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心の器(うつわ)

 人間というものは、常に何か思うてなければ、生きていけないものでありまして、時には希望を持って自分の人生の行き先を「ああ、ありたいなあ。こうありたいな」と思う。今ちょうど受験がだいたい終わった頃でありますけども、受験する前、「あの大学行きたいなあ、この大学行きたいな」と。大学行ったら、「ああしたいな、こうしたいな」という希望というもの、夢というものを持ちます。それが段々と現実になってきて、受験そのものになってくると勉強できるかいな、ちゃんと書けるかいな、合格するかいな。今度はそれが不安になってきます。不安が段々段々と募ってきます。そうしますと、勉強よりも不安の方が心を支配していくんですな。
 一番最初の願いやら希望が心に入っておる間は、それに向かって一生懸命に勉強ができる。そのことが現実化してきた時に、不安が心を支配してくる。「どうかいな、どうかいな」と。その不安というものが、心を支配しだしてくると、今度は勉強が出来ないようになってくる。
 ですから我が心に何を入れさしてもろうていくかということが大事なこと。そこを『おかげは和賀心にある』と。おかげの元は心にあると、教祖様が教えてくださっている通りであります。ところが、不安になる。「そんな不安持たなくてもよろしいがな」と言うても不安を持つのね。「心配せんでもよろしい。今はしっかり勉強しはったらよろしいが」と。「はい、それでも……」というて不安になる。


 これは受験だけに限ったことではございません。健康ということもそうですな。結婚ということもそうです。誰でも結婚したい、結婚したいと思う。やがてそれが現実化してきたら、「結婚して上手いこといくやろうか」という不安がずっとついてくる。そうすると、不安な顔してるものやから、相手に対していい顔が出来ない。今度は不和になってくる、というようなことがありますな。
 そういうふうに人間いうたら、希望というものが胸に入っている間は生き生きとするんですが、それが具体になってきたら、不安というものをザーと持ってまいります。心配を不安をはずしなさいと言うても、それが支配してきます。なぜそうなるんでしょうな。


 それは、わが心に神様がおられないから。心というのは一つの入れ物みたいなもの。希望というものが、喜びということが、あるいは、感謝ということが、心に入ってる間は不安という心配が入ってこんのでありますけども。
 ところが、自分の心の中でパッと入れ替えをしてしまう。今まで有り難いと思うたり、希望を持っておったのが、突然ヒューッと入れ替わる。風引きみたいなもんですな。ウイルスが入ったらそれで終わり。嬉しいということ、あるいは希望ということも心の中の器に入れるんですけども、それは器を十とするならば、それを三ぐらいにしといてね。七ぐらいをいつも神様を入れる稽古をしておきますねん。「神様入ってください。神様お入りください。神様共に生かしてください」という、自分の心の器に常に神様を入れておきます。それで嬉しいことも、あるいは三ぐらいにしておきますねん。そうすると不安が起こってきてもパッと、嬉しいことの三や、希望の三は逃げても、入れ替えが起こっても、七が神様ですんで、ちゃんと対応してくださるんですな。
 そうしますと、不安というのはすぐさま排除することが出来る。常日頃から、我が心に神様を頂いていく稽古をさせてもろうていくことをしておかないけませんな。そうせんといつ何時ヒュッと不安というものが入ってきて、あるいは心配というものがヒュッと入って、今ちゃんといってるのに、自ら墓穴を掘っていく、自ら駄目にしていくという難儀なことなっていきます。
 「あなたそんなに心配せんでも……」と言うても、心配がずっと積もって、泣いてばっかりせんなんらん。心配ばかりせんんならん。せっかくの人生、せかっくの命、せっかく神様の氏子として生んで頂いて、一生愚痴と不安と不足と心配とで送らないかんということは、神様に相すまんことやと思います。有り難うございました。

(平成十二年二月十八日)


たまたま良い周りをしてるだけなのに……

 人間は、財産ができたり、先生と言われるようになると、頭をさげることを忘れる。信心して身に徳がつくほど、かがんで通れ。とかく、出るくぎは打たれる。よく、頭を打つというが、天で頭を打つのが一番恐ろしい。天は高いから頭を打つことはないと思うであろうが、油断をするな。慢心が出るとおかげを取りはずす。(『天地は語る』二七〇)

 私たちは自分のかいしょで一生懸命に生きております。うまくいかなくなったりすると、社会の責任にしたり、人の責任にしたり……。社会はこういうことやからあかん、不景気だからあかんというふうに周囲の責任にします。確かにそういうところも、あるには違いないでしょうが。例え世の中のすべてがあかんでも、神様におかげを頂いて、神様にご都合を頂いて、良い周り合わせを頂かしてもらうということが大事なこと。皆、先にあきらめてしもうている。人間の力というものはしれている話でね。ところが、上手いこといってる時は、それが自分の力やと思うてしまうので、ここに錯覚がある、たまたま良い周りをしておるだけのことなの。たまたま良い周りをしてるだけなのに……。


