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失うことへの怖さ

 人間の根本的の難儀の中にね。失うことの怖さというものがありますな。先ず、命がそうですわな。病気になったら、ものすごく不安になって、どうなるやろう、どうなるやろう、死んでしまうん違うんやろうか。すなわち「命を失う」、失うことの不安というものがある。また、お金もそうやな。お金が無くなってきたらどうなるやろう。生活出来へんの違うか、違うかという不安がついて回る。
 それから、老後の不安。これは自分の体が老いていって、ほったらかされると違うんかという不安。子や孫が自立していく不安。端から見たら自立していくのやけれども、親から見たら、子を失うん違うかと思う。
 例えば、父親が娘の結婚式の時によう泣いてるわな。あれ娘を失う、失うことないのにね。失うことへの不安なんでしょうかね。というように人間の不安、あるいは難儀の元にあるものは、失うことへの不安。難儀というものがありますね。「無くなったらどないしょう。ああ、なったら、どないしょう」という不安ある。


 先代夫婦もそいうところがあったかもわかりませんね。戦争前にお金が無くなってしまう。信者さんが疎開してしまう。教会が空き家みたいになってしまう。その次に跡取りと願うてる子が軍隊にとられてしまう。娘が中国大陸の方へ結婚していってしまう。もうどうなるんやろう。という不安が起こってくる。
 あれも無くし、これも無くしてくると。その次に教会が建物疎開ということで、建物を潰してしまう。「こんなん、潰されたらどいなするんやろう」という不安がある。それで潰されてしまう。近所の風呂屋に全部お道具を疎開させた。そこで仮広前をした。「これから先どないなるんやろう……」そこへ直撃弾受けてごらん。……しかし、そこで何もかも失うた時、失うものがなくなってしもうた時、それで戦争に負けてしまいますな。戦争終わって、元の教会の土地(北野病院の西側の土地)へバラックの教会復興した。その土地まで進駐軍が使ういうて、その土地まで没収された。
 ほんとに何もかも失うて、失うものこれ以上ないと、もうそうなると人間はね、今度は強くなるんですな。失うもの無くなったらね。「矢でも鉄砲でも持ってこい」と。守らないかん、失うのが怖い。という間は、ほんとに神様におすがりできませんねんな。失うもの全部失うてしもうたときにね、おすがり出来る。
 ガンならガンの宣告をされた時に、「あなたの命はもうあと何ヶ月ですよ」と言われたときに、失う命でうろたえる人と、そして「いや、そうですか」。初めて天地の命につながる。あと何ヶ月がね。天地の命につながる、生かされている命だということを実感をして、その何ヶ月間を非常に充実してね、有り難う生きれる人と。うろたえて、どないしょう、どなしょういう人と二通り現れてくるらしいですな。
 後何ヶ月の命ですと。ほんまものの命になる人と、うろたえてもうて、どないしょう、どないしょうとなる人と、分かれるみたいですけど。何もかも失うた時に神様に向かえるんでしょうな。そこまでいかんと、向かわれへんのか分からん。


 教祖様が御用なさる時に、「死んだと思うて欲を放して……」死んだと思わんとほんとの御用できんよと。家内も後家になったと思うて、主人おらんものじゃと思うて、全部失うてしもうてやな。もう守るものもない。自分を守るものがない、と思うた時に初めて、神様におすがりしきれる。
 普通はね、それを守るため、失いたくないために信心するのね。失いたくないために、信心する。「お金も失いたくありません。命も失いたくありません。」と、あれも、地位も名誉も何もかも失いたくありません言うて、信心するんやけど。ほんとの信心は全部放ってしもうたところに、ほんとの信心が出来るんか分からん。全部捨ててしもうたところに、神様のほんとの暖かい愛情とか、神様の天地総掛かりで生かしてもろうてる安心感やとか、いうものが分かるんでしょうな。ほんとの御用としてのお仕事が出来るんでしょうな。
 失いたくないと思うてるところは、我情我欲やから、ほんとのものにならんのでしょうな、全部放した時に、ほんとの生き方が出来るんでしょうな、皆放したくないために信心するんですけど、ここらがおもしろいですね。放さんとほんまの信心ができへんのやけど、放したくないために一生懸命に、神様拝みたおすんですな。ここらの根本的なギャアプというか、違いというものは大変に難しいものじゃと思わさして頂く。放しきった時に、ほんまものになってくる。逆に物が寄ってくるんですけどな。


