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知ってると、真実が分かるとの違い

 身も心も神様の方へ向けておらぬと、十分のおかげは受けられぬ(扇町教会発行『日めくり 一言一句』より)
 ■解説■「これさえおかげを頂ければ結構です」と願う人があります。なんと願いの小さい人でしょう。神様は子々孫々まで助けてやろうと思っておられるのです。同じ信心をするのであれば、そのような大きなおかげを頂きたいものです。

 我々は目や耳や頭やら、あるいは情報で物事を分かったり出来たりすることができます。このごろは地球の裏側のことまで、情報を知ることができる。「はあ、向こうの国ではこんなことが起こったなあ。九州では、北海道では雨降っているな。」ということを知ることができる。その「知る」ということと、物事が分かって『分かりようが深くなる』ということは全然違いますんじゃな。


 例えば、こないだから、神奈川県で大洪水が起こってますなあ。キャンプしておられて、川の水かさが大変に増して、テントを流されて、大勢の方が亡くなっておられる。その人たちは都会人間でしょうなあ。都会人間が、テントを張っているんでしょうなあ。地元の人は張らないでしょうなあ。
 おそらくキャンプ行くぐらいやから、天気を見ているはずですわ。天気予報を聞いているはずですな。雨が降る、雨の準備はして行ってるはずや。それが、あの谷間で雨が降ったら、どうなるかということは、知らなかったんでしょうなあ。あの谷間で大雨が降ったら……、どうなるかということまでは知らなかったのでしょうなあ。
 雨が降るということは知っていたでしょう、それで雨具の用意はしてたでしょう。いったん、大雨が降ったらこの川州は、どうなるか。降りかけてから、水がどっときて、逃げる時間はあるか、ないのかということは知らなんでしょうなあ。
 そのようにね、『知ってる』ということと、『物事が分かる』ということは違いますなあ。分かりようの深さ、大きさといいますか、これは例えば、キャンプの洪水にあって流されることで言えば、天地を分からしてもろてない。自分中心だからそういうことになってくるんでしょうなあ。何でも物事をみんな知ってるいうのと、真実が見えるということ。


 信心でも同じことでして。『神は声も無し形も見えず』のお方ですからね。神様を分からしてもらう、神様の思し召しを聞かしてもらうというところで、神経を張らしてもらうということ、それがいるんですなあ。言われたからこうする、ああする程度の人間には、神様の思し召しなんか分かりませんなあ。
 ですから、今日の日めくりのみ教え『身も心も神様の方へ向けておらんと、十分のおかげは受けられない』。心を常に神様の方へ向けておらぬとね、分かってるつもり、『はあ、信心って、こんなやなあ』と知ってるつもりでも、全然かけ離れてたり、全然信心になってなかったりしますなあ。それは、神様にわが心を向けんといかん。先ほどのキャンプで言うと、天地自然に心を向けんと、その大洪水いうことが起こるいうことが分からないですな、キャンプをしたいという、自分を中心にして思ったら、分かりませんなあ、見えませんなあ。


 ずっと前に日露戦争が始まる前に、満州や雪深いところ、極寒の場所で戦争せないかんということになってくる。それで軍隊としては、その寒い所でどのような戦いができるか、またどういう装備がいるか。満州に兵隊を行かすので、どういう非常事態が起こるのか、食糧はどうしたらええのか、それをわかるために八甲田という山へ雪中登山を命じる。
 二つの部隊が登ったんですね。青森側と秋田側からね。山頂で情報交換してそれぞれ帰る、ということを命じたんですね。大雪の中、あるいは極寒の中ではどういうことが起こるか、それを調査するためにね。両方の部隊を、八甲田山を登らすんですね。
 ところがこの秋田の方の部隊の連隊長が、張り切りすぎて「よし、向こうの青森の部隊よりも早く山頂へ到着しよう。こちらが名誉を取らないかん」ということで突き進むんですね。
 青森の方は、「ええ、あの八甲田登るの? 八甲田山を登ることは大変なことじゃ。山のご機嫌伺わんと、とても登れない」。そのためには、地元の人で冬の八甲田を知り抜いている案内人をつけて、あるいはその人たちに情報提供してもらい、どこが危ないのか、どんな用意をせないいかんのかということを聞いたり、用心に用心を重ね、記録をとってする。片一方は、「名誉のためや。それ行けー」と軍隊を出した。それでその連隊のほとんどが全滅しまう。
 このことをよう見さしてものたら、自分を中心にして山へに登った、自分の名誉を中心に山へ上ったために大部隊が全滅する。こちらは山のご機嫌を伺い、地元の人の話を聞いて、「今日の登ったらあきませんよ。」「はい。よし、今なら行きましょう。」「ここでしばらく待ちましょう。」「ここから動いたらあきませんよ。」 その地元の猟師の言われる通りをして、無事に八甲田山を踏破できた。
 山頂で落ち合うところに行っても、誰もいない。仕方がないので向こうの秋田の連隊の方へ進んでいったら、あちらこちらで兵が凍死している。立ったまま凍死しているんですね。秋田の連隊長も九死に一生のところだったんですけれども、やっとこさで遺体を麓まで運ぶ。しかし大勢の人が死んで、連隊長のかすかに残っておる指。凍傷したら指が切れますからね、腐ってしまいますからね。そして、かすかに残っている指でピストル自殺をしてますね。これは自分中心なんですね。分かってるのと、知ってるのと、本当にそのことが分からしてもらうとの違いですね。


