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食事と餌との違い

 食物はみな、人の命のために天地の神が造り与えてくださるものである。(『天地は語る』二九〇)

 何を飲むにも食べるにも、ありがたくいただく心を忘れるな。(『天地は語る』二九一)

 食物を粗末にするくらいもったいないことはない。食べられるまでにするのは、容易でない。それなのに食べ物を捨てたり粗末にするのは、神のお恵みと人の骨折りとを粗末にしているのである。(『天地は語る』二九二)

 今日のみ教えは食物に関してのみ教えがずっと続いとりましたんですけども。
 この頃思うことの一つに、食事と餌との違いはどこにあるのかなと。すべての生きも、動物、人間を含めての動物は、何らかを食べて生きております。犬も猫も食べておりますし、私たち人間も食べんと生きていけません。それで人間以外の動物の食事、食べるものを餌といいます。人間が食べるのを食事といいます。どこが違うんですかな。


 同じようにお腹を大きくする、生きていく上でお腹がすく。胃袋へ食べ物をほりこまねばならん。そういう面だけでみたら同じなんですね。食事になってくると、そこに人が必ず介在しているんですね。食事を作る人、与えられた食材を、天地の食材、天地の恵みとして色々に工夫して、また食べてもらう人のことを思うて、手を入れて真心込めて作るのが食事であり、またその食事を頂く方としても、ただ単にお腹を膨らすだけではなしに、これを作ってくれたお方、その人の骨折りと真心を頂く、それが食事というものでありますね。
 ですからご馳走となると、馳せ、走ると。馳せ走って、色々な食材を整えて、煮炊きをして真心込めて、食べてくれる方のことを思うて一生懸命に作る。これが食事なの。また頂く方も、作った人の気持ちと同じことなんですね。


 ところが近年、チーンで出来たり、湯かけて出来たり、するようになってきましたね。非常に便利なものでありまするけども、チーンやら湯で出来る。段々餌になってきてるなという思いをいたしますな。
 まあ、その湯かける方も、あるいはチーンといわす方も、味の方は悪くないようになってきている。色々工夫されて、しかし、そこに人の真心というもの、思いというもの、作る方も食べる方も感じないですな。
 例えば、一人でご飯食べもっても、作ってくれた人の顔が浮かない。
 時によったら、昔からそうですけども、一人で食べないかん時がある。しかし、一人で食べるその食事も、誰かが作ってくれて、母親が作ってくれて、たまたまそこに母親がいない。奥さんがいない。一人で食べないといかんようなことも実際ある。しかし、食事を食べてる時に、そこに作ってくれた母親あるいは、家内がそこに居ないでも、そこに居てるかのように思うて食べることができる。作ってくれた人の顔が見える。


 ところが近年はどうも餌になってきてますな。人がそこに介在しない。人のぬくもり、あったかみがそこに見えない。肌で感じない、これは不幸なことですな、非常に不幸なことで……。
 そうすると、食事一つにしましても、人が見えてこない、あったかみが感じない、というようなことが日常化してきた時に、様々な難儀が、些細なところで起こってくるいうことがございますね。
 なんでも、原点へ戻ってみて、チーンは便利やし、湯かけたら便利やけれども、もういっぺん原点へもどってみて、あったかみのある、人が介在する、人の手が入るそういう生き方をさしてもらいたいもんじゃと思います。有り難うございました。

(平成十二年二月二十九日)


体と心の健康が神様への一番のお礼

 神がお造りくださった人間であるから、病気にかかった時に、神に頼んで健康にしてもらうように願うのは、道理にかなった信心ではないか。(『天地は語る』三二五)

 今日は病気のことについておかげを頂いていく道筋を教祖様が教えて下さっておられます。
 この体、お母さんのお腹の中で十月十日育まれて、その間に目ができ、耳ができ、指ができ、足ができ、お腹の中の内蔵ができ、頭の脳ができ、これ皆神様のお働きによってできさしてもらう。
 医学科学では細胞分裂じゃ、というふうに様々な細胞分裂がある。遺伝子がこういって、ああいって……という説明はいたしますが、不思議なもんですな。どうして精子、卵子……といいますけど、そいう説明をいたしますけれども、ほんとうに不思議なものですな。命というものは恐れ入ったことですな。そして、体だけができるんではなしに、魂まで神様くださっておられる。体は神様がお作りくだされ、それぞれに魂をお与えくださっている。もったいないことですな。恐れ入ったことですな。
 その証拠にね、私が初めて子供を頂いた、三十年ほど前になりますけどもね。その子供が家内のお腹から出てきて、初めてオギャーと泣いた。まさに「今、我天地の間に生を受けたり。我生かされた命なり」と宣言をしたような思いをいたしました。命というものは本当に、体と心が相まって、体と魂、両方とも神様から頂いたものです。


