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どんな神様を信じる?

 目には見えないが、神の中を分けて通っているようなものである。畑で仕事をしていようが、道を歩いていようが、天地金乃神の広前は世界中である。(『天地は語る』七)

 天地金乃神が社に入られたら、この世は暗闇になる。神の社は、この天と地である。(『天地は語る』八)

 天地金乃神のご神体は天地である。宮社に鎮まり納まっておられるのではない。真一心の心に神がおられて、おかげになる。(『天地は語る』九)

 神は声も無し形も見えずのお方でありまするので、なかなかつかみどころが無いように思うんです。それだけに、我が心で神様を大きくしたり、小さくしたりしますな。自分の心次第で小さな神様にしてみたり、天地を丸生かしに生かしてくださっている神様として、頂かしてもらうことも出来る。
 神様の子である人間だけが、神様を持つことが出来るんですな。その持ち方もめいめい、一人一人によって、小さな神様を持つ人もあれば、大きな神様を持てる人もあるし、そして悪神、邪神いうか、悪魔みたいな神様、悪魔が神様がどうか知らんけれども、悪魔のような神様を持つこともある。「丑の刻参り」言うてな。真夜中に白い着物着て、頭にローソク立てて、藁人形持って、五寸釘持って……」あれもやっぱり神様に向こうてるんでしょうな。「神よ。こいつに罰を与えてやってくれ。カーン。カーン。」と、そういうふうに悪魔のような神様を持つことも出来る。
 ですから我が心の神とおっしゃるけど、我が心の神、どのような神を持たせてもらうかによってね。どのようなおかげが現れてくるかということも変わってきますねん。


 教祖様は、今頂きました御理解のようにね。「天地金乃神の広前は世界中である」「神が社に入りおってはこの世が闇になる」と、大きな、大きな神様を頂いている。
 しかし、教祖様も始めはそんな大きな神様を頂いておられたんと違うんでうすわ。「金神様」言うてね。祟りさわりの親玉みたいな神様。「なるべく祟ってくれませんように。触れませんように」と。今でも「金神」と言えば、祟りさわりの神様。この神様に祟られたら、えらいこっちゃ。
 そうしてみると、そいう神様の現れ方をしてきますねんな。教祖様四十二才の時に、大病を患われる。あるいは、七墓築く。「金神に祟られると七墓築く」とその当時、皆が信じておった。そういう金神様を信心てたものやから、そういう現れ方をしてくる。我が心の神を、どういう神様を自分の心に頂いていくかによってね、ちょうど鏡みたいなもので、そいうように現れてくるんですな。サタンを信じたら、サタンになってくるんですね。ドラキュラになってくるのね。
 ですから、「丑の刻参り」ですか、恐らく目が吊り上がってる人やと思うわ。きっとね。「今に見ておれー」五寸釘打つ人ね。おそらく目つきや顔付きはそうやと思う。それが、そういう人生として現れてくるもんじゃと思う。
 「もったいないことやな。天地丸生かしてもろうてる。そういう大きな神様と私は、ご昵懇(じっこん)にさしてもろうてる。神様にお引き立て蒙っておる」と頂くことが出来ていくと、そいう神様に信心さしてもらうこちらになると、そういう現れ方をしてくる。そやから、「おかげは和賀心にあり」「あいよかけよ」とおっしゃるのも、こちらがどういう神様の頂き方をしていくかによって、それが現れてくるもんじゃと思う。
 教祖様も始めは、祟りさわりの親玉みたいな神様に向こうていかれて、「ああ、こわー、ああ、こわー」言うてたのが、段々、段々と神様を頂かれて、大きくなられていって、最後には「天地を丸生かしに生かしなさる神様」を頂かれる教祖様になっていかれる。我が心の神が生まれてくるのですな。
 どいう神様として頂けるか。絶対安心の神様に信心さしてもらうのか、祟りさわりの親玉か、怨念、執念の神様を信じるのか、我が心次第じゃろうと思います。有り難うございました。

