褒められた時の顔と、どちらが生き生きしているでしょうか。

 また、赤ちゃんにお乳を飲ましているお母さんの顔はどうでしょう。この世で一番幸せな顔をしています。ストレスの解消に癒し系のグッズを買っても、露天風呂へつかっても一時のことです。『お役に立ってこそ輝く命』を分かることです。


 ストレスは『好き放題の生活』を求めて溜まるだけではありませんね。大変な問題を抱えたり、先々の心配があれば、夜も寝れないことがあります。このような時は、ストレスの解消に癒し系のグッズを買ったり、露天風呂へつかったりするゆとりさえありません。

 そのような時には、今日の日まで貴方や人々を生かしてこられた、偉大な神様のことを思うのです。『わが身は神徳の中に生かされてあり』なのです。その神様に心を向けると、出口のない問題に、明かりが見えてきます。『いかなる世の難あらんとも、わが心神に向けよ』です。神様は人の親様ですから、寝ても覚めても心配して下されています。

【平成15年6月号No.347「光道」より】

No:23

●人はパンのみに生きるに非ず……  しかし……

 イエスキリストが荒野で、断食の修行を四十日間ほど続け、飢えと渇きで弱り苦しんでいた時、悪魔が出てきて、イエスの耳元で「もし、お前が神の子であるというなら、この石にパンになれと命じて、それで空腹を満たすがいい」とささやいた。それに対してイエスは『人はパンのみに生きるに非ず』と応えた。

 この教えは、人間にとって大切なことを教えておられます。人間の価値は目先の欲望に囚われることなく、真実を求め、真実の生き方、金光教教祖のみ教えでは『われ、人共に助かる生き方』を求めてゆくことであるという、高邁な生き方を示唆した教えです。

 たしかに、そのとおりですが……。また、『人はパンがなければ』生きてゆけないのです。パンを求めて働き、時には喧嘩を、戦争もします。それほど『パン』は大切なものです。その意味では、『パンを求めて』生きています。

 扇町教会の周辺は、ピンクゾーンと言われる地域で、欲望の渦巻いている地域です。春を売る若い女性達、それに関わって生きる男性達ばかりです。誰も好き好んで春を売りたいと思いません。まともな生き方をしたいです。しかし、『パンがなければ』生きてゆけないのです。『パンを求めて』春を売っているのです。春を売る若い女性達ばかりではありません。ホームレスと言われる人達ち、空き缶拾いで喧嘩をし、残飯の入っているゴミ箱をあさります。


 『人はパンのみに生きるに非ず』の生き方の出来る人は素晴らしい人です。だからこそ、宗祖開祖として、歴史に名を残し、いまもって、人々を導いておられるのでしょう。

 しかし、庶民はなかなか、そうはなりません。調子良く生活が出来ている間は、『人はパンのみに生きるに非ず』と、高尚なことを言うこともありますが、ちょっと、辛い問題や手に負えない問題に出会うと、たちまちのうちに、「悪い霊がついているのでは……」「風水の流れが悪いのでは……」、名前の字数が、印鑑が……あげくの果ては、結婚相手との相性が悪いからだ……。と不安の日々を送ります。これが、庶民の実態です。

 事実、生きている間には、理屈では割り切れない『なんで?、こんなことになるのよ!』ということがあります。高尚なことを思えない庶民の不安を、天地金乃神様は取り除いて下さいます。天地金乃神様は人間の親神様ですから。

 『神を親と思って信心していれば、神の方から子と思う。たとえて言えば、親がいなければ、悪い者に棒でたたかれることもあるが、親がついていればたたかれることはない』と、『生き霊(りょう)・死に霊』や流行病、事故災難から守り、『悪い巡り合わせ』から、『良い巡り合わせ』の人生に導いて下さいます。さらに、『先祖からのめぐり(因縁)、祟りは神が道のつくようにして下さる』と、お約束下されています。

 人生には何が起こるか分からない。どのような難儀に出会うか分からない。それを受けとめるだけの、人間としての中身のないは、無理だと思う人は、日頃から、素直に天地金乃神様にお縋りしていれば安心です。さらに、親先祖から天地金乃神様に信心している人は、気がつかない間に、天地金乃神様のお守りの中に日々を過ごしています。そのことに気づくことが大切でしょう。

 『天地金乃神は天地を一目に見とおし、守っておられる。人間は神の氏子、神のおかげを身いっぱいに受けるように、この身この心を神に向けて信心せよ。何事も無礼と思わないで一心に取りすがっていけば、おかげが受けられる。枯れ木にも花が 咲くし、ない命もつないでいただける。わが身におかげを受けて、難儀な人を助けてあげよ』


