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最近は「徳」が転がっている

 今の世は知恵の世、人間がさかしいばかりで、わが身の徳を失っている。(『天地は語る』三四七)

 信心の世界で大事なことが、神様とつながっていく、あるいは神様のお徳を頂いていく、ということが、大事なことであると教えられております。
 また教祖様も明治初年におっしゃっておられます『人間がさかしいばかりで身に徳を失っておる』この様に仰せになります。また教祖様だけでは無しに、例えば孔子は『徳は弧ならず』、徳のある人は、孤独ではないとも教えておられます。


 今日の大きな社会問題の中に、孤独ということが大きな社会問題としてありますが、今日の人は孤独な人G多い。別の言い方をすれば、社会現象で言えば、核家族化であって、どんどん、どんどん個人が核化してきて、人間が孤独になっていくということなんですけれども、ただ単なる核家族化によって孤独になるということだけでなしに、お徳を積むとか、お徳を頂くとかいう物の見方、生き方、発想の仕方が無くなってしまいましたんですな。
 お徳を頂くとは、どういうことなのかというと、それぞれが頂いている命がより大きな働きをさしてもうていくということであろうかと思う。神様から頂いた『分け霊』、神様のような心がより生き生きと大きく働きをさせてもろうていく、そいうものがお徳というものじゃと思う。
 教祖様は「人間がさかしいばかりで身に徳を失うておる」ということをおっしゃいましたけれども、『さかしい』とはどういうことか。理屈はよく言えるということです。今日の社会が、合理の社会、何もかも合理の社会である。あるいは、省力化、リストラっていうのが最たるものですけど、無駄をどんどん省いていく資本主義の一番原点なんですけども。どんどん、どんどん省いていっている。
 ちょっとでも安易にといいますか、インスタントにできる様に、誰でもがピッポッパと、何もかもができていくようにということになります。
 生き方が全部そういうことになってまいりまして。無駄なことは一切しない、自分の関わり無いことは一切しない。というようなことですな。


 毎朝、教会を開けさせてもろうて、玄関の外の掃除をさしてもらうんですけども、まあ、多くのゴミが散らかっておる。一日ですよ。一日で、多くのゴミが散らかっておる。ゴミをポイッと捨てても、平気な人がもう多くなってしまった。これは徳を落とす方ですな。道ばたへゴミをほって、相すまんことじゃ、公衆道徳と言う問題じゃなしに、それもあるんでしょうけども、公衆道徳という発想ではなしに、汚したら相すまんことやという、そういう思い、それが無くなりましたな。
 そうしました時に私は、このお掃除をさしてもらうのに、神様のお体を掃かして頂こう。お掃除をさせて頂くという思いがある。すると神様とつながっていくんですね。そうしました時に、他の人が言いましたら、けったいな言い方ですが、社会一般の人が落とした徳を、こちらが拾わしてもらう、ありがたいことになる。人が落とした徳を、こちらが拾らわしてもらう。そういう目でヒョっと見さしてもろうたらね。ほら、お徳が落ちてる。
 この頃の人はどんどん、どんどんと徳を放っていきますからね。私らにしたら徳を拾らわせてもらうことが、みやすい事になってる。
 昔は皆、徳を落とすことは絶対いたしませんからね。そこで、徳を積むということは大騒動せんならん。滝に打たれるとかね。断食をするとかね、そいうことまでしてまでも、徳を積もうとなされた。
 ところが、この頃は、そんなんせんでも徳が転がってる。人が捨てた徳が転がってる。自己主張ばっかりして、人の事を助けようとしない。人の事を思わない。そういう中でちょこっと良い話をして、人を助けてあげる。これも徳を積ましてもらうことですな。ギスギスしている人、ちょっとやさしい言葉をかけてあげる。あるいはまた、心で包んであげる。これもお徳を積むことですな。そうしましたら、徳積みをさせてもらうことが山積み、転がっていますわ。ようけ転がっとる。有り難いことですね。
 今日ほど、信心をしやすい、あるいはまたお徳を積みやすい社会は無いですね。みんな信心とは関わり無しに徳を落とすことばっかりやってくれてはりますから、逆に徳を積みやすい社会情勢にあるなと思わさして頂きましてね。有り難うなってきます。ほんとに変な話ですけど……。


