進化論の出題はだめ
今朝の新聞をパラパラと見てまして……。はあ、面白いことを載ってるなあということでびっくりしました。
『進化論の出題はだめ』(米カンザス州)ということで載っている。
「米中西部カンザス州の州教育委員会は十一日、公立学校の教育指針から科学の常識ともいえる生物の進化論を削除することを決めた。聖書の説く、天地創造論を信ずるキリスト教保守派の委員の主張が通ったためだ。米国では、進化論の教育を制限している州もあるが、今回の決定は進化論のみならず、宇宙は大爆発で生まれたとする『ビックバン理論』まで排除する過激な内容、宗教と教育をめぐる論争に火をつけそうだ。」
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まだ記事は続いているんですけどもね……。
なぜこうなるんでしょうなあ。そやからね信心……、信心言いましてもね、いろいろありましてね。どう申しますか、自分の信心で、これは正しいと思っておるんですけれども、危ないのは多んとある。ですから、一つ間違うと、『信心は阿片なり』と言われるのは正にその通りでしてね。
神は絶対なりとする天地創造の神、全知全能なる神、そして人間は下僕であるとか、あるいはまた罪の子であるとかという、その神絶対論。これがキリスト教の教義の一番根本になるんですけれども。怖いですね。非常に怖い。キリスト教自体がこれで行き詰まってきておるんですけれどもね。しかし世界三大宗教ということで、多くの人を信仰させている宗教として、キリスト教自体が、にっちもさっちもいかん状況になってしもてますんやな。
キリスト教を悪く言う必要はないんでありますけれども、本当のことがわかったときには、改める勇気をね、持たしてもらわないかんですなあ。いかに『神は絶対なり』というても、『聖書は神の言葉』と言うても、ホントのことが分かってきたらそれは間違いでしたと、それをはっきりと言える宗教でなくてはならない。
ということは、神が先にありすぎるんですね、神が絶対なりという神がありすぎるから……、人の幸せのための宗教ではなしに、人を幸せにしていく宗教ではなしに、『神のいうことを聞け』という宗教ですわな。別の言い方をすれば……。人のためにある宗教ではない。神のためにある宗教になったしもてますねんな。
やはり、信心というものは人が助かっていくために、なけりゃいかん。お蔭を受けていくためになければならということになりますなあ。
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『地動説』『天動説』ということもありますけども、バイブルでは大地が動くはずがない「天動説」ですね。そのためにコペルニクスですか、張り付けに合わないかん。宗教裁判ということがあり、あるいは魔女狩りということがある。あるいは十字軍の遠征ということがあり、宗教で人をどんどん、どんどん殺したり、いまだに宗教戦争せなきゃいかん、難儀なことになってますなあ。未だに宗教戦争せなきゃいかん。
こないだのコソボ問題も、根をただしてみるとを全部宗教戦争なんですわ。宗教戦争で騒動が起こっておるという、難儀なことですなあ。
金光教祖はその点、『氏子あっての神、神あっての氏子、親のことは子が願い、子のことは親が願い、あいよかけよで頼み合い願い合いいたせ。』『氏子あっての神、神あっての氏子、氏子が助からにゃ、神が助からん。氏子がお蔭を受けてくれな、神が助からんのじゃ』と。
「神は絶対なり。ワシのいうことを聞け」ではなしに、氏子が助からにゃあ、神は助からんのじゃと。教えておられます。まさに人を助けていく神、人を苦しめる神ではなしにね、人を助ける神、人の助かりを導いてくださる神様に、ご縁を頂いていきたいもんじゃと思います。有り難うございました。
(平成十一年八月十三日)
ご恩報謝の奉仕をしっかりと
猿も木から落ちる、弘法にも筆の誤りという。木に登っても、危ない危ないと思っていると、用心するからけがはないが、少し上手になると、大胆になって大けがをしたり命を落としたりする。慢心は大けがのもと、健康であっても信心の油断をしてはならない。(『天地は語る』二六八)
