「日切りをして願う」意味
自分から日切りをして願え。一週間とか一日とか、今のことを今とお願い申して、おかげを受けよ。一度日切りをしてお願いし、おかげのしるしがなければ、重ねて願え。それでもしるしがなければ、なおもう一度と、三度までは押して願え。願主があきらめてはいけない。押して願っておかげを受けよ。(『天地は語る』一七六)
今日頂きましたみ教え『天地は語る』(一七六)の大事なことなんですけど。問題があって日切りをして願えと、「この大きな問題を、どうぞ十日でおかげを頂かして頂きまするように」と日切りをして願わさして頂く。その間、真剣に神様に本気に向かう。行もさして頂く。この時に大事な事は、十のお願いをして十とも、この十日間で頂くのと違うんですね。これをごっちゃにしている。
『しるし』を頂くという。おかげを頂いていく。助かっていく道筋のヒント、方向を頂くということなの。とかくこれをごっちゃにしてしもうてる。日切りをして十日の間に、丸々全部、自分の思い通りになる。願い成就、全部自分の願い通りになるような思いを持つ人がいる。そうじゃないんですね。そんなズボラなことはない。助かっていく道筋、ヒント、方向、その『しるし』を頂く。そこをみんな間違えやすい。
何もかも、ハイ結構、めでたし、めでたしにすぐなるように思う。そうじゃない。真剣に神様に向かう、その方向、『しるし』を頂くということ。これを『験』を頂くという。
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『験』は経験の『験』、体験の『験』と書きますけど。その『験』が無かったら三度まで願えと、押して願え。十日でその『験』を頂けなかったら、また十日、また十日というふうに三度まで願え、それでも『験』がなかったら、『しるし』がなかったら、神様のご機感にかなわないかん事なんじゃと。ひっこめないかんということです。けれども、大概『験』を下さる。
ところがこちらがその『験』『しるし』をキャッチ出来うる信心をしているかということが問題なの。もう問題にとらわれ過ぎると、神様がおっしゃっておられることが聞けない。わからないいうことがあります。
その十日間に、一生懸命、神様に向かうんです。けれども、その向かい方の中に、「よろしゅう頼みます」「よろしゅう頼みます」というだけの向かい方ではなしに、自分を顧みて、「ああ、これも大きなおかげ頂いたな。あれも大きなおかげ頂いたな。もったいないことであるな。」という御礼をしっかり、その中に入れることなんですね。そうしてくると、問題は問題としてお願いしてるんやけれども、「あれもおかげ頂いたなあ。これもおかげ頂いたな。有り難いことであるなあ。」という思いを沸々と持たしてもろうてくる。すると神様の『験』が見えてくる。
問題にとらわれて、えらいこっちゃ、えらいこっちゃ、「十日間行きまっせ。十日間頼みまっせ。」わーわー言うて、十日間行っても『験』を下されても、『験』が見えない。分からない。「お参りしてもあかなんだ。日を切って願うてもあかなんだ。」言うのはそういうことなの。
神様は常に特別大きな問題が起こってくる以前から、常にヒントを与えて下されたり、ノックを与えて下されたりしております。ところが、こっちがそれを聞き取らない。すなわち和賀心が常に神様の方へ向いてなかったら、わからない。ということでありますね。
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例えば、入試の勉強でも同じことなの。「あー、試験日が迫ってくる。えらいこっちゃ、えらいこっちゃ、さあ勉強せんならん、勉強せんならん」という。入試の方へばっかり心がいったら、さあ、どこをどう勉強したらええのやら、見えん。
ところが、日頃から勉強へ心向いといたら、「あ、ここは大事なところやな。ここはしっかり覚えとかないかんとこやな」とピッピッと、ヒントがわかる。
ところが日頃勉強せん人は「せんならん、せんならん」の心だけでフラフラになってしまって、勉強ができなかったり、もう、どこから手をつけてええのやら……。それで、試験の日がくる。やっぱりすべった、とこういう具合になる。和賀心を常に神様に向けさして頂く稽古をしておりましたら、さてという時にピシィっと定まる。
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十日でおかげを頂こう。丸々すべてではない、その方向性、『しるし』を頂かして頂こう。ここが大事なところですな。ここの所が案外間違いやすい。信心してもおかげが無かったとか、言われる人は、皆騒ぎ立てるだけのことであって、和賀心が神様に向かうてないことですな。和賀心が神様に向かうたら、天地は生き通しに生きておられ、働き通しに働いておられ、その実は天地の働きの中に自分の命も頂いているんですから、常に響いているはずなの。ところが、自分の得手勝手ばっかりでは、天地に響かないということであろうかと思います。有り難うございました。
