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No:19

●扇町教会は人生の『日溜まり』

〜 天地の神様の『良い生命の気の巡りを頂き』、人生に『良い巡り合わせ』を 〜

正月早々、テレビで不景気なことを言う人が多いですね。本当に『気が悪い』。社会がどうあろうと、こうあろうと、全ての人に生命を授け、日々生命を生かし、そして、生命を引き取り安心を与えて下さる神様。天地の『生命の気』を巡らせておられる根源の神様は、偉大なお力をもって刻々に働いて下されています。一心に信心させて頂き、『良い生命の気の巡りを頂き』ましょう。たとえ、どのような大きな問題が起こってきても『神は向こう倍力の徳を授ける』とお約束して下されています。

それには、信心の心得

『参る』『聞く』『祈る』『報恩奉仕の行』をもって

天地金乃神様 生神金光大神様に出会い

『良い巡り合わせ(良い天地の生命の気の巡り)』を頂きつつ、

大難は小難、小難は無難にお祭りかえを頂き、

今日一日が、心と体の調子が調い、

『うれしく』『楽しく』『ありがたく』

お役に立てる日でありますように

信心の心得をわが心得として、一日一日と神様を土台としての御祈念をさせて頂きましょう。

 どのような、厳しい風が世の中に吹いても、扇町教会にご縁を頂いている信奉者には、『人生の日溜まり』を頂きます。そのためにも、信奉者の一人一人の個別の問題の助かりと、お一人一人の人生の上に『良い巡り合わせ』を頂かれますよう、三百六十五日、一日も欠けることなく、御祈念をさせて頂きます。

*(『日溜まり』=寒い冬の日に、冷たい風がさえぎられ、太陽の日差しが穏やかに差し込んでいる場所。寒い冬の日の中で、 別世界のようなところ)


【平成15年1月号No.342「光道」より】

No:18

●適材適所は難しい

 OLをしているA子さんが、友達に連れられて扇町教会に初めて参拝したのは、昨年の六月のことでした。

 参拝の理由は、職場の人間関係で苦しみ、トラバーユも考えているほど悩んでいました。

 「職場のB子さんは、結婚してるのですが、子供さんに恵まれず、その課では一番古く、職場を取り仕切っています。良いように取り仕切ってくくればいいのですが、プライドだけは高く、課の仕事の邪魔になるのです。仕事がうまくいかなければ、一番若い私に当たってきます。イジメのようです。課長も古いB子さんには何も言えず、B子さんは、本当に困った人です。この人さえいなければ、いい職場ですのに……。B子さんが出ていってくれますように、会社に出てきませんように……」

 このようなお願いです。A子さんはその会社に勤務をして二年になるそうですが、ホトホトB子さんに困っています。B子さんが風邪でもひいて、会社を休むと、職場が明るいと言います。

 「A子さん、あんたナ、B子さんが交通事故にでも遇ったらいいのにと、思っているやろ」

 「そんな……とんでもない……いや、無意識に思っているかも……」

 「課の人皆が、B子さんは『困った人』と思っているが、二人だけ、『困った人』と思っていない人がいるよ」

 「いいえ、皆、『困った人』と思っています……」

 「二人の内一人は、本人のB子さんや。B子さんはB子さんなりに、『自分は一番古いのやから、一生懸命にせな』と思っている。もう一人は、貴女も、B子さんも命を与えられた、天地の命の親神様や。この神様は『困った人』を生かしておられない」


 次のように、A子さんに話しました。

 天地の命の親神様は全ての人に『神様と同じ心』をお与えになって、この世に出されました。『神様と同じ心』とは、人を愛する心、人の役に立ちたい心、人を愛し人の役に立って喜ぶ心です。そして、全ての人は『神様の手作り』で同じ人は二人といません。その人しかない『特性』を頂いてこの世に生まれました。その『特性』をもって、お役に立つのです。

 企業などでは、人事異動があります。その時に必ず言われる言葉が『適材適所の人事』です。ところが、これが難しい。機械の部品なら『適材適所』の部品をあてはめますが、人は感情というものがあります。一生懸命に仕事をしてきて、『適材適所』で異動させられると、自分が一生懸命にしてきたことへ『適材』では無かったと評価されていると、とります。一生懸命にしてきているだけに、これはショックで、ノイローゼになったり、やる気を失ったり、怨念を残したりします。