 というふうに、信心でも何でもそうですけど、自分中心になった時には物事が見えません。大きな大きな神様のお働きにお使いいただこうとか、ご用に使うて頂こう、『御神願』にお使いただこうとか、神様の願いに生きた時に、信心も分からしてもらえる。自分が中心になった時には、信心も神様も見えない、しんどいばっかりになってしまいますなあ。神様の願いに生きようとした時にエネルギーがズンズン、ズンズン入ってきて、有り難いものが噴き出しくるもんじゃと思います。有り難うございました。

(平成十一年八月十六日)


皆、事が起こってから願いますな

 農業するには、もみを水につける時、もみをつけさせてくださいと願い、苗代へまくときは、天地金乃神へ、あなたのお土地にまかせてくださいと願え。また、苗の生長と、病気、害虫のお取り払いを願え。田植えには、苗を三把ほど神に供えて、今から早稲植えをさせてくださいと言って願え。供えた苗をお土地に植えて、根つき、生長を願え。また、害虫、病気のないように、先では豊作をいただかせてくださいと願え。そのほかの作物を植え付けする時も同じように願え。よくよく心得て、天地のお徳をいただくがよい。(『天地は語る』二八三)

 今日頂きましたみ教え、農業のところで教祖様は教えておられますね。『田植えをする時に籾を水につけておいて、それを苗代へ蒔くときには、あなたのお土地にまかせ下さいと願え。苗の成長と病気害虫のお取り払いを願え。田植えには、苗を三把ほど神様に供えて、今から早稲植えをさしてくださいませと言って願え』。その供えた苗を、またお土地に植えて、根付成長を願わせて頂く。病気のないようを願わせて頂く。先で豊作をさして下さいと願え。その他の作物も植え付けする時は、同じことである。このように信心を具体にさせて頂くことが大切である。
 台風の時期になって、「にわかに洪水になりませんように。害虫がきませんように。」にわかに願うんではなしに、田植えをする前から、どうぞ……と願わさして頂く。稲を供えさせて頂いて、その具体をさせて頂く事が大事なの。
 みんな都合のいいときだけ、「まんまんちゃんあーん」してね。よろしゅうお願いします、いうてするんですなあ。先々のこともずっと願わさせて頂くということが大事なの。にわかに願いますので、なかなかお蔭になってこん。


 扇町教会では祈願カードをもって、毎月毎月新たなこととして願わさせて頂きなさいと。そして人様のことも願わさせて頂きなさいと。このように教導さして頂いておりまするけれども……。面白いですねえ。健康のことも、家庭円満のことも、悪くなってからお願いしますな。健康のことも、病気になってからお願いしますなあ。人間ちゅうのはおもしろいものですな。健康である時は、何とも思わんのですなあ。病気になってからエライこっちゃということで病気のお願いをする。
 勉強のこともそうですけれども、入試が近づいてから、あわてて勉強成就とお願いしますな。早いうちから願わさせてもろうていけばいいものですけれども……。人間のずぼらのところで、それで『長年信心してます』いうて、どんなお願いをの仕方しているのかというと、「万事万端ご都合御繰り合わせよろしく、あーん。」ええ言葉やね。ほんとに都合のええ願い方やなあ。神様も、どう万事万端せえいうねん。何を万事万端せえいうねん。このように思われましょうなあ。
 『何事も実意を持って願え』とおっしゃる。せめて願うことぐらい実意をもって願わさしてもらわな。「万事万端、ご都合御繰り合わせあーん」ではなしに、何をどう願わさして頂くのか、何をどうならしてもらうのかと、願い主がはっきりしなきゃ、神様の方でも困りはる。
 祈願カードをもって改めて願いしなおして、私も神様に改めて願いさせてもらいますから、みなさん方もその願いをキチンとさせてもろうていくことが大事です。
 願いがはっきりしませんでしたら、神様へのつながり方もはっきりしませんでな。祈らしてもらう言うても、何を祈らしてもらわないかんのか、分からんようになってしまいますな。願いをいつも、はっきりさして頂いていくということ。
 お百姓さんであったら、豊作と願うに決まってある。豊作にならしてもらうには、どうならしてええのかという、その実意を願うていくことが大切なことだと思います。有り難うございました。

(平成十一年八月十七日)