(平成十一年六月二十一日)


現代人は助かり難い人種

 今日は大変な情報、メディアの時代と言われております。もう地球が小さなボールになってしまうぐらい、世界中の出来事が直ぐさま、瞬時に電波によって映像にされたり、声にされたり、いたします。それだけではなしに、個人情報がインターネットとかいうもので、個人情報までもが行き交いをしておる。そして、出版から何から何までメディアというかそいうことになったら、今まででは考えられないような大変な情報が行き交いを致します。その情報の中には、自殺の仕方いう情報もあれば、爆薬の作り方いう情報もあれば、……ろくな情報あれへんねん。というふうに私らそんな情報取らない方なので、ヒー、言うて聞いている。「爆発物作る情報?なんちゅう情報流すねんなー」と言うような、ビックリするようなことがあるようなんですけども。というふうに大変な情報がある。コンピュータをちょっといろたら、どんな情報も知ることが出来るということがあります。


 昨日、全然知らないお方からお電話がありまして、昭和十九年生まれ、申年ですな。男性から「初めて電話します」と。「テレホン教話、時々聞かしてもろうてます」「金光新聞も読んでおります」すなわち、情報を身に付けているんですな。自立神経失調症までいかなくても、軽いノーローゼですな。「金光新聞読んでも治りません。テレホン教話聞いても治りません。どうしたら、ええんでしょうか……」というお電話を頂いて。聞いてて、私自身失礼やけど、おかしいなってきて、五十五才いうたら、ええ年やないか。物事の基本って皆これだけ分からんようになってしもうたんかいなと。基本中の基本が……。「どないしたら治りまっしゃろうか」言うことですな。すなわち、どいう情報を受けたら自分は治りますかということを言うてるんな。結局は、極端に言うたら、どうしたらインスタントで治りますかと言うてはりますんな。
 それで、その方に言うた。あんまり病気がきつくないなと、話しぶりで分かったから、自立神経失調症の強い方と弱い方があるので、はあ、これは余りきつくないと思うたので、「ああ、そうですね。確かに、扇町教会もテレホン教話流しております。金光新聞も全国に行き渡っております。それは、不特定多数のお方に対しての金光教の紹介です。金光教はこういう信心なんですよ。不特定多数のお方に対する紹介ですよ。貴方が助かっていかれるには、信心せなきゃ助かりませんよ。貴方が信心させてもらうには、情報を身に付けるだけではなしに、神様に真剣に向こうて、そこのお教会の先生の教えを真剣に身に付けようとして、信心に苦労をせんと、貴方は病気で、苦労してるけれども、信心に苦労せんと病気治りませんよ」言うた。
 「扇町教会のテレホン教話も、金光新聞も一情報でしかないんですよ。不特定多数に紹介してるだけなんですよ。一人一人の人生は真剣にそのことに取り組まなきゃ、あかんのですよ」と。「ご近所の教会しっかりお参りしなされ…」
 「どこの先生がよろしまっしゃろか……」


 もう世の中皆そんなになってるんですな。世の中全部インスタントになってるいうか。五十五才ですよ。失礼ながら、今までどういう生き方してたんかいなという思いをふとした。私も五十五や。はあ、気の毒なことやな。信心というのはね。確かに情報がある。テレホン教話という情報もあれば、テープもありますし、ビデオもありますし、それは一情報であって、そんなもので信心出来ませんよ。信心に苦労しなきゃ。
 それには信心は、子供が育つのも同じでして、母親のぬくもりを受けて、親も苦労して、スッタラもんだらしもって、子供も苦労し、育っていくんであって、メディアの情報、マニュアルなんかでは絶対出来ませんよ。ようけ子供いてても、みんな一人一人違うやからね。マニュアル通りいきませんのよ。ここらが完全に現代人おかしくなってしもうてる。マニュアル通りいくかいなと、皆マニュアルの本を読んでるのね。その子育てに始めから苦労していくという気持ちを持たな。そして何で泣いとるか、マニュアルの本読んだかて、子供の泣いているの分からん。
 じっと「何で泣くんやろうか」と抱きしめて、そして、そのことを祈り、その心を分からしてもらおうと苦労していかんと、子育てなんか出来ないんですよ。それが、「子供が泣く」言うて本を読むのね。マニュアルの本を読んで、「何で子供泣くか」腹痛か、風引きか、熱出して……とそこしか見いへんのね。子供は何かを訴えてるの、泣くということでね。親のぬくもりが欲しいのか、それでも何か知らんイライラしとるのか、もうその時々のことで、同じ泣く一つとっても、その泣かれることに対して苦労していかねばならないの。皆、その苦労せえへんの。マニュアルでどこかにあるか思うておる。現代人完全におかしくなってしもうてます。
 命の問題なんかはマニュアルなんかはないんですわ。確かに情報とはある一定のことを示していますが。そこから命の問題は苦労して取り組んでいかないかんのですわ。