 そこで、人は自分の『特性』にあった『働き』や『場』に『巡り合う』ことにより、自身も周囲も幸せになります。この天地の間には様々な『巡り合い』があります。結婚も、仕事も全てが『巡り合い』で成り立っています。『巡り合い』が悪いと不幸です。B子さんは『困った人』ではなく、B子さんにとって、今の職場は『良い巡り合わせ』はないのです。しかし、それを『適材適所』で異動させると、怨念が残ります。

 天地の『巡り合わせ』は、天地の命の親神様がされています。信心する人の『徳』によって、『巡り合わせ』が『良い巡り合わせ』にして下さいます。B子さんを『困った人』とみるのではなく、貴女が信心させて頂き、B子さんに『良い巡り合わせ』を頂くよう神様に願ってあげなさい。


 A子さんはそれから、仕事の帰りに教会へ参拝し、B子さんに『良い巡り合わせ』を頂くよう神様にお願いしました。半年ほどたった頃です。

 「先生、おかげを頂きました。B子さんに『良い巡り合わせ』を頂きました。B子さんに子供が出来たのです。あきらめていたのですが、妊娠したのです。B子さんは大喜びです。大事をとって、退社されます。来週、送別会をします。本当に良かったです、B子さんにとっても、職場にとっても、私にとっても……、有難とうございました」

 このようにお礼を申されました。全ての人に『神様と同じ心』をお与え下され、皆いい人なのですが、『特性』にあった『働き』や『場』に『巡り合う』ことが出来ていないのです。

 あなたも、A子さんやB子さんのように『良い巡り合わせ』を頂かれませんか。

【平成14年12月号No.341「光道」より】

No:17

●日 記

 若い頃、『今年こそ日記をつけよう』と何度も取り組んだが、『三日坊主』でおわってしまい、一生の間日記はよう書けないだろうと思っていた。何故に『三日坊主』に終わってしまったのだろう。平凡に暮らしていると、毎日書き残す必要がないように思えたからだろう。(本当はそうではない。日記をつけるようになって、はじめて分かった)。また、ズボラな性分であるから、『三日坊主』になってしまうのだろう。

 ところが、パソコンという便利な機械が世の中に出てきた。キーボードをたたけば文字が出てきて、簡単に漢字にも変換、間違えば簡単に消せる。なによりも、検索がたやすい。容量も多い。

 このパソコンを日記帳として使い始めたのが4四年前からである。それは日を追うだけの日記ではなく。同じ月日に重ねて打ち込む。
 例えば、平成十年十月十日、平成十一年十月十日、平成十二年十月十日というように打ち込む。

 こうすることにより、七人の孫、子供とその連れ合い等、大切な人達の誕生日や、親等の大切な人の帰幽日を打ち込んでいるので、忘れていても、知ることができる。この頃は、孫達に『おじいちゃん、誕生日プレゼント有り難う』と喜ばれる。遠くに住んでる子供一家にも、メールやファックスでお祝いを伝える。


 このようにして、パソコンで年を繰っての、その日の出来事を知ることが出来るようになった。

 つけてみて、分かったことは、平凡に今日の日を迎えているのではないということである。今まで子や孫の誕生とか、家族の入院とかの大事件は、時々に思いだす。それも、よほどのことがなければ、日々の生活に忙殺されて、忘却している。

 大事件でさえそうである。日々の出来事、日々の出会い、その時々の喜怒哀楽、事柄に対しての考え方、選択の仕方があって、今日の日がある。今の人生、境遇がある。

・あの時、急カーブしてきた車に接触されていたら……
・あの時、ウカッとして、自転車のカゴに銀行から下ろした大金いれたまま、半日も外へ置いたまま、もし、盗られていたら……
・あの時、あの甘い言葉に引っかかっていたら、バブルがはじけ、全てを失っていただろう……

・あの時、あの会合に欠席していたら、家内とは結婚していなかったのでは……
・あの時、友が『自分を小さくするな』と忠告してくれていなかったら……
・あの時、あの人に会わなかったら、心はすさんだままに……
・あの時、夫婦喧嘩をして、腹を立てて、家を飛び出していたら……
・あの時、あの人の誘惑に引きづられていたら……
・あの時、あの番組を見たので、ボランティアに情熱をかけるようになった……