人間は、財産ができたり、先生と言われるようになると、頭をさげることを忘れる。信心して身に徳がつくほど、かがんで通れ。とかく、出るくぎは打たれる。よく、頭を打つというが、天で頭を打つのが一番恐ろしい。天は高いから頭を打つことはないと思うであろうが、油断をするな。慢心が出るとおかげを取りはずす。(『天地は語る』二七〇)
今日のみ教え、『慢心が出るとお蔭を取り外す』というみ教えなんですけども、特別慢心してるつもりなんて、皆んなないんですわ。ひとつも慢心しているつもりなんてないんですけれども、『流される』ということがある。知らず知らずのうちに流されてしまう。いうことがありまして……。
例えばこの平和ということ。明日が終戦記念日ですね、八月十五日。扇町教会は、戦争犠牲者慰霊祭をお仕えさして頂く。この戦争の体験を持たれた方にお話しをして頂くんでありますけども、ここ五十数年経ってまいりましたら、世代も変わってまいりますわな。すると今度は平和であるのが当り前になってくる。こうなってしまうんですなあ。思い出話として、あるいは、戦争の映画や犠牲者の映画やら、原爆の映画やらを見て、「はあー、ふうー。怖いこっちゃなあ」ということになる。それでそのシーズン終わったらまた、関わりのないことで、あれも映画の中でのこと、テレビの中でのこと、テレビだけのことでありまして。すぐさま、日常の普通のわれわれの生活に戻ってしまいますね。
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この五十数年前は、ホントに焼け野原であってB29がその上へ飛んで、あちこちに死体が転がってて、やっとこさ戦争終わっても、家がのうて、焼け野原で食べるもんがのうて、日本国中総員乞食、そういう状態であって、今日一日の食べるもの、白いご飯じゃない、芋のつる、芋のかけらを口に入れりゃあ上等、みんな風呂なんかとても入ってられへんし、ドロドロやし、散髪もしてないし、目だけ異様にギョロギョロ光っているし、子供は鼻水ズルズル、ズルズル垂れてるし、皆ボロボロの服を着ているわ、かっぱらい、置き引きは当たり前や。それがみんな結構なことになりましな。いつそうなったかわからん。
そうしてくると世代も変わってきて、今度は平和であるというのが当り前であるということも分からない。当たり前とも思わないほど、当り前になってしもうてる。
決して油断してるわけではない、いつのほどにかこうなるという人間の性(さが)というか、そういうことになってしまう。そしてくるとお蔭を受ける、信心してお蔭を受けていくということも、今度はおかげを受けたら、お蔭が当り前になったしまうんですなあ。受けた当初は感激するが……。
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例えば食糧難の時に、麦めしを食えたことがこんなうれしいことはなかった。白飯食えた時には涙が流れた。その感激なんて何時のほどにかないですなあ。どっかいってしもて……。
例えば私自身もご無礼なことや。おかずを見て、「おまえ、こんだけしかおかずないんか」やってる。はっきり言うて、「おかずこんだけかいなぁ。もちょっとならんのかいなぁ」やってる事実がそこにある。というふうに、お蔭を受けた当初は感激するんやけれども、お蔭を受けてしまうと、これが今度は当り前のようになってしまう。
そうして見たときにね、どこかでしっかりと、そこを押さえとかんとね、やはり崩れていきますんやな。せめてものこととして、ご恩報謝、平和に対してもご恩報謝、あるいは神様に対してもご恩報謝、ここまでお蔭を蒙っておるというご恩報謝という裏付けをね、しっかりしときませんとね、「はあ、結構なこっちゃなあ」ではスーッと流れてしまいますね。結構なことはね、ザーと流れて、はあー、当り前になります。これをどっかで、これは当り前じゃないんじゃという意識を持って、ご恩報謝をさして頂くという、具体を持っときませんと危ないなあ。
今年の開教九十年にあたりまして、信心の基本「参る・聞く・祈る・奉仕」と同時に奉仕の中身に入るかと思いますけども、ご恩報謝という、ご恩に報いていくんじゃという、奉仕をしっかりと具体に持たしてもらわんと、別に油断してないんやけれども、流されてしもうて、ふと気がついたら、また元の木阿弥になってしもたということになったらどうもならんと思います。ご恩報謝という、そういう奉仕ですな、そいう奉仕をしっかりさして頂きたいもんじゃと思います。有り難うございました。
