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教えを頂く親は一人

 先日のニュースで、茶道の武者小路家の先代の家元がお隠れになったというニュースが出ておりました。私は茶道のことはようわかりませんが、千利休から始まって、表千家、裏千家、武者小路家と大きく言えば三派に分かれて、今日まで三百年以上の長きにわたって、茶道が延々と続いておる。ということはすごい文化やなあ。日本文化の中で茶道の文化はすごいもんじゃなあと思わさしてもらう。
 そこでひとつ考えさしてもらう。同じ千家から出ておるですけれども、そこから大きく三つに分かれる。私は茶道のことよくわかりませんが、同じお茶をするにしてみても、お武家さんの頂き方、あるいは町人のお茶の立て方、あるいはお公家さんの立て方、その人種といいますかね。それによって分かれてきたということを聞かしてもろてんですけれども……。どれがどれか私はようわかりませんが……。
 千利休から始まったと言われておるんですけれども、それがずっと大きく三つに分かれて、もとは千利休からきておる。武者小路のお茶の立て方は、表と裏とはちょっと違うんでしょうなあ。茶筅も違うし、茶杓も違う。そうした場合どっちも千利休から出てるんなら、どちらでもええやないか、ということになってくると、ちょっと違いますなあ。それぞれの三つの派に分かれたなら、分かれた理由があって、その精神の中身が違うてると思います。表もやって、裏でもいいじゃないか、表でガチャガチャとこうやって、裏もガチャガチャとこうやって、「表はこうでっせ。裏ではこうでっせ。」そうしてる人はただの物知りや。お茶やってる人じゃないんですな。ただ単に物知りなんですなあ。三つの派に、その流儀の精神というもがきちっとありますね。お茶やったらどこでもええねんというのとは、意味が違いますなあ。


 これ同じことが信心でも言える世界がありましてね。各教会それぞれにあるんですけれども、「同じ金光大神やからかめへんねん」というて、あっちこっちゃ、お参りする人はホントの信心できませんなあ。やはりその教会で、初代から続いておる信心の質というものがあるんですなあ。そやから信心は『相縁奇縁』おっしゃる、その質に合うご信者さんが、そこに行かしてもろうたらええ、あっちもこっちもお届けして、お願いしている人は、ホントの信心になりませんね。
 よく言われる、扇町でお参りして、よそへ行って、そこで同じようなお届けをしておる。「先生、向こうの言うことと、親先生と違いますなあ」、よう言うてくるけれども、違うて当たり前なんです。料理の仕方が違いますからね。同じ魚の料理でも、料理の仕方が違います。味付けも全部違いますでね。というふうに、同じ金光教やから、どこでも同じやねんと言うて行きはる人は信心になりません。まあ、ご近所に行かしてもろて、ご近所でごあいさつに行く、あるいは、ご拝礼申す。天地金乃神は世界中やから、ご拝礼申すということはかまへんのやけども、教えを頂いていく、お取次を頂いていくということは、一本に絞っておくことやね。そうしませんと、ややこしいなってなってくる。
 表も裏も武者小路も一緒だねん。お茶は飲めば一緒かわからんけれども。ちゃんとした茶道をしようと思ったら、きっちとした茶道をしようと思ったら、「私は武者小路です。私は表です。裏です。」というものを、きちっとものを持たしてもろときませんと、訳わからんようになってしまいます。
 信心も同じで「どこでもよろしまんねん。金光教やから、どこでもよろしまんねん」ということで行って、教えを聞いたり、お取次をを頂くと、ややこしいなってしまう。ほんとの信心になりませんなあ。ということです。教えを聞くいうことは、教えを頂いていくということですからなあ。どこでも一緒だんねんということになると、ややこしいことになってきます。決してよそのお教会を、よその先生をいい加減に思ったりする必要はない。ご近所に教会ができた。あるいは、ご拝礼したり、ご挨拶に行くいうことはあってもいいいんですけれども。
 私が教えを頂くのは、この先生。教えの親はこの先生。親というものはっきりさしてもろうとくことですね。


 しかし今日、各教会で教えがだんだんなくなってきたということも事実としてあります。そうしたら、「ごめんなさい。先代先生までは教えを頂きましたけれども、今は教えが頂きませんので、ご挨拶とか、ご恩には感じさしてもらいますけども、改めて教えの親を頂きます」ということで教えの親を頂くことも出来てきました。
 親というものは再々変えるもんじゃございません。しかし親がなくなった場合は、仕方ありません。また新たな親を頂かななりません。代を重ねてきて、教えをなさらない教会の出てきたということも事実であります。それではどうもなりませんね。しかし、教えを頂く親は、一人にさしてもらうことが大事ですね。そうせんとややこしいなって、訳わからんようになってしまいます。有り難うございました。

(平成十一年八月二十四日)