・あの時、やけを起こし、仕事を止めていたら……
・あの頃の、あのような考え方をしていたら……
・あの頃の、あのような生き方をしていたら…

 
そして、いちばん大きな『もし、神様に導いて頂いていなかったら……』である。

 人生とは生きてきた時間、その時間は、時代社会、人、事件、仕事などの事柄、そして自分自身との出会いである。その出会いは『オットット オットット』のことばかりである。日記を見るとそれが分かる。よくこそ、神様が導いて下されたものである。

 よく、人間は努力で人生を開くと、強いことを言う人があるが、その人は、現在それを言える境遇にある人だろう。しかし、明日にどのような『出会い』が待っているか、分かったものではない。『禍福は糾える縄の如し』である。

 天地の神様に導きを頂き、出会う全てに『良い巡り会わせ』を頂いていることを日記を付けて、しみじみと分からせて頂く。


【平成14年11月号No.340「光道」より】

No:16

●良い巡り合わせを頂こう

 初めて教会へ入ってこられる方の多くに『何か、悪い霊をついているのではないでしょうか?』と言われる方が多い。その人達は一生懸命に努力をして、それぞれの持ち場を努めて生きているのであるが、思い通りにならず、不幸が重なったり、努力したことが裏目に出たりしているのでしょう。一生懸命に努力をして生きることは大切なことです。努力もせずに幸福になれるはずがありません。勉強せずに良い成績が取れるはずがありません。努力していることが報われないは辛いですね。何故、報われないのでしょう。

努力していることが報われない理由に、三つの原因があります。

○一つには、エネルギーが無くなるタイプ

 長い登り坂を、九分どうり登って、もう一歩というところで、エネルギーが切れてしまい、辛抱の棒を折ってしまい。坂を転げ落ちるタイプ。

 このタイプは、取り組んでいる事柄を自分の力でやろうとしているからです。自分の実力を知らないのです。取り組んでいる事柄を『神様からお与え下された事柄』として、神様の御用として受け取り、神様にお願いしつつ、周囲の人々のお世話を受け、そのことにお礼を申しつつ、あせらず、我をはらずに取り組めば、神様がエネルギーを下さいます。

○二つには、欲を出しすぎるタイプ

 物事に取り組むのに、『願いを持つ』のは良いことですが、あまり、あれもこれもと欲を出すと、持ちきれなくなり、もともこも無くしてしまいます。自分は何を大切にしているのか、何のために取り組むのかということがぼやけた人です。子供が大金を持つようなものです。身を滅ぼしてしまいます。ちょうど、本業(役割)をいいかげんにして、利益のみを求め、いろいろな事業に職種を伸ばして失敗した、バブル崩壊の企業です。

 教祖は『濡れ手で粟の掴み取りのような心を持つな。ものは細くても、長く続かねば繁盛でない』と、教えておられます。御教えを聞いて、自分の中にある『欲』をチェックして、落とし穴にはまらないようにすることです。

○三つには、『悪い巡り合わせ』の人

 人には、世間で言う『運の良い人』と『運の悪い人』とがあります。少々危なくてもセーフの人。
気の毒に、いつも後手/\に回る人がいます。また、避けることの出来ない難儀な事柄が生まれてくる人です。家族が次々と病気になったり、亡くなったり、得意先が倒産して連鎖倒産したり、交通事故に遇ったり、大切な物を失ったり、言いがかりをつけられたり、ホトホト気の毒なことが続く人がいます。
『悪い巡り合わせ』の人です。『良い巡り合わせ』になるには、信心して、神様のお徳を頂く以外にありません。


 『天地が生きているから、人間も生きていられる』とは、教祖の御教えです。生きているものは全て『命』が巡っています。『血のめぐり』が悪いと病気になります。天地には春夏秋冬の巡りがあり、水が巡り空気が巡り、気が巡っています。様々な巡りがこの天地の間に巡っています。人が生きることは、この巡りと出会って生きます。よく『良い人に巡り合って、助かりました』と言います。その反対もあります。