人が集まる所は、必ず目的がある

 人が集まる場所には、色々な場所がありまして、それぞれに目的がありますね。映画館へも多くの人が集まります。それは映画を鑑賞に行く。食堂も、多くの人が集まります。あれは食事を頂くために。あるいは、このごろはゲームセンターというものもありまして、多くの人が集まります。それはゲームをしに来る。デパート、スーパーここも多くの人が集まります。それは買い物をしに来る。学校も多くの人が集まります。それは勉強を習いに来る。というふうに、人が多く集まるところには、必ず目的というものがあります。その目的と違う人が来られたら、困ることがあります。


 例えば食堂で、料理を注文せずに、「ちょうどここは冷房きいてるし、友達もいてて、わーわー、ここで言いにきてん」と。料理を注文せんと、わー、わーだけ言いに来たら、店の人は「営業妨害や。出ていてくれ」と言わざるをえん。映画館もチケット払ろてるから、ええじゃないかと入ってきて、映画を見んと、わー、わーとやられると、今度は客から「出て行ってくれ」と言われないかん。学校でも同じあって、勉強嫌いやけれど、学校でわー、わー、やられたら困ったことですなあ。学級崩壊ですなあ。
 まあ、商売のお客では『ひやかしの客』というのがありますけども、これは、予備的なお客さんで。「欲しいけれども買われへんな。やがてお金が出来たら、買いたいなぁ」というのがひやかしの客。そういう意味では、冷やかしの客を大事にせないいかん。冷やかしの客でもなく、ちょうど冷房きいてるから、わーわーだけいいに来たら、出ていて頂戴と店長は言わないかん。
 というふうに人が集まる場所というものは、その目的というものがある。何のために人が集まってくるかと、あるいは集める方の立場もある。


 そういう中で、教会も同じように人が集まってくる場である。神様に出会い、み教えを頂くために来る場であります。ところが、神様は声も無し形も見えずのお方であります。具体が見えない。映画館みたいに映画がある。お店のように売り物がある。食堂のようにご飯がある。学校のように教えてほしい、社会や国語がある。根本的に教会というものは、神様の願いを伝えるものやから、人を大事にせないいかんという根本がある。
 そうしてくると教会へ来る人は、教えを頂いたり、神様に出会うたりするつもりできても、大事にしにもらいに来る。あるいは、仲間がいているから来る。ということになってしまう。ここのところはね、教会で御用する者は難しいところで、大事にせないかんけれども、目的が違うてくる場合がある。
 「あんた何しに来てねんなぁ。」
 ある人に、こう言うた。ぎょっとして、「信心してきてまんねん。」
 「どうもあんたは、信心してきているようには見えけどなあ。」と言うたら、エライ怒ってね。
 「信心してまんねん。」それからもう来んようになってしもたけどね。
 というふうに、教会側から言えば、信心してもらいたい。そして人を大事にする。ところが、参ってくる人は、人間として大事にしてもらうために来るようになる。信心しに来るということが、なくなってしまうことがある。神様は目に見えないので……。非常に難しいところがありますね。そういう意味では……。
 やはり教会は、信心さしてもらいに来る所であります。


 教祖様のご時代にもそういうことがありました。『おこもり』という、徹夜でご祈念をしたり、徹夜で信心話をしたり、したことがあります。これは、教祖様のお広前だけではなしに、お寺やお宮さんにも、そういうことがあった。教祖様のお広前は、ご承知のようにご家庭のお家ですね。しかし、『おこもり』とういうことで、夜もご信者さんのために開放されたんですね。
 そうしてくると、面白いもんで、どんちゃん騒ぎをしだした。「あそこは、夜中でもメシ食ってもかまへんねん。どんちゃん騒ぎしてもかめへんねん」と。本来、神様にご祈念する。あるいはまた、お話しを頂く、話し合いをさして頂くという、信心のためにこもるということではなしに、飲み食いやドンちゃん騒ぎをするようになって、教祖様は『おこもり』を禁止されている。
 神社仏閣では、それをやっている。それはもう別の場所でね。宿坊みたいなものがありますね。それはもう、食事代取りはりますねん。もう宿屋と同じで、「食事代取りまっせ」ということや。そうであるから、その周辺には酒屋もあれば、飲み屋もあって、初めからもう遊興のためにと。おこもりというのじゃなくて、昔から「伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ」という歌がありますように。『おこもり』の名のものとに、どんちゃん騒ぎをするということで、始めからもうそれは、そのためにということになってます。
 教祖様のお広前は、これは純粋に神様と出会う、信心の話ができるいうことで、『おこもり』を許されるんですが、来る方はそのつもりではなしに、どんちゃん騒ぎの方で来る。そういうことでおこもりを禁止されてることがあります。
 難しいところでね、「教会は人を大切にするところでしょう」。そう、大切にする仕方が違う。神様に出会うて、神様にご祈念をさして頂いて、お話しを聞き、お取次を頂くためにあるところであって、どんちゃん騒ぎをするところでは違いますね。
 人が集まるところには、それぞれの集まる理由がある。百貨店は百貨店、学校は学校、映画館は映画館というふうに。人が集まるには、理由があります。その、目的とはずれてきたら、「出ていってください」と言わざるを得んということも、事実ではないかなと思います。有り難うございます。

(平成十一年八月十八日)