 今、お歳暮の時期ですね。どんどん、どんどんお歳暮を送って下さる。その中には、顔も見たこと無い人からね、お歳暮を送ってくださる。「この人誰やろう?」と。これは、私の本を読んで下されたり、テレホン教話を聞いて下されたり。それで「助かりました」言うてね。「柿」やら「みかん」などのお歳暮を箱一杯に送って下さる。
 お徳というものは、別の言い方をしますと「力」なんですね。「徳は弧ならず」徳のある人は孤独ではない。すなわち人を引きつけるんです。
 そうして見ると、今日は合理の社会でギスギスした社会でありますから、余計に徳積みをさして頂きましたら、こういうたら失礼ですけども、顔も見たこともない、お話もしたことの無いお方から、お歳暮を送って下さる。次々ともったいことですね。
 ですから、今日ほど信心しやすい時代はありません。不信心がばらまかれますから、それを拾うていったらそれでええだけであります。
 徳を皆落として行ってますから、その多くの人が落とした徳を拾わしてもろたらええんですわ。非常に信心がしやすい。徳を積みやすい社会であります。ちょこっと人が助かるように、あるいは神様が喜ばれるように、ちょこっと心を向けたら、それがお徳にななりますから、有り難いことになってきます。有り難うございました。

(平成十一年十二月十三日)


牛が青い草を食べて白い乳を出す

 幼い頃に、父親に教えてもろたことがあります。それは、「牛が青い草を食べて白い乳を出す」。不思議だな。そうですね。牛は青い草を食べて白い乳を出す。その乳が牛乳になって、皆のお役に立ってるな。毒蛇も草を食べてるんやで。そして、毒蛇は同じように青い草を食べて毒を出す。草を食べるという事は同じやな。さあ、人の役に立つ牛乳を出すか、白い乳を出すか、牙を向いて毒を出すか。というような事をね。幼い私に教えてくれたことがありました。
 その頃はどれだけ、そのことが理解できていたかそれは分かりませんが、時々それを思う。
 他から見ても『恵まれた条件ですな』と思われても、その恵まれた条件を頂いて牛乳を出せるか、人様のお役に立つ牛乳になれるのか。それが逆に、恵まれた条件が自分も苦しめ、他をも苦しめるような毒になっていくのか。まさに、おかげは和賀心やなと思わしてもらう。


 誰しも毒は出したくないと思う。誰でも人に喜んでもろうたら嬉しいもんな。しかし、もう一方人間には『気まま』ちゅうもんがある。よくね、信心も辛抱、辛抱と言うのは、貧乏を辛抱する。仕事の辛いのを辛抱すると言いますけど、その辛抱はね、根底は何か言うたら、自分の持っておる『気まま』からの辛抱なんですな。
 「朝もっと寝たいな」「いや、まず神様にお礼申さしてもろうて、今日一日お役に立たせて頂こう」とその二つの心がね、葛藤しますな。「朝起きの辛抱」じゃなしに、それは自分の心にある『気まま』からの辛抱なんですな。
 「あんな事したいな。こんなことしたいな」「いや、辛抱さしてもらおう。今はその時期じゃない。辛抱さしてもらおう。こんな事したら我も助からん。人も助からん事になる。辛抱さしてもらおう」
 仕事でも辛いがある。「いや、辛抱さしてもらおう。社会のお役に立たしてもらえるように、ならしてもらおう。」誰しも楽をしたい。その気ままからの辛抱なんですな。
 でありますので、誰でもお役に立ちたい言うのは、片一方に人に喜んでもらえたら自分も嬉しいいうものがある。もう一方には、気ままをしたいと言うもう片一方がある。この気ままをしたいという事に対する辛抱ですな。これが大事なことかと思う。


