現場処理の信心から徳積みの信心へ
信心して徳を積み、神から徳を受けた人は、慎みが第一である。常に慎みをしても、死に際に不足の心が出ては、せっかく受けた徳を失うことになる。信心して徳を受けた者は、平素の慎みも大切であるが、死に際の慎みも、また格別大切である。必ずその時に徳を落とさないようにせよ。(『天地は語る』一四三)
私たちは、毎日毎日、刻々の現実の中で生きております。今日の仕事をさしてもらう。あるいは今日の勉強さしてもらう。あるいは、今日の計画をしていく。あるいは病気を治す、資金繰りをなんとかする。というふうに、刻々の現実のところで生きております。
別の言い方をすれば、刻々の処理をしているような感じですな。ほとんどが刻々の処理で終わってしまいます。それで、その処理が上手いこといかなんだら、えらいこっちゃということで、神様よろしくお願いします。ということが日々の信心の九割以上がそういうことであろうかと思います。
ただしかし、今日頂きましたみ教えをよく頂きますと『天地は語る』(一四三)に『死に際の慎みもまた格別大切である。必ずその時に徳を落とさないようにせよ』とおっしゃっています。
皆、徳積みの信心というのを案外してませんな。処理の信心をしてますねん。『死に際にも、徳を落とさないようにせい』という教祖様のみ教えのその徳は、先の世までも持っていけれるお徳なんですな。死んでからでも人を助けることができる。子孫を助けることが出来る。徳なんですな。信心を一生懸命してきたんだから、死に際でも愚痴不足やら、うろたえやら、わめきたおしやらというようなことで、徳を落とさないようにせよ。信心してきた徳は体が無くなっても人を助けることが出来る徳だと言う。このように教祖様はご自身の信心をしていっておられる。
ですから、『金光大神は形がのうなったら来てくれという所へ行ってやる』、それほどの徳を残しておられます。
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そうしました時に、我々は日々、現場現場で生きとりますから、それを処理していくといいますか、それを乗り越えていく、あるいはそれをキチキチやっていかなあかんという現実がある。それも難儀して、思い通りにならん。調子が狂う。自分は一生懸命しておっても、一生懸命にならん。というような事がようある。それをなんとかおかげを蒙っていこう。ご都合つけて頂こうということで信心をするんですが、それでは徳積みの信心になってませんな。
じゃあ、どうさしてもろたらええのか。現場処理だけやったら、これはチャラなんですな。ご破算なんですわ。いや逆にまだ神様使うて、マイナスの徳かわからん。「お願いします。お願いします。」言うておかげ頂いても、じっくりお礼せえへん。「また現場でお願いします」。まあ、何なりとも願えとおっしゃるから。刻々に現場が変わっていくもんやから、現実が変わってくるのに、お願いばかっり、神様使うばっかりで、十分にお礼をしておらん。
そうすると、神様に借金ばかりしているような感じですな。ほとんどの人の信心は神様に借金しての信心。神様にお礼を申し、貯金していけれる信心いうのはほとんど無い。
徳積みの信心をせねばなりません。その徳は先の世までも持って行けれる徳。そこへに意識をちょっと変えてみてね。現場処理の信心からどうしたら徳を積まして頂けるか?という徳積みの方への信心に、質の切り替えをさして頂くことが、後々おかげを頂くことであろうと思います。有り難うございました。
(平成十二年一月二十九日)
命のバッテリーを充電する
昔から言われてて、なんとなしに使うてる言葉の中に『病は気から』があります。だからしっかり気持ちを持ちなさい。あるいはやる気を持ちなさい。気合いを入れなさい。根性を入れなさいという『気』ということをよく使うとりますが、これ分かったようなわからんような……、ずっと前々から、使われておりますので何となしに使うとりますな。
「元気を出して」元気いうたら「元」の『気』やね。「元気を出してください。元気を出しましょう。やる気を出しましょう。病は気からです。」
あるいは、「根性をいれましょう」というふうに『気』というものをよく使っておりますが、さて、といったら……、えー……どういうことかいな。という事になる。
これは天地の命のエネルギーを自分も頂かしてもうておる。そのリズムみたないなものかな。良いリズムにならせてもらう。そういうエネルギーの源みたいなものが『気』なの。そやからこの天地の頂いておる源のエネルギーと、自分たちが、そこから頂いているエネルギーが離れておったら、一時的にペッと元気を出しても、プスンとエンスト起こして充電が止まってしまいますんやな。
皆、それぞれ『気』は頂いておるんだけれども、自分中心だけやったら、すぐに電気が切れてしまう。バッテリーが切れてしまう。しかし、皆それぞれ、頂いているから一時、元気になることがあるんですよ。気が働く時がある。しかし、すぐバッテリーが切れてしまう。いうのがほとんどの人です。
それでも『気』を入れましょう。『気合い』を入れてとか『気』を入れてとか、いうことになりますな。
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常に天地の神様へ充電しておく。今日も一日充電さしてもろうて、神様からエネルギーを頂いて、そして元気を出して、その充電したバッテリーを持って、今日もまた頑張らしてもらう。バッテリーもだんだんと充電しておりましたら、大きなバッテリーになってくる。それが物と違う所、我々の命いうものはそういうもんじゃ。物は変化することはないが、命いうものは成長していく。バッテリーも成長していく。その一番元が大きいバッテリーになられたのが、教祖様じゃなかろうかと思う。「天地のことは棚心にあります」と天地自由自在になられた教祖様。神様から「この方金光大神あって、天地金乃神のおかげを受けられるようになった」と言われるようなれた。