【平成15年5月号No.346「光道」より】

No:22

●新入社員は便所掃除から

 バブル崩壊から、構造不況となり、デフレ不況まで進み、各企業は倒産、リストラ等大変な社会となってきました。今まででは経験のしたことのない不景気です。このように評論するのは簡単ですが、実際に企業を営んでいる人々、リストラで職を失った人々、給与をカットされた人々、家のローンが払えず、ホームレスになってゆく人々等、大変なことです。

 そのような不況の中にも、大変な努力により、元気の良い企業もあります。その元気の良い企業の一つに、今年も新入社員を採用することになっている企業の話題が新聞に載りました。そこの会社の社長の談話として、『新入社員は一カ月間便所掃除をさせる』とのことです。採用される人々にとっては、便所掃除でも何でもよい、今の時代で将来性のある会社に就職できれば有難いと思っていることでしょう……。

 何故、社長は新入社員に便所掃除を求めるのでしょう。おそらく、その社長の便所のイメージは、昔の『くみ取り式の便所』なのでしょう。『ご不浄』と言われた便所で、暗くて、臭くて、寒くて、何となく汚い、田舎の無人駅の便所のイメージではないでしょうか。その便所の掃除となれば、嫌なもので、誰もしたくない最低の仕事ということになります。新入社員にはその、『誰もしたくない最低の仕事』をして、心を鍛えてこそ、この不況の世の中の企業人として役に立ち、生き抜いてゆける。そのように考えてのことでしょう。

 さらに、これからの社会は『共生の社会』であり、ボランティアの精神をもってこそ、現代社会で生き残れる企業であると理解されてのことでしょう。


 『誰もしたくない最低の仕事』をさせて、新入社員を鍛えるのもよいことでしょう。また、ボランティアの精神を植えつけることも大切でしょう。

 しかし、便所で考えれば、便所を使わない人は誰もいない。毎日の『お通じ(排尿、排便のことを昔このように表現して、お礼を言っていた)』が止まれば、それこそ大騒動である。大手術をせねばならないことになる。毎日あたりまえのようにある『お通じ』に、お礼の言える人間になるよう、そのような生き方の出来る人間として、その『証』として、水洗便所であろうが、くみ取り式の便所であろうが、真心こめてお掃除をすることを仕込んだらどうでしょう。これは、便所掃除だけではなく、全てのことに通じます。

 ボランティアで、世のため、人のために役に立つ人間となることも大切です。しかし、世のため人のためだけではなく、仕事の出来ること、家族のあること等が有難い、このことに、精一杯のお礼の『証』として仕事をさせて頂くことが出来る人間、人のお世話をさせて頂くことの出来る人間として、内容を身につけばどうでしょう。さらには、食事が出来ることが有難いとお礼の心がおこり、体の様々な働きにお礼を言うことの出来る人間となると、どうでしょう。百回の健康診断に勝る健康管理が出来ることになるのではないでしょうか。


 金光教祖は『木の切り株に腰を下ろして休んでも、立つ時には礼を言う心になれよ』と教えておられます。誰もいない山中で仕事をしている人が、木の切り株に腰を下ろして休んでも、立つ時には礼を言う心になれよ。と言われる。誰に礼を言うのでしょう。

 一つには、体を休ませてくれた木の切り株にでしょう。公園で便所がしたくなり、便所で用を足した後、その便所にお礼を申す心でしょう。『お通じ』を頂いたことへのお礼です。ボランティアではなく、この心をもって便所の掃除が出来れば、神様が働かれます。

 二つには、神様に木の切り株に『良い巡り合わせ』を頂いたことへお礼でしょう。人生を歩む上に、この『良い巡り合わせ』を頂く人と、そうでない人とは、大違いです。

【平成15年4月号No.345「光道」より】

No:21

●心のありよう

 大阪に金光教の教会が百四十軒ほどあります。
この百四十軒ほどの教会の教会長の最高齢は百才の婦人の教会長です。大変にお元気な方でしたが、さすがに百才ともなれば、意識はしっかりされていますが、寝たきりになられました。

 この百才の婦人の教会長のお世話をされている方は、七十代の男性の金光教の教師です。
若い頃にこの教会の後継者として迎えられ、この婦人の教会長の養子となられました。この男性の先生は、教会長であり、義母とある百才の婦人の『下の世話』『食事代の世話』『洗濯』など、生活の全てのお世話をされており、その心構えを次のように語られました。


 元気な義母でしたが、やはり年には勝てず、ここ数年は寝たきりになりました。意識はしっかりしていますが、一人では起きることができなくなりました。施設や病院へ入れるのではなく、出来る限り、自宅である教会で過ごさせてあげたいと思い、お世話をさせて頂いています。