 この天地の巡りは人間にとって都合の良いことばかりではありません。天地金乃神様は天地の働きの中で生きる人間を『良い巡り合わせ』に導いて下さる神様です。難に出会う巡りであっても、大難は小難、小難は無難に導いて下さいます。

 それには、天地金乃神様にご信用を頂く信心をすることです。神様の言われていることに、心の耳を傾けることです。すると、『うれしく』『楽しく』『ありがたく』人生をおくれるばかりか、親先祖の霊も、子々孫々までも助かることになります。

【平成14年10月号No.339「光道」より】

No:15

●神徳を汲む器

 昔から、難儀をして何が何でも助かり人、何が何でも成就させたい事柄のある人は、宮や寺、祈祷所を訪ねてご祈祷をしてもらう。神仏の力をもって、難儀を解決してもらい、事柄を成就してもらうためである。祈祷者や修験者(山伏、密教の僧侶)、神主達は護摩を炊き、呪文を唱え、或いは滝に打たれるなどの加持祈祷を行い、神仏の業力を得るのである。

 この助かりのあり方は、願い主(難儀を解決してもらい、事柄を成就してもらいたい人)の願いを受けて、特別の法力を身につけている祈祷者や修験者が神仏へ向かうのであって、願い主の心のありようは問題にならない。神仏の業力を得て、解決しさえすればよいのである。


 金光教祖は『この方の道は、祈念祈祷で助かるのではない。話を聞いて助かる道である』と教えておられる。

 話を聞いたぐらいでどうして助かるのだろう。
 話を聞いたぐらいで病気が治るのだろうか。
 話を聞いたぐらいで問題が解決するのだろうかと思う人も多い。
 特に、現在、その当事者であればあるほど、そのように思うであろう。

 加持祈祷を行おうが、話を聞こうが、神仏の力を頂けばいいのであろう。

そこで、神仏の力(神徳)が山奥の奥の奥にあるとするならば、特別の加持祈祷をもって、引き出してこなければなるまい。

 そうではなく、この天地は万物は生かし育み、『神徳』に満ち溢れており、その『神徳』の中に、我も人も生かされているとしたならば、どうであろう。わざわざに加持祈祷の業力をもって、引き出してこなくてもよい。その『神徳』の中にいてるのであるから。

 金光教祖は『我が身は神徳の中に生かされてあり』『信心はみやすう(やさしく)せよ』『おかげは、わが心にあり』と教えておられる。

 『神徳』の中にいるのであるから、いくらでも『神徳』を汲めばよい。その『神徳を汲む器』が『わが心』であると教えておられる。『わが心の器』が心配や、愚痴不足、とらわれ心でマンタンになっておれば、神徳を入る余地がない。『神徳を汲む器』を作るために、心に神徳の入る余地を作るために『話を聞け』と教えられている。

 滝に打たれよ、護摩を炊き、呪文を唱えよとも教えておられない。『ただ話を聞け』と言われる。簡単なこと『みやすい』ことである。
 神の氏子である人間は、話を聞くと理解することが出来る。そのようにお造り下されてある。

 話を聞くと『神徳を汲む器』が出来てくる。


 扇町教会では日々の生活が『良い巡り合わせ』を頂いてゆくようにと、『祈願カード』をもって願うようにしている。これは願い主が自分の願いをはっきりさせ、我が心を神に向けるためのものである。

 この『祈願カード』の中に『家庭円満カード』がある。

 ある信奉者(入信一カ月ほど)が、家庭のガタツキを直したい、平和な家庭になりたいと、この『家庭円満カード』をお届けになった。そのカードには、家族の名前と、家族一人一人の短所が書かれてあった。この家族の短所が家庭を不和にする原因と思っているのである。しかし、そのカードには、本人の短所は書かれていなかった。

 なんとか平和な家庭になりたい、そのためには、家族の短所が治りますようにと、一カ月ほど日参をした。扇町教会では広前に『一日一話 朝の教話 神様からあなたへ 今日一日のメッセージ』として、朝の教話をMDに収録して、カセットに入れて、参拝した人は必ず聞くことになっている。

 この信奉者も参拝しては教話を聞いていた。一カ月もたたない間に、顔の相が穏やかになってきた。家族へのグチが少なくなってきた。ということは、平和な家庭になってきたということである。