(平成十二年二月五日)
命の親様を頂いている者は狂いません
こうして毎朝ご祈念をさして頂きまして、神様に向かわして頂くと、神様から様々なことを教えて頂く。あるは気づかせて下さる。有り難いことですね。ほんとに、今日一日の始まりが神様から教えて頂いたこと、気づかせてくだされたこと。それを噛みしめて、今日一日の命を頂かして頂けるということは、尊いことやな、もったいないこやなと思わさして頂きます。
今日もまた教えて頂いたことの中に、『心と体の調子が調い』という扇町教会の『信心の心得』で申しておりますけども。この心と体の調子が調わなかったら、どういうことになってくるのかということですな。
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この頃ののニュースで「ええー!」というようなニュースがターンと出ておりますね。こないだから、新潟の方では、小学校の女の子が誘拐され、九年以上監禁されて十九才になっておる。それが発見、保護された。その監禁した男性、一緒に住んでた母親。まあ、まともな精神状態とは違いますんやな。心の調子が完全に狂うとる。京都の方では、小学校の校庭で児童が首を切られる。そして、警察がやっとこさ、犯人を追いつめて、その容疑者なる者を取り調べようとする。いよいよ逮捕の寸前に、その容疑者は飛び降り自殺する。その書かれたメモがある。それを読んでも正常ではない。狂うておる。
世の中を見さしてもろうたら、狂いぱなしというか。おかしい。そいう殺人事件から、細かいことまで言い出してくると、みんな狂うとる。お巡りさんがアホなことして狂うとる。学校の先生が狂うとる。お役人が狂うとる。家庭の中が狂うとる。
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そうして見ると大きな事件、殺人事件のみが精神状態がおかしいかというと、そうではない、皆狂うておる。『世が狂う』と教祖様がおっしゃるように……。バランスが取れてない。
そうすると、人間の心というものはね、自分が大丈夫やと思うけれども、非常に危ない、いつバランスを崩すか分からん。たまたまニュースで出てきたそいう異様な精神状態は、これは完全に狂うてるなと思う。精神異常やなと思う。そうして見たら、自分らは大丈夫かということ。いや、私たちもまさにガラスみたいなもの、ガラス細工ですな。人間の精神状態なんて。精神のバランスなんて。
その証拠に、「そんなこと心配せんでもええ」といっても、落ち込んでみたり、ヒスが出てきたり、不安に取り付かれたり、皆してはる。「もう気が狂いそうですわ」と言われることもある。
どうしてそいうことに……。確かに人間の精神、心というものは、ガラス細工のように微妙であり、繊細である。もう、ちょことのことで、ワーと狂うてしまう。
心というものは、非常に不安定な調子が調いにくい。
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しかし、昔からよく「親の無い子は精神状態が狂いやすい」とよく言いますな。これは単に肉親の親だけではなしに、はやり命の親様を頂いているものは、あまり狂いません。親の無い子は、常に不安定なんですね。精神状態が常に不安定で、ピリピリ、ピリピリしている。潰れやすい。
例えば子供がけんかしてわーと泣かされる。泣かされた子供が家へ飛んで帰って「おかあちゃん、誰々ちゃんが叩いたー」いうて膝の上へパアーンと乗れる。その膝のある子は強いです。その時泣いてもすぐケロッとしている。
ところがその泣く膝のない、甘える膝の無い子供は、精神状態が狂うてきますな。自分で全部処理をしていかねばなりませんからね。その処理を仕切れない。
小さい時は、そのような肉親の親が無かったらいけませんな。泣ける膝、飛び込める胸。ところが、ある一定の年齢、小学校の後半から、中学ぐらいになってきたらどうでしょう、そんなことできませんな。そうすると、命の親様を頂かしてもろうておる者は、不安定が少ないですな。それは問題が起こって、うろたえることはあるんやけども、病的な所まで不安定になりませんね。有り難いことですね。
そうしました時に、私自身が、人生に色々あるんやけれども、天地の親神様に出会わさしてもろうておる。はあ、もったいないことやなと、今日はしみじみそういう思いをさせて頂いた。もったいないことやな、有り難いことやなと。
