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神は自ら助くる者を助くる

 確か、宮本武蔵の言葉であったと思うんですけれども、『神は自ら助くる者を助くる』。神はね、自らを助けようとする者を助けるという一節があります。これは自力の信心。信心にも他力と自力とがあります。
 他力というのはね、自分は、ほんとうに全然力がないので、ただひたすらに神様、仏様にお頼み申しますという。この、一番本家本元であるのが、法然上人あるいは親鸞上人、『南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……。』と、人間というものは非力な者であるからから、ただひたすらに願うていくと。
 反対に今いうたように自力の信心。『神は自ら助かるもの助かる』。自らが取り組もうとしないものは、神も仏も助けることができない。この信心の代表選手が禅宗であります。
 金光大神は自力でも他力でもない。「神と人とあいよかけよ」とおっしゃっておるんですけれども……。
 今日はその自力の話をさしてもらいましょうかね。


 教会で祈願カードを作らしてもろてますね。その祈願カードの中のひとつに勉強成就、入試合格というものがあります。学生の本人さんはもちろんのこと、その家族あるいはまた、知り合いの人も、「うちの家族の誰々が、今度大学入試です。高校入試です、よろしくお願いいたします」と。本人だけではなしに、家族やら、あるいはまた知人から、そのお願いのカードをお届けされる。
 面白いですねえ。その家族やら、知人から願われる人、学生は、勉強に一生懸命取り組んでおる人ですね。
 「あの子は一生懸命勉強してる。どうぞあの子の勉強が成就いたしますように」と、他の人から願われる人。そのことに一生懸命取り組んでいる人は、他の人からも願われている。
 勉強せん子は、親だけから願われておる。「これをなんとかしてやってください。ひとつも勉強しょうりません。入試くるのに……、どうぞよろしゅうに……」と。これは本人も願わない。親だけが願う。面白いですね。親だけしか願わない入試の子。本人は全然願わないんですな。親は一生懸命「どうぞ、よろしくお願い申し上げます」と親だけが願う。
 ところが一生懸命取り組んでおる子は、本人も願うし、親はもちろん願うし、他の家族も願う、知り合いの人も願う。おもしろいもんじゃなあ。


 本気に取り組む、一生懸命に取り組むということは、周囲も願わずにはおれんようになり、神様も願うてくださるんやな。取り組まないものは、もう親だけがイライラしておる。「何しとんじゃ、ほんまにもう。どうぞ、神様、本人が勉強する気になりますように」と、親が願うてる。本人は全然に願わない。周囲も願わない。親だけが願うている。
 その入試とか勉強成就の祈願カードを出している人を見さしてもらうと、面白いもんだなぁと。「神は自ら助くるものを助かる」。本気にしているものをやはり、周囲も助けようとするし、あるいは神様も助けようとなさるんじゃな。それを本気に取り組まない者は、「アホやな」で終わってしまう。
 入試くるのに、ひとつも勉強しよらん。しかし、親は願わないわけにはいかん。「何とか本気に勉強する気になりますように」。親だけは見捨てへんな。ありがたいもんやな。本人は自分が自分で見捨ててもな。親だけは見捨てない。ありがたいもんじゃなあ。
 ああやっぱり、アカなんだってなる。そりゃ、勉強せんかったらあかんわな。「やっぱりアカなんだ」と。本人自身もあきらめてしもてんのやけども、親はあきらめへんな。「どうぞ本人、勉強する気になりますように」と、一生懸命お願いしておる。有り難いもんやなと思うけれども……。
 やはり、本人がその気にもならなきゃ話にならんわな。本人がその気になると、親も、周囲も、神様も、私も、もちろんそうやけども、一生懸命願うようになりますね。そこを宮本武蔵が『神は自ら助かるものを助くる』と言うてるんやろうなと思います。有り難うございました。

(平成十一年八月十九日)


評価される生き方から、お役に立たしてもらう生き方

 人にも、それぞれの質とかタイプとか、いうものがありましてね。よく言うことが、「それは私の性分でんねん。直りますかいな。」とよく言いますね。「私の性分ですねん」。性分は、大阪弁かな。標準語でいえば『性格』ですね。「私の性分ですねん。そんなもの直りますかいな」と、いうようなことを言う。確かに性格は直らんところがあって、またそれなるがゆえに、特色があるんですけれども……。
 人間としての内容というか、それが大きくならしてもらわないかん、その性分なりに、大きならしてもらわないかん。何が大事かということが、見えさしてもらわないかん、ということが大事ですなあ。これは性分に関わりなしに、稽古によって変わらしてもらうことができる。