 そして、こんどは『私も、いたらない処ばかりです』とお詫びができるようになってきた。


 『神徳』が山奥の奥の奥にあるのではなく、『我が身は神徳の中に生かされてあり』ということであろう。『話を聞いて助かる』というが、たんなる『話を聞く』ということではない。やはり、神様に問題をお願いしつつ、『話を聞く』ということである。

【平成14年9月号No.338「光道」より】

No:14

●やさしい娘(こ)なのだが……

 先日の夕方、久しぶりに大阪市バスに乗った。
そのバスは車体の中央に大きく開くドアがあり、
道路から乗車するステップが低く、ゆったりしている、
体の不自由な人や老人にやさしいバスであった。
バスの座席は、中央に四人掛けのイスが向かい合わせになっていた。

 バスに乗った時、空いていて、中央の4人掛けのイスの1つが開いていた。
その座席に腰を掛けて、ふと前の四人を見た。
異様な三人が前に座っていた。

 この三人は一目見て『風俗』で働く二十代の娘さん達であった。
黒の服を着て、胸は乳房を半分以上露出し、
その乳房に花模様の刺青(おそらく、シールであろう)、
スカートは足のつけ根までしかない超ミニスカート、
太股には同じく花模様の刺青。
三人の娘さん達は携帯電話を使いながら、明るく談笑していた。
しかし、バスの中は異様なムード、乗客達は目をそむけ、一言も発しない。
談笑しているのは、三人の娘さん達だけである。

 バスは走り二、三コのバス停を過ぎ、
一人の七十代とおぼしき男性が乗ってきた。座席の空きはなかった。

その男性が乗ってきた瞬間に、
三人の娘さんのうちの一人が、サっと立って、

「どうぞ、お座り下さい」と席を譲った。

席を譲られた男性は、相手がそのような娘さんであるので、
躊躇していた。他の乗客もギョとした。

すると、その娘さんは再度「どうぞ、お座り下さい」と席を勧めた。
男性は恥ずかしそうに、席に座った。

三人の娘さん達は何事もなかったように、
一人が立ち、二人が座ったままで談笑を続け、とあるバス停で降りた。

彼女達が降りた後のバスの中は、なんとはなく安堵感に満ちた。



 この出来事をバスの乗客の一人として見ていた私は、
複雑な思いが胸の中を駆けめぐった。

 この『風俗』で働く二十代の娘さん達の心には、
一般の人以上の『やさしさ』があった。

もし、普通の娘さんの服装をして、席をゆずっていたら、
誰しも『いい娘さんだナー、優しい娘(こ)だなー、息子の嫁にほしいなー』と
思うにちがいない。

 職業に貴賤は無いとは言うもの、
この娘さん達も始めから『風俗』で働くことを希望していたわけではなかろう。

普通の学生からOLになりたかった違いない。
いや、ひっとしたら、そうであったかもしれない。
どこでどのように『人生にけつまずいた』のか。
どこかで人生の歯車が狂うて……。

『風俗』で働くことを決断するまでに、大変に苦しんだことであろう。



 全ての人は、生まれた時から、
命の親様である天地金乃神様から『神の魂』を頂いて生まれてきた。
このことだけは、別け隔てなく全ての人にある。
 人は成長するにつれて、様々な知恵がつき、
その知恵が行動の価値を決めるようなことになる。

 例えば、損得計算が行動の価値を決めることもある。
見栄や地位や立場で行動の価値を決めることもある。
そのような時は、『神の心』は心の奥深く隠れているが、
瞬間的にこの『神の心』が出ることがある。

また、素直に『神の心』が出やすい人も、そうでない人もある。
しかし、全ての人は、生まれた時から、『神の魂』を頂いて生まれてきた




 この『風俗』で働く二十代の娘さん達にも、
素晴らしい『神の心』があり、素直に『神の心』が出ていた。
それを見て『ホット』した。

と同時に、『こんないい娘(こ)だから、幸せな人生を歩んでほしい』と
願わずにはおれなかった。

 この時、ふと、金光教祖の教えを思い出した。

 
『人が良いのと、神に信心して、おかげを受けるのとは、べつものである』

 世の中のほとんどの人は、皆いい人であろう。
いい人であっても、ちょっと気に掛かることがあったり、
ちょと問題に出くわしたりしたら、たちまち人生を狂わしてしまいます。