 その内におかげを蒙らしてもろうてきて、我が心が神に向かうてくると、その気ままをしたいという心が無くなってくる。薄らいでくる。無理矢理、目をむいて辛抱せんでもね。薄らいでくるという。神様がお入りくださるいうことは「無理矢理、辛抱せねばならん」とか、そんなにキバらんでもええ。スイスイといけるんやな。これが『お徳』いう事かな。
 お徳っていっぺんに付けへんねん。最初辛抱せないかん。自分が楽をしたい、自分の好きな事をしたいという、気ままからの辛抱の稽古をしていかないと、お徳はつきませんな。これには稽古がいりますな。


 同じ条件で青い草を食べてお役に立つ牛さん。同じ青い草を食べてキバをむいて毒を出す蛇。条件は同じであります。まさにおかげは和賀心、和賀心です。
 もう一つ奥にある自分を見つめる目を持つと、ある程度いったら、気ままをしたいという心に神様がお入りくださるからね。乗り越えたら、どういうこともないのでありますけど。かえって有り難うなってくるんでありますけど。その線を越えるというか、それが大事なことかと思います。有り難うございました。

(平成十一年十二月十七日)

金光大神は参って尋ねる所が無かった

 金光大神は参ってたずねる所がなかった。あなた方はおかげを受けて遠路の所を参って来るが、信心して徳を受けて、身しのぎをするようになれ。(『天地は語る』一四〇)

 今日頂きましたみ教えで「金光大神は参って尋ねる所が無かった」、こういうふうに教えておられる。これは教えておられるというよりも回顧しておられますね。自分のことを振り返っておられる。
 死んで死んで、また死んでと家族が次々と亡くなる。「一体何がご無礼なのか、何が祟っているのか、分からん。あっちへ尋ねて行き、こちらへ尋ねて行き、あちらのお宮、こちらのお寺へお参りして、何が祟ってるんでしょうか、何がご無礼なんでしょうか」と。あっち行き、こっち行きと尋ね歩いて尋ね歩いて、それでも誰も教えてくれなかった。「この方は参って尋ねる所が無かった」ということですね。ほんまに辛いことですな。


 「あなたはここの努力が足りません」言うたら「ハイ」って努力したらええんやからな。ここの努力足れへんよ。英語、まだ単語覚え方足らんよ。数学足らんよと。「ハイ」と言うてがんばったらええんやけども、死んで死んでまた死んで行く。
 それに対して、どう努力したらええのやろ、何を改まったらええのやろ。いうことですな。悶々となさっていたことやと思う。辛いことやなと思う。それで、何が分かられたんやろう。


 今度逆に「あなた方は遠い所を参って来て、このようにおかげを頂けることができた」言うけれど、「しっかり、おかげ頂いて帰りなさいよ」とおっしゃる。何が分かられたんやろう。ここが大事なんですな。
 人間は神様のお徳の中に生かしてもろうておる。その中で色々な事が起こっておる。神様の中で生かしてもろうておる。まず、そこから物事を出発していったらよいと。
 そしてお願いするのも、今やったら「入試です。よろしゅうお願いします。」だけの部分部分のお願いではなしに、「命そのものが、人生そのものが、どうぞ良い働きをさしてもらえますように、お役に立たせて頂けますように」と、命そのものを願うていく。
 扇町教会の『信心の心得』にいうとります『心と体の調子が調えさしてもらう』天地のリズムと合わさして頂く。そうしました時に、様々な諸問題抱えているが、無事に乗り切るおかげをも蒙らしてもろらっていく。
 そういう大きな大きな天地の神様との出会いを「この方は参って尋ねる所が無かった」と、苦労、苦労を重ねたと。次々死んでいったと。今は安心であると。そういうことを述懐しておっしゃっておられるんだろうと思わさしてもらいます。有り難うございました。

(平成十二年一月二十八日)