 放しきった時に、人も物も、お金も働きも全部寄ってくるんですけども、放したくない。溺れてるとき、肩の力抜いて、「リラックスしなさい。水に身を任せなさい。」言うても、「イヤー」言うて、カンカチコになって藁をもつかんで、藁つかんだらあかんやけどもね。藁をもつかんでしもうて、余計ぶくぶくと沈んでしまうものですな。あんな時ほど「筋肉の力抜きなさい、ほんなら浮くんじゃ。水が守ってくれるんや」言うんやけど、水が怖いものやからキッーと力を入れて、余計ブクブクーブクーと沈んでしまいますねんな。そこらのあやちが分からん。
 「神様に身を任し、大丈夫や」「そうですか」プールサイドで足をバタバタして、「飛び込んでみい、泳げる、浮くから」「分かってます」言うて足だけパチャパチャ、やってるの、プールによう入らない。水によう入らない。そこの腰ぐらいのところやったら入りよるねん。背の届かない所やったら、よう入りよれへん。「分かってる。分かってる」と、プールサイドでバチャバチャやってる。入ったら浮くがな。分かってまんねん。分かってまんねんと、怖くてよう入らんのが、おかげは受けたいが、神様へよう飛びこまんのが、まあ、九割の人か。
 その中にシューッと飛び込ましてもらえれば、天地丸抱えに、生かしてもろうてますんやけどな。
 そこのところが、分からんと、心配せんでもええ言うても、心配して……。うろたえんでもええ言うても、うろたえをして……、藁にすがってるんやな。神様にすがらんと、藁にすがってるんやな、藁にもすがりたい気持ちで……。神様にすがらなあかんねん。神様にすがらないかんのやけども。失いたくないものやからね、藁にすがってしまうんでしょうな。神様にすがらないかんのですけどもね。どうぞ、ほんとの信心のおかげを蒙らせて頂きたいもんじゃと思います。有り難うございました。

(平成十一年七月二日)


恩を感じることがなければ、身に付きません

 生きている者にはみな、おかげをやってある。恩を忘れるなよ。その中にも、まことのおかげを受ける者が、千人に一人もない。(『天地は語る』一八一)

 あなた方は小さい所に気をつけて、夜分に提灯を借りても、手みやげをつけて、ありがとうと礼を言って返す。それならば、日乃神(太陽)にはどのくらい大きなお礼を申しても、過ぎることはあるまい。(『天地は語る』一八二)

 今日のご理解はね。ご恩ということがわかる人間になれと、いうことなんですけどね。よく、言われる言葉に、「子を持って知る親の恩」。子供を持って初めて、「はあ、親はこのようにしてくれたんか、もったいないことやったな。わからなんだな」ということで、子を持って知る親の恩と、いうことを言うんでありまするけど、「子を持っても、わからん親の恩や」。この頃は……。はあ、子を持っても親の恩わからんな。それだけ、自己中心になってきているんでしょうかな。ですから、子供を簡単に殺せたり、子供を簡単に捨てること出来るんでしょうな。自己中心だから。
 この時期になるとニュースに出てくることは、車の中に赤ん坊ほったらかして、パチンコする親。二時間も三時間もパチンコして、駐車場行ったら脱水状態で死んでしもうてると、こんなんがようある。こんなこと分からないのかいなー。ということがありますけども、その前に、自分のしたいこと、そりゃ、誰でもしたいことようけあるんやけれども、それよりも、子供を大事にさしてもらおう。自分は親なんだから、子供をちゃんと育てさして頂こうという、その心持ちが無いから、子供を持っても親になれない。子供を産んでも親になれない。親になれなかったら、親の恩わかれへんわな。
 子を持って知る親の恩いうたら、子を持つことによって、自分は親になってみて、初めて親のことが分からしてもらえるというから、子を持って知る親の恩や。今は、子を持っても、子供を産んでも親にならんからな。親にならんから、親の恩わからへん。ほんなら、「私ちゃんとやってます」言うて、やってるように見えてるけど、あれ子供をおもちゃにしているな、というのがよく見える。あれは、おもちゃにしていることであって、ほんとに子供を、育てさしてもろうていこうということが出来ない。そこのところをちゃんとさしてもろうたらね。そう簡単に夫婦ゲンカも、出来へんねん。ほんなら、「さいならー」も出来へんねん。子供にとって両方とも、親である。お父さん、お母さんいてて、親である。そうして子供は育っていくんである。と、そうして、みると、「出ていけ」も言われへんしな。「出ていきます」も言われへんしな。はあ、自分は親なんじゃと思うたら、「へえ、バツイチですねん。」簡単に言うてるけれどもな。あれは、自慢みたいに言うてる。みんな自己中心なんですな。
 これは戦後、個人主義が行き過ぎてしもうて、自分中心になるということになりましたな。そして、生き物の、人間としての基本である、子を持って親の恩さえわからんようになってきましたから、まして、神様のご恩なんかわかろうはずがないわな。はあ、……。