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ただ、お参りして、今日一日の事を神様にお願いして、どうぞお力を頂きますようにと願わせて頂く。教会までたどり着く『気』、エネルギーというのは自分で頂いたエネルギーで来る以外ないんですわ。それしかない。
エネルギーの使い方ですけども、皆頂いているエネルギーを先に他の方へ使うてしまうんで、充電しにくる教会まで、たどり着くことが出来ないんですな。そのことを知らないといかん。
そやから、先に自分のことで使わんと、他へ使わんと神様へ充電しにくることがいる。それはそれぞれがもろたエネルギーでしか、バッテリーでしか仕方がない。そのバッテリーでもって、先に充電するの。すなわち車がガス欠に近く、ガソリンスタンドまでは、残っているガソリンで行くしか、仕方がないということですな。
今日も命が生き生きとしますように、元気でありますようにということは、今日のエネルギーをどうぞ充電して、大きなバッテリーにならしてもろうて、命を生き生きさして頂きたいものと思います。有り難うございました。
(平成十二年二月二日)
潮待ち、風待ちの生き方
ずっと以前、十年も十五年も前でありますけども、関東の方で御用がありまして、お祭りをさしてもろた後、伊豆の方で一泊をさしてもらいました。海辺で非常に風光明媚、素晴らしい場所でありました。食堂もその海を見渡せる素晴らしい場所でありました。そこでお食事を頂いていたんですけど。
私は釣りやら船ということはほとんど知りません。沖を見ておりましたら、貨物船を含め釣り舟等が、沖で船が動こうとしない。そうすると、同じように食事を頂いていたお一人が、(このお方は、自分でヨットを持っておれられる人で)
「先生、あれはね。風待ちですねん。あるいは潮待ちですねん」ということを言われた。はあ。そこそこの大きな船なんですよ。潮待ち。
すなわち東へ進もうとしているのに潮が西へ動いておるということですな。その時にには、無理に動かんと、じっと待っておるのね。それで潮の流れが変わったら、ぼちぼち、ぼちぼちと動いて行く。あれは潮待ちですねん、あるいは風待ちですねん。
「帆のある船は風待ちをします。エンジンのついてる大きな貨物船でも、よっぽどで無い限り、潮に逆らいません。」そういうことを言われる。はあ、これ天地の道理やなと。これだけ、エネルギーを使う乗り物があるのに、船の世界では、潮待ちということをするのかと、改めてこう分からしてもろうたことがあります。
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そうして見たときに、確かに船にエンジンがついて、東へ行こうが、西へ行こうが、北へ進もうが自由に行けるように思うている。確かに、行けないこともなかろう。しかし、そこには非常に無理があって、エンジンを痛めてしもうたり、ものすごく燃費を食うたりということがありますな。
逆に、追い潮になった場合、わずかな燃費でスピードが出てということがあります。そうした時、これは人間の生き様でも同じことですけど。
よく、あの人は上手いこといっておるな。それはその人の努力だけではなしに、追い潮で調子よう行っているだけのことなんですな。それを、自分の力、我が力で上手いこといってると錯覚をしてしまいやすい。我が腕で、ちゃんといっている、上手いこといっている、「見てみ。調子ええやろ」と。どうも、我が力ではなしに、追い潮で、社会の流れが追い潮の流れであったということ。
ところが潮が変わって向かい潮になったら、いっぺんにフニャーとして、世の中が悪いと。調子よく行ってるときは、絶対、世の中が悪い言わないからね。「ワシの力じゃ」と言うとる。ところが世の中の潮の流れが変わったら、「世の中が悪い、世の中が悪い」とこう言うておる。
やはり、天地の道理をみさしてもろうて、向かい潮でも、潮の流れがきついとき、教祖様はそれを「じっと待て」ともおっしゃる。この待てというのと、ええ加減に待てというのと、全然意味が違うんだけれどもね。
待つ努力、見る努力、そしてまた進む努力、天地のリズムをよく解らしもらう。待つといってもボーっと待つんではなしに、その間にせねばならんことをする。
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私は好きな言葉に『晴耕雨読』とういう言葉があります。晴れの日は外へ出て耕し、雨の日は、書物で勉強さして頂く。物事を解らしもろうていく。晴耕雨読という言葉がほんとうに好きですけども。
大きな船でも潮待ちをする。自分の実力というもの十分に知らしてもうて、無理をしない、あるいはまた何を大事にさしてもろうていくかということを、分からしてもろうていくという生き方。
ところが普通なら待つというたら、すぐ遊んでしまう、堕落してしまうんですけどもね。堕落じゃない待ち方、堕落じゃない生き方とか、鍛え方というような、生き方が身に付かしてもらうのは、信心しか仕方がなかろうかと思います。有り難うございました。
(平成十二年二月三日)
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