 春のポカポカの良いご時候がある。自分が春を作ったような思いになっておる。「みて見い、春や」というてるんやけれども、違う。天地の働きが春になっとるだけのことなの。
 それで、世の中ちょっと変わってきたら、いっぺんにシュンとなってきて、難儀なことですな。
 春であろうが、秋であろうが、夏であろうが、真冬であろうが、天地の御守り、あるいは天地が巡ってくださっておられる。そこのところをしっかり頂かしてもらうことが大事ですな。都合のええときだけ、信心を引っ張りだしてね。都合悪かったら神様を放っているようなことになりますな。そこのところをしっかり腹入れさしてもろうて、巡りの悪い時には「どうぞ良い巡りにしていただきますように」、あるいは調子のええ時も、「調子に乗りすぎませんように」というふうに神様に向こうていくことが大事ですな。神様は生きてお働き下さいますな。


 今日のお話でも「天で頭を打つのが一番恐ろしい、天は高いから頭を打つことはないと思うであろうが……」とおっしゃっておられますね。その時にでも、人間凡夫ですから、「しもうた!」ということがある。しもうたということで崩れてしまうんじゃなし、神様が教えてくだされたという、神様の所へ持っていったら立ち上がりは早いですわ。
 ところが「うわー、しもうた、失敗した。あいつが悪いから、こいつが悪いから……」ズルズル、ズルズルと皆いってしまう。違うんですよ、天地が頭叩いてくださるんです。それをあいつが悪いから、こいつがこうなったから、ズルズル、ズルズルといってしまう。だから立ち上がりが遅いのです。
 叩かれたら、「しもうた。神様お知らせ下された。有り難し。もったいなし。さあ、改まらしてもろうて、そして神様の思し召しに叶うように生きさせて頂きますよう」と、スカッと切り替えが出来ないといかん。
 日頃から、調子よういってる時だけ、神様を利用してるものですから、さてという時に間に合わない信心になってしまうんですな。
 今日も良い巡りにならして頂きますように、神様にお願いしい、しいにお使い頂きたいもんじゃと思います。有り難うございました。

(平成十二年二月二十五日)

入る計算は出来ても出る計算ができない

 人から出る日給はわかっても、神から出る日給はわかるまい。(『天地は語る』二八九)

 今頂きましたみ教えで、『人から出る日給はわかっても、神から出る日給はわかるまい』というみ教えでありますけども。
 ご信者さんもそれぞれ、色々と御用してくださる。ご信者さんはそれぞれにお仕事を持っておられまして、そのお仕事の段取りがつくときに御用なさる。あるいは学生さんが、勉強やら、クラブやら、バイトやら様々な中で時間の段取りがついた時に御用なさる、それでよろしい、それぞれの本業いうものがある。
 ここで言われる「神様から出る日給」ということは、もう一つ先へ進んでと言いますか、信心の奥へ入らしてもろうて、それぞれが持つ本業自体が、神様の御用なの。神様の御用として、それぞれの本業を勤めさしてもろうていくと、その日給というのが、目先の日給ではなしに、神様からお与えくださる日給になる(昔は日給で計算してたんですけどもね。)月給になる。
 例えたくさん、具体的な給料をもろうても家の中がごたついたり、あるいは出る方が多かったら……、入るものよりも出る方が多かったら、少ないのと同じことなの。この収支のバランスというものが無かったらいかんのですな。
 皆、目の前の日給なんぼですか、月給なんぼですかと。今、就職の時期ですけども、手取りなんぼですかということを言う。そう、その計算もせないかん。それは入る計算ばっかりして、出る計算をしてないのね。なんぼようけ入ってもジャジャ漏りに出ていけば何にもならん。
 お商売して、えらい儲けた。あそこ、えらい儲けてはんなー。しかし、ドラ息子が全部使いよった、全部パアーにしてしまいよったと。逆に借金残しよった。お金だけの借金ではなしに、家庭崩壊という借金まで残しよったと。よくある話です。


 皆、入ることばっかり考えてますけど、出ることも考えさしてもらわないかん。その収支が調うてこそ初めて、豊かにならしてもうていく。ご信心さしもろうて神様の御用として、どうぞ、お使いを頂きまするようにということとして、それぞれが持たしてもらう、受け持たしてもろうておるそのお仕事に、本気に一生懸命にならして頂くことが大事なこと。
 そして、少しでも時間が余ったら、具体的に神様の御用としてお広前の事、何なりとお使い頂いたらええ。それがガラス一枚拭くことでありましても、おトイレ一つお掃除さして頂くことでありましても、利害を越えた世界、そこにお使い頂いていくことが大事なこと。これが天地に生きていくということ。
 まして、神様の御用ということになりましたら、神様が社長ですわな。そうしてみると、一つ、一つ神様にお届け、お断り申して神様についていってもろうて、それぞれの仕事をさしてもらうという実意というものがいりますな。そして頂いたもの、すなわちお給料とか、その成果ですな。その成果を自分のポッポ内々するんじゃなしに、せめてその一割は神様にお供え申し上げますという心持ちにならなきゃ。都合のええときだけ、神様出てきて下さいだけでは、それでは、建前と本音がバラバラになってしもうておるということですね。
 神様の御用としてのお仕事、そして神様に一つ一つお断り申して、神様についていってもらう仕事、そしてその成果として一割は神様にご返上を申しあげていく。神様にお供えさしてもうていくということ、それが実意ですな。
 そして時間が余ったら、具体的にお広前の御用にお使い頂く。ガラス一枚でも拭かせて頂くという心持ちにならしてもらうことが、大切なことかと思います。有り難うございました。

(平成十二年二月二十八日)