 お風呂は介護の方が来て下されて入れて下さいますが、その他のことは出来るだけのことをさせて頂いています。痒いところに手が届くところまではいかないのですが、精一杯のお世話をさせて頂いています。

 しかし、毎日/\のことです。面倒で、喜んでお世話が出来ない日もあります。してることは常と変わらないのですが、そのような時は、義母は悲しそうな顔をします。このようなお世話ではいけない、もっと、真心を込めてさせて頂かねばと反省をします。

 真心を込めてお世話をさせて頂くには、世話を受ける人の身になって、ということは分かりますが、それだけでは足らないと思いました。そこで、自分の『心の有り様』はどうあったらいいのかと、神様にお願いを続けました。

 ある日のこと、自分が若い頃、この教会へ後継者とし迎えられ、教会長である義母は、若い自分にいろいろと信心の道、人の道を教えて下されたことを思い起こしました。それを思い起こした時、

 『百才の義母のお世話をするのではなく、親先生(師匠)のお世話をさせて頂くのだ』

このことが胸を貫きました。

 それからは、『親先生(師匠)に喜んで頂けるお世話が出来ますように』と日々、神様にお願いをさせて頂き、自分の信心の問題としての取り組み出来るようになりました。すると、お世話が出来ることが、有難くて/\ならぬようになりました。


 『心の有り様』が変わったことにより、お世話をされる方の幸せが生まれています。『心の有り様』がいかに大切かが分かります。

 
金光教祖は『おかげは和賀心(やわらぎ喜ぶ心)にあり』『信心とは、わが心が神に向かうことである』と教えておられます。良い『心の有り様』は自分も周囲も幸せにします。神様に心を向けていくと、良い『心の有り様』になってきます。


【平成15年3月号No.344「光道」より】

No:20

●神様は人の身の上はけっして無駄事はなされない


 人間は神様の氏子ですから、人生の上に苦しいことや、難儀に出会うと、どのような人でも、神様にお願いをします。ところが、神様は声も無し、形も見えずのお方ですから、何時助けて下さるのか、どのように救うて下さるのか分かりません。それで、神様に願うのですが、祈りや願いに熱がはらなくなったり、途中であきらめたりして、「神様に願っても、どうにもならない」と、信心の棒を折ってしまいやすいです。

  確かに神様は声も無し、形も見えずのお方ですが、氏子が真心から願った事柄は、必ず聞いておられます。その証(おかげの『験=しるし』)を下さいます。その『験』を見落とさないことです。そして、願いの成就は、『験』を下された神様を有難く頂き、どのようなことがあっても、『神様と二人連れ』との信念を強め、日々、神様にお願い、お断りしつつ、生活をしてゆくことです。すると、必ず『良い巡り合わせ』を下さいます。


 扇町教会では毎年、一月の成人の日に、『新年会』を開催しています。『新年会』では世間のように、飲み食いや演芸が中心ではなく、わずかな食べ物ではありますが、新年を共に迎えることが出来た喜びを神様に感謝します。そして、そのメインは『信心の福引』です。

 この『信心の福引』は、信者の方がそれぞれの家庭で余っている品(たとえば、銀行などの景品のタオルや石鹸、コップ等)を持ち寄り、教会長がその品をもじって、『導きのことば』を添えます。その『導きのことば』がメインとなります。同じタオルでも、それぞれ違った『導きのことば』です。その中には、当たった人にぴったりの『導きのことば』があります。正に、神様が『験』を下されていると感じます。

 今年の新年会に出席した二十一才の女性は、地方の高校を卒業後、大阪の専門学校へ通い、希望の職種へ就職することが出来ました。ところが、体調を崩し、とても務められる状態でなくなりました。そのような中、扇町教会に参拝し、人生の立ち行きを願っている最中です。なかなか厳しい状況です。

 その彼女は『信心の福引』で『マフラー』を引きました。そのマフラーの『導きのことば』には、

『おおさむこさむ、世の中、寒い寒い。教会は暖ったか。神様に包まれる、お道の信者。信心のマフラー』

 神様は彼女にそのようにメッセージを送られました。体の調子も少しづつは良いほうへ向かっていますが、保証はない。手持ちの蓄えも底をついてきた。なかなか、思うような就職はない。焦り心が出る。この焦り心が危ない。人生を狂わしてしまうことになります。そのように彼女に神様は『おおさむこさむ、世の中、寒い寒い。教会は暖ったか。神様に包まれる、お道の信者。信心のマフラー』とメッセージを下さいました。


 天地金乃神様は全ての人を生み出された『親神様』です。我が子の難儀を見過ごされません。だれでも素直にお願いすれば、必ず聞い下さます。その証(おかげの『験=しるし』)を下さいます。

【平成15年2月号No.343「光道」より】