人は『いい人』『努力する人』であっても、『よわい人』なのです。
自身を『よわい人』と自覚出来た時、神様におすがりして生きてゆきます。

 自分に都合の良いように、世の中も動いてません。
思うように人生を生きることはできません。

そのような中で『幸せ』な人生を歩んでゆかねばなりません。


【平成14年8月号No.337「光道」より】

No:13

●私にもできます
    あなたにもできます
      信心は

 「信心されたらいかがですか」と申しますと、
「私みたいな者はとても信心は出来ません」と答えられる人があります。

信心を堅苦しく考えたり、
「私のようなズボラ者には信心はできません」と言われたり。

信心すると、いい加減な生き方ができないと思うのでしょうか。
神棚や仏壇を整えねばならないと思うのでしょうか。



しっかりしているようですかが、人間っていいかげんなものなのです。
完璧な人間なんていません。百点満点の人間なんかいません。
本音と立前や裏も表もあります。

二重人格と言いますが、
場面場面や境遇で二重人格どころか、四重人格にも五重人格にもなります。

信心したら、欲を放さなければならないし思っている人もありますが、
欲を放すことなどできません。

神様はそんな人間を承知の上で助けてやろうと言っておられるのです。
神様は完璧な人間になれと言っておられるのではありません。

『ジャジャ漏り』の人間なるが故に、助けてやろうと言っておられるのです。
『ジャジャ漏り』の自分が、世間に『カッコをつけて』生きてゆかねばなりません。
先の見えない人生を歩んでゆくのです。

 「信心は何も難しいことではありません。」
「いいかげんな、『ジャジャ漏り』の自分ですが、
よろしくお導き下さい」と、神様へ心を向けることです。

 何も、特別のことをしなくてもいいのです。

朝起きたら
「神様、夜分はよくやすませて頂き有難とうごさいました。
疲れを取って頂きました。今日の予定は○○です。神様付いてきて下さい」
と願い、

夜は
「今日も一日有難とうございました。予定の○○は△△となりました。
明日もよろしくお願いいたします」
と申して寝させて頂けばよいのです。



 何も、特別のこともいらないのです。

このような生き方を十年も続ければ、
いいかげんな、『ジャジャ漏り』の自分でも、

「この頃、あんまり、腹がたたないようになったナー」
「以前は、引っ掛かって、夜も眠れないことがあったが、
この頃は、クヨクヨしないようになったナー」
「先のことを心配しないようになったなー」という自分になっています。

そのようになったら、人生は楽しいですね。

信心は誰でもできます。
信心は楽しいものです。
神様が『良い巡り合わせ』を導いて下さいます。


【平成14年6月26日号一般配布No.254「光道」より】

No:12

 ●孫の成長 人の成長

 私は七人の孫を頂いています。四條畷教会で御用させて頂いている長女清子に二才から十才までの五人、扇町教会の浩美に二才と四才の二人です。

 清子の子供には毎日会うことはありませんが、時々扇町教会へ連れて来たり、私が出向いたりします。すると、また、一回り大きく成長したことが、目に見えて分かります。五人の孫は大歓迎をしてくれます。ピアノの練習をしている子はそれを弾き、勉強している子はノートや工作を持ってき、体操の得意な子は得意の技を披露し、歌の好きな子は歌います。五人それぞれに精一杯に成長の成果を披露してくれます。

 扇町教会に共に住んでいる二才と四才の二人の孫は、毎日のことで、成長の変化はあまりかんじませんが、やはり成長しています。先日も四才の子が、「おじいちゃん、見てて/\」と、階段の二段目から飛び下りました。得意満面です。

 すると、まだ言葉をよく出すことの出来ない二才の孫が、「ウォ、/\」言って、階段の一段目から飛び下りました。得意満面です。新しいことにチャレンジをし、その成果を披露しているのです。誰が教えたわけでもないのに、チャレンジをして成長しているのです。これは、それぞれに神様から与えられた生命が、成長を促すのでしょう。