 信心に苦労していかな、あかんのですわ。それにはお師匠はんに付いて、突っ込んでいき、聞かしてもらい、人から人、すなわち生きた伝わりが無かったら信心も絶対無理なんです。信心もなんぼ本を読んでも、なんぼテープを聞いても、あかんのですね……。
 その人に言うた。「あきませんな。無理です。信心に苦労してください。信心に苦労せなあきませんよ。あくまで流しておるテレホン教話も何処までもそれは紹介まで。あとは、ご自身の人生の問題として、信心に苦労していってください」と申したんですけど……。
 「へへ、そうでしょうか。やっぱりあきまへんか」ガチャン……。
 難儀ですね。現代人は、ほんとに助かり難い人種になってますね。現代人は気の毒ですね。苦労することが嫌いですね。信心に苦労しなきゃダメですね。ふと気の毒やなと思いました。有り難うございました。

(平成十一年六月二十三日)

自然のお働き

 天と地の間に人間がいる。天は父、地は母である。人間、また草木など、みな天の恵みを受けて、地上に生きているのである。(『天地は語る』一)

 天地は生き通しである。天地が生きているから、人間もみな生きていられるのである。(『天地は語る』二)

 天地金乃神は人間の親神である。かわいいわが子をどうして難儀に遭わせなさるであろうか。わが子をもって納得するがよい。(『天地は語る』五)


 今日頂いているみ教えは、自然のお働きということ、とおかげということについて、教祖様のお話しを集めているんでありますけども。
 確かに、天地の自然のお働きの中で、日々空気を吸わしてもらい、水を飲ましてもらい、食物を頂かしてもらい。あるいは、目を見させてもらい、耳を聞かせてもらい、心臓を動かさせてもらい、もう天地総掛かりのお働きを頂いて、今こうして、ここに生を受けさせてもろうてます、大変なことであります。
 と同時に、自分も天地自然のお働きの一つでありますけれども、天地もまた様々に動いておる。「雨の降られるのもおかげ。日のお照らしなさるのもおかげ」とこのように仰せであります。雨が降って頂けませんと、水が溜まりません。水溜まりませんと、また往生せないかん。琵琶湖に水入ってくれませんとね。往生せないかん。また、田圃に水が入ってくれはらんと、往生せんならん。
 がしかし、昨日今日みたいに、余り土砂降り過ぎましたら、これまた困るんですわ。あちこちで洪水が起こったり、山崩れや土砂崩れが起こったりしてね。何人かの人が亡くなったりしてますわな。これまた、実は困ったことなんですよ。なんぼお恵みじゃというても……。
 さあ、そこで信心せんものは「自然」という。信心さしてもらうものは「お恵み」というんじゃけれども、その次に自然のお恵みにお礼と、お願いをしていかんと、時には、自然は人間のとって辛いことになるんですわ。ここが大事なことなの。