信心や教会を道具に使う

 教会にはいろいろな人が来られます。そしてまた、その教会の中で子供たちも育って行くんですけれども。間違えやすいのが、育っている教会の子供、来ている子供、あるいは教会の中で育った子供というのが、大人にとって都合のええ子供になっているかどうか。そうとは限らない。大人にとって都合のええ子供というのは、よう働いてくれるとか、一つの型にはまってくれるということ。ひょっとしたら、なんぼ教会で育った子供でも、ホームレスになる子がいてるかも分からんし、社会人としてちゃんとできない、あるいは学校がちゃんと行けない。まあ、世間で言うたら困った子、というのもターンといているかも分からない。それと、教会に行っていたというのは、質が違うんやな。とかく大人の見方というのは、教会へ行っていたら、きっとええ子や。大人から見たらええ子。ちゃんと勉強をようしてくれて、家の手伝いもようしてくれて、学校卒業したらちゃんと、ええところへ就職してくれて、バッチリ仕事ができてという、大人が描く良い子とは、どうも違うみたいやな。それはその人間の質であって、教会に来てようが、来てよまいが関係のない話なの。
 ところが教会に行っているからというて、大人にとって良い子、ようできた子と、妙な期待をかけ過ぎる。それは十人十色であって教会へ来ようが来よまいが、勉強ようする子はようするし、パッパ、パッパと動ける子は動けるし、ということですな。ただ教会へ来てる子と来てない子の差を大きく言えば、二つほどあると思う。


 その一つは優しさね。教会へ来てた子は、人のこと思えるという優しさを持ってる。社会的にようできるとか、できないに関わりなしに、教会に来ている子はすべて、人に対する優しさを持っておるということは、人間として大事なことやなあ、ということ。
 もう一つは、自分の計算、損得計算で動くんじゃなしに、お役に立っていこうという動き方ができるということがありがたいですね。そのお役に立ち方が、十人十色の立ち方がある。チャチャ、チャッとできる子もあれば、ぜんぜんできん子もある。できない子なりに、社会的な価値判断とは別に、それなりにお役に立っていこうというもんがある。ここをありがたいなあと思わさしてもらう。
 とかく教会へ行っていたら、大人にとってええ子。「はあ、たいしたもんやなあ、あの子は出世するで」というような子供になるように錯覚をしてるところがある。それは関わりのないことやなあ、という思いをさしていただく。かえって、なんやこの子はしゃんとせん子やな。なんのために、教会に行っててん、というようなこともかも分からん。しかしそれは、信心とか教会を大人が道具に使うてるだけなんですね。「教会へ行ったら、しゃんとしますやろうか……」と。


 だいぶ前ですけれども、家庭内暴力いうか、親から見て、どうしょうもない子供がいて、学校もろくに行けへんわ。ええ年してて、端から見たら、ブラブラ、ブラブラしておるわと。そういうところからご神縁を頂いて、親が参ってきたのですけれども……。
 「先生、学院行かしてやってください」と、学院を道具に使おうとする。
 「教会へ来たら、しゃんととしますかいな」という。そういうことで教会へ来さしてくださいとか。教会へ泊めてやってくださいとか。あるいは学院へ行かしやってくださいと言う。教会、信心とか学院とかいうものを道具に使おうとする。
 それは無理ですな。それぞれの質というものがあって、現代社会の落ちこぼれと言われるそういう質なんですね。仕方がない。
 しかし、信心の世界は、社会的な落ちこぼれやから、ダメかというとそうではない、信心の中で救われていく世界がある。そこのところのあやちを分からしてもらうには、なかなかのことやな。大人の方もしっかりとそこ、分からんと。
 「これでも信心しとんのか、教会へ行っておるのか。教会に行っててもどうにもならんもんじゃなと」というようなところでしか見えない。あるいは、大人の方が逆に、信心やら教会を道具に使うてるところがあるんじゃなかろうかと思います。有り難うございました。

(平成十一年八月二十五日)

人と比べることのできない特質

 昨日、一昨日と御本部で開催されました輔教志願者講習会が開催された。教会長先生を助けて、さまざまな教会のご用、人様が助かる助かっていくための働き方を、信奉者の立場でしていこうと願いを立てられて、そういうお役に立ちたいという人たちを『輔教』と言うんですけれども。その願いでられたお方に対して、一応お道の信心とはどういうことなのか、ということやら、あるいは輔教とはどういうことをさしてもらわないかんのか。そういうことをご勉強を頂く講習会がございました。私もこれで六年か七年講師として務めさして頂いておるんですけれども。