その親神様にこれだけご恩になっておるんやから、せめてものこととして、どういうご信心をさしてもろうたらええのか、どういう報恩奉仕をさしてもろうたらええのか、どういうお礼を申し上げていったらええのか、というのが、私に対する自身の問題ですな。
信心する者は親のある子と無い子ほど違いがある。それが今はっきりと今社会に出てます。日本の社会のほとんどが親の無い子です。気の毒な、気の毒な子ですね。ですから精神不安定、心と体の調子が狂い放しになっておる。『信心なければ世界が闇なり』とおっしゃるのは、まさにその事であろうかと思います。有り難うございました。
(平成十二年二月六日)
お供えと信心
長者の万灯、貧者の一灯ということがあろう。その貧者の一灯も供えられない者もあろう。神は灯明でも線香でも、何でもかまわない。一本の線香さえ供えられない者は、一本を半分に折って供えても、灯明の代わりに受け取ってやる。線香も供えられない者は、切り火をして供えても、灯明の代わりに受け取ってやる。線香の灰でもおかげを受ける者がある。(『天地は語る』一九二)
今日のみ教えは、お供えと信心について教えて頂いておる内容なんですが。
『天地は語る』(一九二)で「長者の万灯、貧者の一灯ということがあろう。その貧者の一灯も供えられない者もあろう。神は灯明でも線香でも何でもかまわない。一本の線香さえ供えられない者は、一本を半分に折って供えてもの、灯明の代わりに受け取ってやる。線香も供えられない者は、切り火をして供えても灯明の代わりに受け取ってやる。線香の灰でもおかげを受ける者がある。」
このように教えて頂いているんでありますけども、神様と人間との関係を信心という。神様とどのような関係を自分は持っておるのか。そこが大事なことなんですな。
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人間でも、子供が出来、孫が出来たら、「これを子供に買うてやろう、これを孫に着せてやろう」という思いを持つ。親やからせないかんというものではない。「こうもしてやりたい、ああもしてやりたい」。また、子供の方も「親孝行や、一万円送っとけ」そんなことではない。親は子に対して「ああもさしてもらいたい、こうもさしてもらいたい」ということであって、初めて親と子の関係とか、人と人との関係が生まれてくる。
神様との関係も、自分と神様との関係がどういう関係であるのか。『お供え』というのは、こちらの真心を供える。『真心』と『寸志』とは違う。ここを間違うてしまいやすい。神様に「ああもさして頂こう、こうもさして頂こう」というのが真心というもの。
ところが「貧乏でとてもとてもお供えができません」「はあ、そんなんせんでもええ。一本の線香でも半分に供えたらええ」と。このように神様仰せになる。また聞くこちらが「もったいないことでございます。どうぞ一本の線香をお供えさしてもらうように、ならして頂きまするように」と願う。ここにあいよかけよが生まれてくるのであってね。ここはものすごく微妙なところで間違えやすいところであります。
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今日は皆豊かになりました。この教祖様の時代というのは、ほんまに、お百姓が自分で米を作っても、それを食べられないという時代背景がここにありますな。今は十分に生活できておる。ところが、昔と同じことやっておる。「一本線香の半分でええ。半分に折っとけ」いうてね。それでもええというてはんねん。まあ、そういう関係やね。そやから、そいう関係では、そういう関係のおかげしか頂けないのはもちろんのことですな。
そやから、信心というのは神様と自分との関係を信心という。どいう関係をもっておるのか。神様は「無理するな」とおっしゃる。「はい、無理はよういたしませんが、せめてものことでございます。せめてこれを神様にお供えさして頂きとうございます」ということがあってこそ、神様と自分との関係が生まれてくるんであって、「線香、半分でええらしいで。半分にしときいな。」 神様と自分がどいう関係を持たしてもろうていくか、今日の自分としてのせめてものことをさしてもらわんと関係が生まれません。
ご祈念せいとも、参って来いともおっしゃらん。供えともおっしゃらん。しかし……、という。それなるがゆえに……という、余計に、神様に向かわして頂くことが大事。ふと気がついた時には神様と素晴らしいあいよかけよの関係の人もあれば、もう全然神様と関係のない生き方をして、難儀をしてる人もターンとあります。有り難うございました。
(平成十二年二月八日)
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