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心配を預けて信心する心持ちになれ

 人間であるから、生きている間は先々のことを考えもしようし、心配の尽きる時はあるまいが、それがみなおかげになれば、心配はあるまい。心配は、信心すればみなおかげになる。心配は体に毒、神に無礼である。心配する心を神に預けて、信心する心になれよ。おかげになる。(『天地は語る』二四五)

 今日のご理解は『心配』ということについて、色々と教えて頂いているんですけどもね。『心配』について『天地は語る』の二四五で教えておられますが、人間だから生きている間は先々のことも考えもしよう、無理ないことであると。ところが、『心配は体に毒。神に無礼である』。この『無礼』というものは、神様から頂いた体に毒だから、無礼。ということなんでしょう。
 さらに、人間やから先々のことを考えて、「ああじゃ、こうじゃ、ああじゃ、こうじゃ」と、不安が出てきたり、「もうあかんのか」と思うてみたりする。そういう自分をも神様は包んでくださっておられるという、そのことこが分からなんだら、神への無礼であるぞ、ということですな。
 その次にね、『心配する心を神に預けて信心する心になれよ』。このように教えておられる。心配する心を神に預けて信心する。そうしたら、この「信心する心」はどういう信心なんでしょうな。心配ごと起こって、問題が起こって、お参りしてますが、一生懸命に願うてますがと、ということになりますな、そうしたら信心するということは、参ることが信心じゃと思うてしまう。これは、心配で参ってくるの。ところが、「心配を預けて……信心せよ」とおっしゃる。
 ほとんどの人は心配やから参ってくる。「心配を預けて、信心する心持ちになれよ。信心させて頂け。この信心というのは、どういう信心なんでしょうな。
 それは、どのような状況であろうとも、どんな、問題を抱えておろうが、天地の間に命をい頂き、神様から生かして頂いておるこの命を、神様のために使わせて頂くというのが信心なの。別の言葉で言えば、お役に立たせてもらう。問題抱えて大変じゃ、大騒動じゃと。この大騒動を持ちつつも、抱えつつも、「どうぞ、今日もお役に立たせて頂きますように。今日もお使い頂きますように」と我が心が、神に向かうていく、これが信心。
 「心配を預けて信心する心持ちになれよ」。ほとんどの人は心配のために参ってくる。そうじゃない。心配する心を神様に預けて、信心せよとおっしゃるのはそいうこと。そうすると、天地が動くんですわ。神様が動いてくださるんですわ。人間の考えなんては、小さいなもん。微々たるもの。神様がちゃんと帳尻合わせていってくださる。お願いはお願いとしてさせて頂いて、問題を抱えてる自分、その自分をも包んでくださっておるということを、しっかりと腹入れさしてもらうことがいろうかと思います。有り難うございました。

(平成十一年十一月四日)


信心が進むとお試しがある

 いつも申しておりますが、信心とは、神様と人間との関係を信心と申します。でありますので、人間同士でも「水くさい関係」もあれば「世話だけかける関係」もあったり。あーこれは、あの人は「ええ人やな」という関係もあったりします。神様と人間との関係もそういうことであります。
 「世話ばっかりかけるなー」というだけの関係から「あーこの氏子はええ氏子じゃな」「良い信心ができておるな」と。神様が喜ばれる関係もあります。
 さあ、そこでね。初めは痛い痒いから入信する人がほとんどでありますけども。段々と話を聞いてきて、それを卒業して、神様に少しでも喜んでもらえるような信心へと移る人が十人に一人、百人に一人と世の中にぼつぼつと出来てきます。
 そうしましすとね。神様も大変にお喜びになりましてね。お試しというのが出てきます。


 「そうか、おまえはこのように良いように受け取っていけるか」例えば、一生懸命日参さしてもらう。時のお百度参りではない。信心参りの日参をさして頂いてますと。神様にお喜びになって、その日参がしにくい事態がポコポコと起こってくる。
 「さあ、こういう事やけどもどうする?」例えば、体がちょっと調子が悪くなったり、あるいは、また忙しいことが次々と出てきたりね。お参りができんような状況にポコッと入る。そうすると、「どうする?」「こういう時はどうするんや?」という『お試し』がある。
 あるいはまた、「一生懸命お供えさえて頂こう」「お喜び頂こう」とお供えさせて頂こうと思う。そしてお供えをさしてもらう。真心で向かわしてもらう。すると、お供え出来ないような経済状況にフッと入る。そいう『お試し』がある。『お試し』と難儀の問題とまた違う。一生懸命さしてもろうて、そしてポコッと起こってくる問題は、神様の『お試し』やと思ったらよろしい。
 それは、命を取ろうという、大騒動にならない問題なんですね。いつでも日参も止める事が出来る。あるいはお供えもシュッと止めることが出来る。
 あまり、生活とか命とかに関わり無い事がポッポッと起こってくる。問題とか難儀は信心と関わり無しに起こってくる。難儀はトコトンまでアップアップまでいってしまいますけども……。
 神様の『お試し』は、アップアップまでいかないんです。また、その人に応じて問題を出しはる。お試しをなさる。その『お試し』を乗り越える人、またこれ百人に一人ということになりましょうか。
 しかし、『お試し』まで頂ける信心をするのはたいした事なんですわ。ほとんどの人は『お試し』までいきません。
 よく、「お試しを頂いた」という人がありますけど、「それは違うよ、自分でひっくり返っとるねん」って思う時がある。
 神様からの『お試し』は、自分でひっくり返るのと違いますねん。「こうさせて頂こう」と一生懸命に取り組んだ時に、その「こうさせて頂きましょう」がね。ちょっと不都合になってくる。出来ない状況に入る。それが『お試し』なの。