 このような孫の成長の成果を、目を細めて『ジジバカ』して見ていて、ふと思いました。

 『成長するのは、子供だけでいいのだろうか? 大人は成長しなくてもいいのだろうか?』

 大人は子供達に『成長して下さい』『勉強して下さい』『立派な大人になって下さい』と期待や願いをかけますが、大人はどうなのでしょう。大人は立派に完成した人間なのでしょうか。大人は立派に完成した人間であれば、もっと良い人生を歩むことが出来、みなが幸せな家庭や社会を生み出しているのではないでしょうか。うわべでは金持ちの日本人、豊かな社会にみえますが、一人々の生活も、社会もガタガタになっているようですね。

 これは、大人が成長することを忘れたからではないでしょうか。この大人の成長は、体や経済の成長ではありません。『わが心の成長』です。心が気儘勝手のままでしたら、幸せな家庭や社会を生み出せないのは当然です。

 『わが心の成長』を生み出すには、『私はこれでいい、私はまちがっていない』という心を外し、『私は、まだまだいたりません』という心を持つことです。これが、『わが心の成長』を生み出す入口です。『わが心の成長』が出来るようになると、人生は良い方へと展開し、幸せな日々を送ることが出来ます。


 心の働きにも、いろいろあります。例えば『有難いと思う心』があります。全ての人間が持っている心です。この『有難いと思う心』にも成長します。

 (第一段階では)自分が欲しいと思っていた物をプレゼントされた時です。この心は、欲しい物をもらえたので有難いのです。 (第二段階では)自分が欲しいと思っていた物をプレゼントしてくれた人の心がありがたい。この心が確かになると、それほど欲しいと思っていない物でもプレゼントされても、その人の心が有難いと思えます。

 (第三段階では)病気になって、健康であったことが有難い。

 (第四段階では)病気になって、治療して下さるお医者さんや看護婦さんが有難い、お薬が有難い。看病してくれる家族が有難い。見舞いにきてくれる人の心が有難い。

 (第五段階では)日常の当たり前のことが有難いと思える心です。家族がいてるのが有難い、仕事が出来るのが有難い、勉強できるのが有難い。

 (第六段階では)食事ができ、目が見え、耳が聞こえ、体が動くのが有難い。

 (第七段階では)困ったこと、難儀なことが起こってきても、『自分を大きくして下さる神様からのプレゼント』と頂き有難い。

 (第八段階では)今、ここに生かされていることが有難い。

 (第九段階では)生きても死にても有難い。

 このように、『有難いと思う心』でも様々な段階がいろいろあります。この段階は、勉強のように、一から順にあるのではありません。日々の自分の心の状態により、(第九段階)まで達したと思ったら、(第一段階)に戻ることがあります。そこを教祖様は『一生が修行』と教えられています。

【平成14年6月号No.335「光道」より】

No:11

●いのちからの挨拶

 二月に長崎県の肥前島原教会へ説教の御用に行かせて頂きました。普賢岳の麓にある教会です。自然豊かな街ですが、歴史的には天草四郎で有名な『島原の乱』があり、近年ではニュースで全国的に有名になった、ムツゴロウの『諫早湾の堰』が近くにあります。


 肥前島原教会の原留夫先生は知的障害を持った方の施設『松光園』を営み、そのお世話をしておらます。その『松光園』を見学させて頂きました。

 木々に囲まれた素晴らしい環境にある施設です。まず、軽度の障害を持った方の部屋に案内して頂きました。部屋に入ると、十数人の年齢の違う男女の年齢の人達が、簡単な作業をしていました。その人達は大きな声で『こんにちわ!』と挨拶をしてくれました。その挨拶は、口だけではなく、顔中、体中をもって、『こんにちわ!』の挨拶でした。きっと、私が訪れることを、前もって伝えられていたのでしょう。『よくこそ、お越し下さいました』と、精一杯の歓迎の挨拶でした。

 次に、重度の障害を持った方の部屋に案内して頂きました。部屋に入ると、数人の人が職員の方に体の筋を伸ばすマッサージの治療を受けていました。

 私が入ると、体を揺すって『キヤーキヤー!』と奇声を上げました。原留夫先生は『こんにちわ!』と挨拶をしていると説明をして下さいました。『いのちからの挨拶』を受け、胸が熱くなってきました。

 『松光園』を見学させて頂き、『一期一会』という言葉を思い出しました。人との出会いは、二度と無い出会いであり、その心をもって、出会いを大切にするとの言葉です。障害を持った方の『こんにちわ!』の挨拶は、まさに『一期一会』の挨拶でした。