 今頂きましたみ教え、提灯を借りたら、有り難うございますと言って返すと。ほんなら、日乃神様にはどれだけお礼を申さなならんか。お礼も思われへん。ということやね。
 昔学校の先生のこと「恩師」といった、恩のお師匠はん。「はあ、この学校の先生のおかげで私は勉強さして頂きました。ほんとに一生懸命に教えて頂きまして、教えるということは大変なことでございます。有り難うございます」と。この頃恩師なんて言えへん。そんな言葉も死語になってしもうとる。「あれは、仕事でしてはるねん。私らが雇うてるねん。」ぐらいなもんやな。これでは、どうもならん。
 教会でも同じこと。「あれは教会の先生やからやってるねん」というようなものや。わやくちゃや。もうほんとに……。「あれは、教会の先生やからやってるねん。」「はあ、教えて頂きまして有り難うございました。」それがなかったら、身につかへんねん。
 何で恩を感じないかんかいうことはね。別に恩の押し売りすることじゃないんだけれども、恩を感じる心がなかったらね、せっかく教えてもろうても、身に付かないんですわ。親になっても親になれない。勉強教えてもろうても、英語や数学のその学問は、自分でするかわからんけれども、その学問の向こうにある人間を教えてもらわな、ただ単なるコンピュータと同じなんですな。英語や数学の向こうにある、人としての大切なところを身に付かしてもろうていくということが大事なの。
 それが身に付かないものやから、みんな大学出ても、賢くなって皆コンピュータみたいになってしもうてな。こないだの飛行機のハイジャック※(事件の概要を後に記す)ではないけれども、アホちゃうか。人間として、アホですな。コンピュータなんぼできてもな、人間としてホンマにアホ。アホとしか言いようがない。何にも成長していない。人間としてな。「何考えてるのこいつは。」ということですな。というふうに身に付かないんですな。大事なことが恩を感じる心がなければ、なんぼ、コンピュータのように物事が分かっても、理屈を言えても、処理ができても人間として大事なことが身に付いていかねば。これは、恩を感じることがなければ、身に付きません。
 今日びの人は、こういうたら差別用語になりますけども、片輪ですな。心の片輪。片輪という言葉を使うたらいかんのですけども、総員が心の片輪じゃないかなと思います。有り難うございました。

(平成十一年七月二十八日)

※コックピットへ入り機長をナイフで脅し、自分で操縦して、墜落ギリギリまでさせた。犯人は『コンピューターシュミレーションで架空の操縦していたので、実際にしてみたかった』と言っている。機長は殉死。


ずぼらと真心

 この人間というものは、ずるいところがありまして、勉強は嫌いやけれども、百点は欲しい。というような、ほんまにずぼらなところがあります。また、梅田の地下街で、大勢の人が並んでる。何かいな思うたら、あれは夢を買うんやと。夢いうたら、どんな夢やというたら、一億円か何億円か知らんけど、当たる夢やと。当たることはないと思うて買うから、夢を買うんやというとこなんですけども。その夢いうてなんやいうたら、何億円が自分の手に入るようにという夢。というふうに人間というのはおもしろいもので、ずぼらなもので……。
 そのずぼらな自分が見えてたらええけれども、見えないから、どうもならん。まして、神様は声も無し、形も見えずやから、ご請求は無いんですわ。ご請求が無いので、ずぼらしててもご請求がない。ヤイヤイ、ヤイヤイ、言われたらね、人間というものは、勉強と同じで、「しゃあない、しょうかいな」という気になるんやけど、神様は「勉強せい、勉強せい」言いはるわけでもない。ご請求がない。しかし、ご請求がないからね、余計に、人間やったら、ごまかしがきくけど、神様には、ごまかしがきかないのですわ。
 その人の心の在り様が、そのまま鏡のように写るのが神様ということ。参拝するということもそうやし、お供えをさせて頂くということもそう。


 おもしろい話がある。お供えをさしてもらうのに、ある人がこういうことを言うた。「先生、この頃、小学校行くか、行かんかの孫でも千円やそこらでは、おもちゃ一つ買うことが出来ませんなあ。ええ、もう子供のおもちゃ千円のもの買うてやっても喜びません。まして、小学校の子なんて千円やっても喜びませんな。お金の値打ちが無くなりましたな。はははー」と笑うてはる。
 その人のお供え千円しかしてないの。神様にはそれでええねんな。孫には千円じゃあかんの。「このお道は神様は文句言いはれへんから。それでええ」というような案配ですな。
 そして自分が、信心してるつもりなんじゃけれども、神様に届かしてもらう心の在り様というものがないんですね。非常に人間というものはずぼらなもんですな。
 「真心です」と。真心というんじゃない、それは「ずぼらです」というんですね。真心というじゃない。ずぼらですと。ぞのずぼら心で向こうとりますから、鏡みたいなもんやね。ずぼらのままで写っておるというものでしょう。真心で神様に向かうと、神様は何倍にも、それを受け取ってやると。


 教祖様は「一本の線香を供えることの出来ない者は、それを半分に割って二本にしてお供えせい。神は二本として受け取ってやる。」それは「一本の線香がお供え出来ない者は……」とはっきりおっしゃっておられますな。
 また、線香さえも、お供えすることが出来ないものは、『切り火』にして、切り火いうたらね、昔の縄は藁で作ってあった。それに火をつける、それを切り火という。それをお供えしてもええと。このように仰せになる。
 それは、「出来ないものは……」とおしゃっている。出来るものはとおっしゃってない。「出来ないものは……」と。自分の勝手の方へ、都合の方へとってしもうて、一本の線香半分の供えといたらええねん。と、ずぼらをすれば、ずぼらのことしか現れてこない。信心してるのに何でこんなことになりまんのやろ。ほんなものずぼらがそのまま写ってあるの。
 そういう、お参りさしてもらうということも、みんな、真心でありますけども、その真心がどう写っているかということが大事なことかと思います。有り難うございました。

(平成十一年七月二十九日)