 昨日の講習会へ出席なされて、三つの班に分かれたんですけれども。私の班は二十歳から四十四歳までの、一番若手のクラスを受け持たしてもらった。それで講義を始める前に、班員の名簿が配られました。全国からお越しになっておるその方たちの、職業とかが書いてある。教会名はもちろんのこと。また備考として、どういう立場の人ということも書いてある。その備考の中に『全盲』、すなわち全面的に目が見えない。全盲のお方がおる。「うわ、これは黒板使われへんな」と思ったんであります。全盲のお方が私の班におられまして、講義を受けて下された。前から二列目にお座りになっておられましたんですけれども。
 私の講義をカタカタ、カタカタと点字でメモされます。点字を打つのが早いですねぇ。休憩時間に、そのお方に、
 「失礼ですけれども、生まれながらに目を悪くされたんですか。それとも途中からですか」 
 「途中からです」
 「うわー、大変でしたなあ」
 「いいえ」
 「黒板を使わないかんこともあるんですけれども、黒板を使うてよろしいか」
 「はい、大体お話で、黒板使われてもお話しでわかりますから……」と言うてくだされて、 
 「お使いいただいて結構です」
 「いや、申し訳ない」
 ちょっとだけ黒板使うたんですけれども。「ええー、○が書いてありまして……。言葉で言わなしゃあないねん。○が書いてありまして……、中にはこういう文字が書いてありまして……。」
 まさに目の見えないお方に黒板の説明をさしてもらわないかんことになりました。一番大事なところがありまして、どうしても黒板を使わないかんことがありまして、使わせてもろうたんでありますけども。それでも一生懸命に聞き取りくだされまして、ご理解くださいまして……。


 こうして見さしてもろうてね、誰が見ても「はあ、大変じゃなあ。エライことだなぁ」とわからしてもらう。それを乗り越えて、それを逆にバネにして、そしてお役に立っていこうという、それが信心のエネルギーですなー。みんな大概の人はね、九割の人は自分のしんどいこと、辛いことは埋もれてしまいますねん。「うわー、もうアカン。もうーダメー。私は何と不幸な人間でございましょうか。」と言うてね。大概の人は、その自分の持っておる不幸、それが身体障害の不幸もありますし、それだけとは限らん、貧乏という不幸もある。片親で育ったという不幸もありましょう。あるいは両親とも体が悪かったという不幸もありましょうし、いろいろな人間が生きていく上で十人十色の条件がある。
 例えば目の見える人から、目の見えない人を見たら、ハンディですわな。不幸の条件や。しかし人はね、自分はこれでハンディだ、これで不幸なんだと思うけれども、本当はみんなそれぞれ人とを比べることのできない特質なんですわ。カメさんはウサギさんにならんのですわ。ウサギさんはカメさんになれんのですな。
 ところが、カメさんがウサギさんを見て、「あんたはええな。よう走れてええなあ」ということで見てみると、ハンディですなカメさんわ。そこのところを見たら。ところがカメさんは水に潜れるんですよ。ウサギさんは水に潜られしませんねん。そうしてみると、ウサギさんはハンディですなー。カメさんから見たら水とういうことになってくると、ウサギさんはカメんから見たらハンディ持ってますなあ。とういうふうに、比べたら皆ハンディなんですよ。そういう意味では、皆ハンディで辛いものを持っておる。
 しかしそういう比べることのない、これが信心に大事なことは『他と比べたらいかん』という常に言うてる、『なすびはなすびであり、キュウリはキュウリである』ということ。ウサギさんはウサギさんであり、カメんはカメさんであるということ。カメさんはな、ウサギさんを見てハンディと思い出したら、「私ほど不幸なものはありません」という。「私ほどを辛いということはありません」ということになってしまう。しかし、すぐ比べてしまうんですわ。目がついてますんでなあ。よその花は赤く見えるという。よその芝生はきれいに見えるという。すぐそっちへ人間はいってしまう。
 そやから信心の一番大事なところは、他と比べないということ。他と絶対比べることができないという自分だということ。また人を見てね、あの人はあの人として一番素晴らしい、あの人なんだと。カメさんはカメさんとして素晴らしいだ。ウサギさんはウサギさんとして素晴らしいんだ。そしてウサギさんはウサギさんとして、カメさんはカメさんとして生き抜いていく力を頂いている。これを『信心力』という。


 昨日受講された全盲のお方、見事にそれを頂いておられますね。全盲ながら、教会のお役に立たしていただく。人の助かるお役に立たせて頂くということなんですよ。「自分が助けてもらいたい、私はこんなんでんねん。私は不幸だんねん」と言いたい。そうじゃない、そんなことはみじんもない。「人が助かるお役に立たせてください。こんな目の悪い、何も見えないない、不自由なもんやけれども、どうぞお役に立たしてくださいますように」と。
 ここが大事なところなんですなあ。生き生きしておられました。必死に私の講義をカンカン、カンカンと。点字の、点々を打った穴の開いた定規があるんですね。打つのが早いですねぇ。カチカチ、カチカチとメモっておられました。それで非常に顔も沈んだ顔じゃないんですよ、生き生きしている顔なんですねぇ、「信心の力って素晴らしいもんじゃなあ」と。
 端から見てあの者は恵まれているなあという人でも、ダメな人はいくらでもおる。「私ほど不幸な人はございません」と言うて、首吊ろうかいう人間もようけいてる。端から見て、「あんたどこが不足だんねん。どこが愚痴だんねんという人でも、「首つりたいな。首つりたいな」という人がなんぼでもいてる。これも難儀な人やな。
 信心は他と比べることのない、そして自分しか頂いてない素晴らしいものを、大事にしてお役に立たしてもろていく稽古をしていくのが、『信心さして頂く』ということで、一番金光大神様の信心で大事なことかと思います。有り難うございました。

(平成十一年八月三十日)