 天地の中に生かしてもろうてますと言うたら、信心せん人は「それは自然の中に生きてるんやろう」と、こう言う。そうや。自然というものは、時によったら、非常にむごいものがあるんですな。
 カンカン照りで何日も何日も雨が降らんで、食物が枯れたりすることがある。あるいは、雨が降りはっても、ちょっと降られ過ぎると、洪水起こしたり、山崩れが起こったりする自然。これどこへも文句言えないのね。どこへも言うていくところがないんですよ。噴火もそうやし、地震もそうやし、全部自然のお働きの中にある。自然はそのように、すべてのものを生かす働きもあるが、人間の都合によって動いてない部分がありますんやな。自然がひとたび動き出したら、人間の力というものは、ほんまに微々たるもので弱いものですな。グラグラッとこう動いたらどうしょうもない働きがありますな。
 「何で地震起こるねん」「それは自然やからおこるねん」。人間が自然を支配してませんねん。自然の中に生かしてもろうてますんやな。確かに「恵み」に違いない。
 さあ、そこで、信心さしてもらうものは、それを自然じゃからというて、当たり前じゃからということじゃなしに、日々にその自然に対してお礼を申し、お働きに対してお礼を申していかしてもらい。また、お願いを申していかしてもらうところに、大きな災害となるところは、小さく分けてくださいませとお願いをさしてもろうていく。これは、「大難は小難に、小難は無難にお祭り替えくださいませ」。と教祖様が大難は小難という例えを、「屋根から、たらいの水を一時に流してみよ。ザーッと流れてくるようなものじゃ。じょうごみたいなもので、チョロチョロ、チョロチョロ流したら、大した災害にならん。」そこを何でもお願いしていけ、断っていけと。
 日頃それは自然じゃと言うといて、ほんで、自然のお働きが起こったときに、神も仏もあるものかと言うてるんやね。違うの、天地の恵みにお礼を申して、またお断りを申して頂かしてもらうところに、大難は小難、小難は無難のお祭り替えをくださる。大きい災害を小さく分けて下さる。


 そこを教祖様は「神様は境をよくご承知である」。境とは、お願いした人とお願いせん人と、お礼を申してる人とお礼申してない人との境を、よくご承知であるということをおっしゃる。日頃「自然」ではなしに、お礼を申し、お断りを申し、お願いを申ししていく、自然を頂く。自然が無かったら生きていけない。しかし一方で殺す働きもある。人間の都合では動いてない働きがある。
 また同時に、一人一人の自分の命も、その自然の働きの中の一つやわね。いつ死ぬやらわからん。人間が勝手に七十まで生きる。八十まで生きると勝手に言うてるだけで、平均寿命はなんぼで……と言うてるだけであって、命なんて生まれたとたんに死ぬ人もあれば、二十で死ぬ人もある。それを、どこへも文句の言うていきどころがない。人間が勝手に「えらい早死にでございまして……」ということであって、ほんなもの人間が決められるものと違う。命というものは、どこにも文句の言うていきどころがない。
 これも自然の働きの一つですわ、命も。そこで、日々、命にお礼を申して、お断り申していくと、用事のある間は、都合のある間は、命の都合をつけていってくださると。日々、都合付けてもらわねば、いつ何時、世間で言う「お迎え」がいつ来るか。お迎えが来ても文句言われしませんねん。絶対にね。絶対いつ来ても文句言いようがない。「ちょっと待っておくんなはれ。」人間の都合の方で、今ちょっと死ねませんので……」というのもある。ちょっと人間の都合で……。
 赤子を置いて、そう簡単に死ねませんがな。乳飲み子置いて親は死なれへん。「ちょっとお待ち下さいませ」と。もう暫くご都合下さいませと。そうしてみると日々生かしてもろうてることに、しっかりお礼を申して、いつお引き取りになるかわからんけれども、どうぞ、ご都合をくださいませ。これは人間側のご都合や。人間側のご都合を日々御願いしていっての今月今日をさしてもうろていかんと、にわかに、ポコーンと問題が起こって、あわてふためいて「えらいこっちゃ、えらいこっちゃ」言うても、どうもならんことやなと思います。有り難うございました。

(平成十一年六月三十日)