 その体が病み患うことがあります。その時は製造元である、神様に素直にお願いをさしてもろうていくということが大事なことかと思います。と同時に、我が心から、自分で病気を作ることのないおかげを蒙っていかないけませんな。自分で自分の病気を作る人はたくさんあります。
 心配で心配で……いうて、心が心配になって、病気でもないのに、病気に作っていく人がたくさんある。大酒大食をして病気になっていく人もあります。せっかく下された命、体と心、いつもよい状態にさしてもろうていくことが、神様にお礼を申していくことの一番大事なことかと思います。
 お作り、お与えくだされたその元の神様に喜んでもらえるような健康で明るい心、生き生きした心で今日も過ごして頂きたいもんじゃとお思わさして頂きます。有り難うございました。

(平成十二年三月九日)

本当の自由を知っていますか

だれでも、生まれる日と死ぬ日とは自由にならないのに、生きている間だけ、日柄とか何とか言う。どのような所、日、方角も、人間に都合のよいのが、よい所、よい日、よい方角である。日柄方角などで、神が人間を苦しめることはない。(『天地は語る』三四〇)

 今日頂きました、『天地は語る』(三四〇)の「誰でも生まれる日と死ぬとは自由にならない」このように仰せになっておられます。
 そうしましたら、生きておる間だけが自由になっておるのか、いうたらどうでしょう、みんな自由、自由と言うとりますけども、自由にしますと気ままになって、行きずまりますな。自由、自由というとります。それは大概は気ままですね。気ままの結果が行きずまってしもうて、自由になっておりません。
 ほんとの自由というのは心が解放されることなんです。物事にとらわれない執着しない心です。それを教祖様は『天地日月の心肝要なり』と。あるいは、教祖様のご信心が、天地の親神様が『この方の広前が世界中である。人間は天と地の間に生かしもろうておる。』そういう命、神様から頂いたそういう命に目覚めた時初めて、人間は自由を得ることができる。皆不自由してるんですよ。


 自由になろう自由になろう思うたかて、自由になりません。まず体が自由になりません。痛い痒いが出ます。人間関係が自由になりません。思い通りに動いてくれません。思い通りになってくれません。またイライラせんならん。これ皆不自由です。ですから、昔のお坊さんは不自由をしてきて、とうとう、山の中に入ってしまう出家をする。家出ですな。出家は家出と書きます。人が自由にならないものやから、心が自由にならないものやから、もう浮き世を離れる、人の世を離れてしまう。ということで、山の中に入ってしまわないかんようなことになる。山の中に入ってしもうたら、人間じゃなくなります。
 人間はやはり、人間の間に生きてこそ、人間なの。人間の働きをさしてもらってこそ人間。そのためには辛抱せないかん。ひたすら辛抱せないかん。
 しかし、せっかく生まれてきて、辛抱ばっかりも、これまた辛いことですな。もちろん辛抱もせないかんことはターンとありますが、せっかく生を受けて、ひたすら辛抱だけであったいうのも、これも神様お嘆きなさる。
 そうしました時に、我が心が天地に開けたときに、我が心が天地に目覚めた時に、我が心が神様に向いた時に、神様とスイッチオンになった時に、「今日も有り難し、もったいなし、かたじけなし。今日も一日お役立たせて頂きまするように」という思いにならせて頂く。


 ところがこのスイッチオンが、例えば電池なんか、導線の先に球をつけて電池にひっつけると灯がともる。「ついた、ついた」。離したら消えてしまう。またつける……。小学校の時に電池で実験しましたが。
 それもスイッチオンには違いない。天地の神様は向こう開け放しなり、「天地自由自在」とおっしゃる。大きな大きな発電所にならしてもろうたらね、いつでも煌々と電気を頂くことができる。
 同じ電気がつくのでも、電池でチョコっと、豆電球がついた、ついたというつき方と、向こう開け放しの天地自由自在の、天地全体を煌々と照らしなさる『日の大神様』のような、そういうスイッチオンがあります。


 自由、自由というてる人ほど自由になりません。不自由をしてます。自由は気ままになってきます。ますます不自由をして生きていかならんことになりますね。ほんとの自由は信心によってのみ、神様とつながってのみ自由を頂きます。有り難うございました。

(平成十二年三月十日)