 健常者である私は、『一期一会』の言葉の意味は知っています。しかし、いろいろな人との出会いに対して、『一期一会』の会い方をし、『いのちからの挨拶』が出来ているだろうかと、反省をさせられました。


 障害を持つより、心身共に健常が良いのに決まっています。
すると、体や知的の障害が無ければ、心身ともに障害が無いと言えるでしょうか。外見では障害が無いように見えても、心が狭くなり、不安になったり、ひがんだり、卑屈になったり、何が大切かが分からなくなったり、『自己虫』になっていると、障害と同じではないでしょうか。
いや、障害者よりも障害者になっていることがあります。本人は気づかなくても、人から見られて『あの人はかわいそうな人です。何もかも、ひがんで取ります』、『かわいそうだけれども、あんな自己中心的な人とは、付き合いたくない』と陰で言われている人。

 知的障害を持った『松光園』の人達の『いのちからの挨拶』を受けて、人のいのち、自分のいのちの大切さを教えられました。



【平成14年4月22日号一般配布No.252「光道」より】

No:10

●朝の御祈念−−−いのちの確認

 扇町教会の朝の御祈念は午前6時30分から始まります。

 5時過ぎに起床し、神様、霊神のお水、ご飯のお供え。お榊の水の替えをして、神様、霊神様への今日のお仕えが始まります。

 神様、霊神様のお仕えの後、玄関の掃除、道路の掃除をします。昨日の道に捨てられたタバコの吸殻をはじめ、ジュースのカン、ピンクのチラシ、時には酔っぱらいがもどしたゲロ等様々なゴミを掃き、水打ちをして、大地(神様のお体)の『お清め』をさせて頂きます。この頃には、ゴミ収拾の車、新聞配達の人、風俗のお姉さん、お兄さん達が、清らかになった教会の前を行き来します。そして、6時30分になると、神殿の前に向かいます。朝の御祈念の始まりです。


 お灯明を付け、四拍手の後、体の力を抜き心を鎮め、暫くの間、瞑想をします。

 心が『無』になった時、私自身を地球の外、宇宙に置きます(宇宙飛行士になったような)。そして、地球の外から地球を見ます。宇宙から撮った写真や映像で見た地球を見つめます。

 満々と水をたたえ、優しい雲に包まれた緑の地球……。この生命を持つ『星』に、61億の人々が生かされている。いや人間のみではなく、ありとあらゆる生物が生かされている。なんと素晴らしい星か。更にこの星は、自転をして『昼と夜』を作る。昼には太陽の光が燦々と差し込む。生物に無害となるべくオゾン層がある。夜には、暗黒とならないよう、優しい月の光が夜を照らし、生物に安らぎの休息を与える。また、365日をもって太陽のぐるりを回り、全ての生物に『四季の恵み』を与えてくれる。その中に、生かされている私の生命を確認する。

 この私の生命を確認をしてから、今日も朝を迎え、天地の恵みを受け、61億の全ての人々が、生命を頂き、今日も生かされていることにお礼を申しあげます。


 充分にお礼を申してから、私は再び宇宙に出て、地球の外から地球を見ます。

 宇宙にいている私は、地球に近づきます。

 アジア大陸も日本列島も、大きな太平洋を隔ててアメリカ大陸、大西洋の向こうにはヨーロッパ大陸があります。アフリカ大陸、オーストラリア……、紛争が続いているアフガニスタン、死海の側のイスラエル、パレスチナの国々。その中に様々な思惑をもって蠢(うごめ)く人々が見える……。

 その人達が、国々が、自己主張、自我を張り、争いを起こしています。その人間の争いを見て、天地の神様は『なかよくしてくれ』と叫んでおられます。

 その天地の神様の『なかよくしてくれ』との叫びを聞きつつ、『世界真の平和』を祈ります。


 この『生命の祈りの瞑想』の後、多くの信奉者の個別の願い(『健康諸願、病気回復、交通安全祈願』『事業 仕事成就祈願』『誕生御礼 家庭円満 良縁 懐妊安産 育児成就祈願』『入試合格 勉強 就職成就祈願』等)を神様にお願いします。

【平成14年4月号一般配布No.251「光道」より】