(平成十一年八月十四日)
無条件で、お役に立つことは出来ないのか
今日、五十四回目の八月十五日、終戦記念日であります。扇町教会では、午後から戦争犠牲者慰霊祭をお仕えさして頂くのでありますけども、参拝された方に改めて戦争の悲惨さ、あるいはまた、平和の有り難さを改めて、分かって頂くということで、戦争体験者の話をして頂くと同時に、戦争の記録ビデオを上映さして頂く。
ビデオが一時間半ものでありますので、ちょっとそれを短縮して三十分弱にさして頂こうと編集をし直しました。その編集をし直すに当たって、何遍も何遍も元のビデオ見さしてもうて、それで三十分ものに短縮編集したんでありますが、その度にビデオを見て、思わされることがある。その度ごとにまた違うことを思うんですけども……。
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その中の一つに、いよいよ戦争末期、沖縄での戦争があります。
沖縄では住民を巻き込んでの地上戦です。米軍が五十四万人の軍隊を上陸さしているんですけど。悲惨な戦闘場面がたくさんあります。そしていよいよアメリカ軍が上陸するということで沖縄守備隊は、民間人を含み込んでの守備隊を結成する。
ご承知の通り「ひめゆり部隊」という女学生が、臨時の野戦看護婦として負傷兵を看護する。そして最後には自決する。あるいはまた中学生が、軍隊に編入されて最後の最後まで戦う。その出発式やら、そういう時に写真を撮っているんですね。その写真の顔が、もう目が、もの凄くすずやかなんですね。ひめゆり部隊だけじゃないんですけども、女学生も何個かの部隊に分かれて、その何個かの部隊の写真を撮ってある。
その女学生の顔が、今から死にに行くような恐怖というよりも、非常にすずやかな顔つきをしておる。また中学生の男の子が、鉄砲持たされて守備に入る。どんどん、どんどん艦砲射撃が来る。火炎放射器で洞くつを焼き尽くされる。その、真っ直中に行くその少年兵の目が、またすずやかなんですね。
それだけではなしに、少年航空兵が、オンボロの飛行機乗って神風特攻隊に出る。二千数百機の神風特攻機が出たとそうですが、この少年航空兵の目も、ものすごくすずやかなんですね。「何なんだろう」と思わさせられます。そしてひめゆり部隊やら少年兵やらが戦死をしている。死んでいるその映像もある。またものすごく、満足し切ったような感じの顔で死んでるですね。一体何やろうなと、思わずにいられません。
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人間って、命をなくするといいますか、自分を捨てて掛かるといいますか。自分を無くするという時には、これほどすずやかになれるのかと。自分の目前の死ということは、もう欲も得もないと。すべて無い、もう物欲も金欲もすべてない。それを無くした時には、ここまですずやかな目つきになるんかなぁと思わさしてもらう。
そうしました時に、人間は悟りを開いた時に、自分の欲を捨てて、命そのものでお役に立とうした時は、本当に神様のようなことになるんだろうを思うさしてもらう。しかし残念なことに、それが戦争ということで、最後の特攻と言いますか、最後に命を亡くするという、そういうことでの自分を無くし方でなければ、このすずやかさというものは出なかったのであろうか。
日常普通の生活、平和な生活の中で欲を放して、そして無条件でお役に立たして頂くということは出来ないのだろうか。
金光教祖は『皆できる』とおっしゃる。『この方が、お蔭の受け始めである』ともおっしゃる。平和な世の中にあって、本当に無条件で神様の願いを現し、お役に立たして頂けるすずやかな、すずやかな生き方を出来さしてもらいたいもんじゃと思いつつ、一つの場面を見てました。有り難うございました。
(平成十一年八月十五日)
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