 信心と勉強とはよく似ているので分かりやすい。
 学生さんが勉強する、また試験がある。そうすると、ええ点取れた時には親に見せるねんな。「お母さん、見て見て」と。悪い点はな、引き出しの中に隠すねん。おもしろいもんや。
 そうしてみると、勉強というものは誰のために、なんのためのにしてるんだいうことは、案外分かっていて、分からないんやろうなあ。「お母さんに喜んでもらいたいなあ」はあるねん。「ほめてもらいたいなあ」は、あるねん。そやから、ええ点の時はおかあさんに見せるねん。お母さんに喜んでもらう。「ええ子や、ええ子や」言うてもらいたいたい。「よう勉強した。賢い子や」、「お前はアホか」言われるよりも、「賢い子や」言われる方がええ。ええ点の時には、見せるんやな。というふうに親から、「ええ子や、ええ子や」と言うてもらいたい。という、他の人に評価をしてもらいたい。これ人間みんな持ってるんですよ。


 子供育てる言葉の中に、こういうことがある。
 「して見せて、言うて聞かせて、させて見て、ほめてやらねば、誰もせぬぞや」
 という言葉がある。
 これは子供を育てる時の一つのルールといいますか、こうせんと子供は育っていきませんよと、最後にほめてやらねば、誰もせぬぞやと。最後に「ほめる」と。また下世話はな言葉で、「おだてりゃ、ブタでも木に登る」言うてね。もう人間ちゅうのは、ほめたり手をたたいたりしたら喜ぶ。
 ちょうど孫の眞美が、一歳ちょっとになって、自分でできるようになって、上手いことしたら、自分で手をたたいてる。「皆、上手、上手」とやったものやから、自分で上手、上手をやる。そして「おまえらも、手をたたけ」と催促しよる。うまいこと歩けたら、上手、上手。ご飯ちゃんと食べれたら、上手、上手。というふうに、他に評価をされる。良い評価をされたいというのが、人間の中にある。それがあって、当たり前なんですね、人間社会に生きとりますからな。他に評価をされたということは当たり前なの。
 勉強でも、お母さんに、「はあ、ええ点とったなあ。はあ、賢いな。賢いな」いうてもらい。悪い点の時は隠すと、こうなる。それが見つかったら、怒られないかんとこうなってくる。


 それがもうちょっと物事わかってくると、お母さんにええ点とって、賢い、賢いといわれる勉強の仕方やなしに、「これもひとつ勉強しておきたいなあ。あれもわからしてもらいたいなあ」という、自分自身の身につく勉強へと変わってきますなあ。自分自身の身に付く勉強へと変わっていく。また変わらないかん。勉強の仕方は、それぞれの性質によってな、あるいはまた、好きな勉強というものがありますけども……。それは性格や、質なんですけども。その質に関わりなしに、ほめてもらうために、お母さんにほめてもらうための勉強から、これひとつ分からしてもらいたいなあ、という勉強へと変わらしてもらう。この質の転換、段階の転換というてもいい。
 ほめてもらおうが、もらうわんとかではなしに、自分がこのことを勉強したいと。
 次にもう一つ進んでみると、「この勉強が、お役に立ちますように」という勉強に変わっていく。なかなかそこまでいける人は少ない。勉強で言うたらそうなの。仕事でも何でもそうですけれども……。
 評価をされたい。ほめてもらいたい、というところから、自分の天職じゃ。仕事で言えば、自分の天職だとわからしてもらえばいい。そしてもう一つ進んで、お役に立たしてもらうんだというところまで、展開さしてもろうていく中身にならしていただきたい。
 信心でも同じことでありますなあ。そういうふうに、段階を経ていかな、いかんのでしょうけども……。中身が変わってくるという生き方に、質に、ならしてもらいたいもんじゃと思います。有り難うございます。

(平成十一年八月二十日)

おうてるけど間違うてる

 今、教会では開教九十年の記念祭に向けて、教会史第四集の編集作業が、毎日、毎日、夜遅くまで続けられております。また同時に教話集『一日一話』第五集を、今日からまた印刷に入るんでありますけれども。若い人が毎晩、よう頑張ってやってくれてるのは、ありがたいことだと思います。
 そういう中で、一昨日でしたかな、夜食にと思って、大阪名物の『たこ焼き』を買いにやらして、夜食に頂いてもらいました。それで、どこのたこ焼きがおいしいか、私はよう知りませんけれども、「どこそこの、たこ焼きがおいしい」ということで、買いに行った。帰ってきましたら娘が、そのたこ焼きを見て「あっ、このたこ焼き、おばちゃんが、舟(舟というのは、たこ焼きを持って帰るのに詰める器のこと)に入れたやろ。」買いに行った者が、「なんでわかるの?。」「ここのたこ焼きはね、タレがおいしいねん。タレちょっとしか塗ってへんやろ。ちょっとしか塗ってへんのは、オバチャンやねん。ようけ塗るのは、オッチャンやねん。」言うてみんなで大笑いして……。「はあ、そうかオッチャンはおいしいタレをようけ塗るか。オバチャンはしっかりもんやから、ちょっとでも始末してタレをちょっとしか塗れへんのか。」いうことで大笑いしたんですけれども。
 どっちがおうてるんでしょうかねぇ。オバチャンはしっかりもんやから、タレはちょっとでも少なく塗って、おいしいタレを長持ちさすというか、少なく使うていく。オッチャンはおいしいタレをようけ塗って、買いにきたお客さんに喜んでもらう。どっちもおうてるやけれども、どっか間違うてるなあ。オバチャンは……。