 教祖様も一生懸命に農業なさる。神様と一緒に農業するおかげを蒙っていかれる。ところが、「うんか(稲の害虫)」がわく。「どうさせて頂きましょうか」「田に油を入れましょうか?、止めときましょうか?」「油を入れるな」「油を入れなんだら不作になります」「かまわん、油を入れるな」そして「はい」油を入れなされない。
 それでも、ちゃんとおかげになっていく。というふうにお試しが次々とありますね。その『お試し』に合格さしてもうていくと、次々とまた、大きな展開のおかげを蒙ります。
 なかなか『お試し』まで頂ける人は少ない。しかし、『お試し』を合格出来る人もまた少ないですな。信心は「神人あいよかけよ」と申しますけども、あいよかけよにまでいく人はなかなか難しいものであろうかと思います。有り難うございました。

(平成十一年十一月十八日)

子が助かるために、親がキリキリ舞いしている。

 神は人間本体の親である。信心するのは親に孝行するのと同じようなものである。(『天地は語る』四)

 天地金乃神は人間の親神である。かわいいわが子をどうして難儀に遭わせなさるであろうか。わが子をもって納得するがよい。(『天地は語る』五)

 今日のご理解「神は人間の本体の親である。信心は親に孝行するのと同じようなものである。」このように神様の事を教えて下さっておりますが、孝行する前に親はキリキリ舞いしてね、子供の事を守ろう守ろうとしております。「あれ欲しいな」「これ欲しいな」思う前にそれを用意し、準備をしてくださっておられる。だから、親孝行いうのは、「肩もみましょうか」「足さすりましょうか」「小遣いあげましょうか」というだけではなしに、親の思いをどれだけ受けることができるのかいうのが、親孝行ですな。


 神様の思いをどれだけ、受けさせてもろうていくか、ということが信心なんです。そうしますとね、『おかげ』いうのは信心の影なんですわ。勝手についてくるもの。「親神様は人間に何を求めておられるのか」と「大きな心になってくれ」「天地日月の心になってくれ」「お役に立てる心を持ってくれ」「人を愛する神のような心になってくれ」「命のかぎり生き抜いてくれ」「小さなそろばんを外してくれ」と、これが親神様の人間に対する思いなんですね。その思いを受けていこうとするのが信心です。親孝行いうたら「足もみましょうか」「肩もみましょうか」「お小遣いあげましょうか」まーそれも親孝行には違いないんでしょうけども、それだけではない、もっと命の根底から親様の方へ向かわさしてもらうことです。


 よく信者さんからも言われるですが、「先生やから上手いこといきますねん」「先生やからおかげ頂きますねん」とこういう言い方をされる方があります。まあ、そういうたらそうかいな。「先生やからおかげ頂く」じゃあ、先生って何やいうたら、神様の思し召しにちょっとでもかなうていくように、神様の願われるような生き方が出来ていくように、という事を常に根底において、その事を願いとしているのでおかげになっていくんですな。そうやから、皆も別に先生でのうても、皆もそういう生き方をさせてもろうたら、そういう信心をさしてもろうていったら、おかげになっていくんですわ。「先生やからおかげ頂ますねん」「うまいこといきますねん」違うんですね。先生が御用させて頂くいうことは、そういう神様のい思し召し、親神様の思し召しを少しでも頂いていこう、頂いていこうとする生き方をしていっているので、おかげを頂くんですね。そこらのあやちがなかなか分ってもらいにくい。
 そやから、教祖様はその点をみやすうおっしゃっておられます。「信心は親に孝行するも同じ事」一番よくわかるのが、学生の子供を持っている親ですな。「うちの子ね。英語一〇〇点ですねん」いうて非常に喜んでいる。子供が良い成績を取るようになってくれたら、親も鼻高々や。「今度、どこそこの大学受験しますねん」「うちの子はどこそこ大学行ってますねん」あれはね、何を現しているかいうたら、親の心が現れて、どうぞ、子供が立派な者になってくれ、すばらしい者になってくれい、という親の願いが、そういう事に現れてくるんですな。
 そうすると、一生懸命に勉強して、良い成績を取っているその子供は、何もせんでもね、勉強は自分のためにするもんやけど、親孝行してますな。大変な親孝行してます。というような事ですな。というふうに、親の願いに生きる。神様の願いに生きる。これが御神願に生きるということであろうかと思います。有り難うございました。

(平成十一年十二月十一日)