 これ、同じことがねぇ、市場の八百屋さんにありました。これは、戦前からお付き合いしている古い、古い八百屋さんで。扇町教会の大祭や月例祭の神饌物、全部そこで整えさしてもろうておった。ところが亡くなった主人は、いつもええ品物を仕入れていた。その息子さんも一生懸命ええ品物を仕入して頑張っていた。しかし、その息子さんの奥さんが亡くなりました。
 その後、後妻さんがきはった。年が十五、六才年下の若いお嫁さんを貰いはったんや。「オッチャン、若い嫁さん来て、よろしましたなあ」と、みんなからひやかされてね。「イヤー」と喜んでた。
 ところが若い嫁さんが来て、数年たってくると品物が落ちてきた。
 「このごろ、八百屋さんの品物悪いなあ。」
 それでもそこで買うておった。わざわざ「ええの入れてやー」言うて。
 ある日のこと、そこに行ったら、夫婦げんかしてはるの。それをちらっと耳にした。どういう夫婦げんかというと、奥さんが
 「昨日の分から売らないかんやんか。」
 昨日の売れ残りから、出さないいかんと。このように主人に言うてる。売れ残りはね、例えばキュウリを今日仕入れたのは、一山五十円なら、売れ残りは一山十円にする。そうすると、お客さんは、これを売れ残りじゃと思って、納得して昨日のキュウリを買う。見た目は同じかわからんけれども、一山十円と同じ本数で並んでいても、「これは新しいもんじゃ」とそれを納得して買うから、そのようにせなあかんねん。お嫁さんは、
 「そんなことしてるから、儲かれへんねん。キュウリは見た目はわからないから、一山五十円にせなあかんねん。そんなへたな商売してるからアカンねん。」というをやりとりしている。それをちらっと聞いた。
 「はあ、この店だめになるなあ」、お嫁さんしっかりしているから、だめになるなあと。ところが、十五、六歳も若い嫁ハンや、はっきり言えばな、それ以上オッチャンはお嫁はんによう言えへんねん。キャンキャン、キャンキャンと言われたら、やはり家庭平和を乱したくないもんがある。そこまで言うなら、しゃあないがなというところがあるので、それ以上オッチャン、よう言い張れへんかった。
 そういう目で見たら「なるほどなぁ。品物悪いはずやな」と。だんだん、だんだんさびれてきて、とうとう潰れました。この北(梅田)の飲食店を一手に引き受けた八百屋さんや。ところが、だんだん、だんだん品物が悪くなって、そのお店は潰れましたね。『おうてるけど間違うてる』ねん。しかし、そこでご主人が、「お前、向こう行け。出てくるな。もう店に出てくるな。商売のことに口出しするな」と言えたら、ええのけどもね。今日び、これだけ女の人が強くなったら、言われへん。家庭平和を乱すのは誰でも嫌やわなあ。家の中でツンコラ、ツンコラやられたらしんどいわな。そやから、「もう言わんとこ」ということになるんでしょうなあ。結局は、店を潰してしまうというようなことになりましてな。本当に気の毒な八百屋さんでした。


 なにが幸せなのか。何が大事なのか。そうしてくると、店がだんだん下火になってくるでしょう。店の中が暗くなってくる。店員に若い店員を雇うてる。その若い店員と若い奥さんが、店の前でいちゃつき出したの。それをおとっつあん見て、見ぬ振りしてるのね。何とも言えない、寂しい光景がある。奥さんも流行らないから、おもしろくないねんな。店も暗くなるねん。それで家帰っても暗いから……、浮気してるがどうか知らんけれども、何もかもが、だめになっていく世界ね。何もかもがザーと落ちていく世界。


 その基本、昨日のキュウリを同じ値で店頭に並べるか。いやお客さんには、得心して買うてもらう。これは昨日のキュウリやから一山十円で。その当時ですよ。これは新鮮なキュウリから一山五十円で。若い嫁さんは、見た目は分からんと言うが、そんなことしたら、商売ダメになる。儲からへん。古いのから売っていかないかん。おうてるやけど間違うてる。
 そういう、なんでもないことやけれども、人生がそのへんで大きく狂うか、総狂いなるか。そこで主人方が、「口を出すな。」いうて抑えることができるか。
 しかし、今の男の人で、それを抑えることができるか。しばいてでも、抑えることができるだろうか。そうなると、家庭不和を起こして奥さんすぐ「サイナラー」ということになるね。嫁はんを殴ったら「暴力振るうた」となるかわからんね。そこらのあやちが非常に難しいですね。
 そやから、いつも言いますけれども、「半年間教会離れたら、物の見方が変わってきます」とよく言いますが、何が大事かが見えんようになってきます。一生懸命やってても、何が大切かが見えなくなってきます。有り難うございました。

(平成十一年八月二十一日)