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たびたび参られても……

 たびたび参られても、何も手から手に渡すものはない。私のは話がおかげであるから、帰られたら話をして、おかげを受けさせよ。世の中に他人ということはない。(『天地は語る』三八一)

 今日頂きましたみ教えで、なかなか信心になりにくい。おかげになっていきにくい状況をちらっと、教祖様のお広前ででも伺えることが出来る。
 例えば、『天地は語る』三八一の「たびたび参られても、何も手から手に渡すものはない。私のは話しがおかげであるから、……」
 「たびたび参る」ということは何とかなりたいからやね。きっとね。どなたが頂かれた御理解か知らないですけども。「もう何とかなりませんか」と。辛うて、辛うて藁をもすがる心持ちで教祖様のお広前に来てはるのでしょうな。たびたび参られる。
 それに対して教祖様は、「たびたび参られても手から手へ渡すものは何もありません。」とこのように言うておられる。せいの無い話しやね。せいの無い話しや。そりゃ神様にも見放されたみたいな感じですな。たびたび参られるということは非常事態や。どうにもならんから、教祖様のお広前に行かれる。しかし教祖様は、「そう、たびたびこんでもええ」。神様にも見放されたような心持ちになりますな。「一体どうすりゃいいのよ」ということになりますな。


 さあ、ここで大事なとこなんですね。どうにもならんから、神仏にすがる。なんとか御利益を頂きたいと思うてたびたび参る。それに対して、「たびたび参られても、手から手へ渡すものはない。」この辛いからたびたび来られる。その通りなんですけども。
 直ぐさま何か特効薬を求めにくるんですね。辛いから……。特効薬を直ぐさま、パッパッと、何とかいかんやろうかと、特効薬をすぐ求めにくるんですな。それで、「私のは話しがおかげであるから」と、こう、話しを聞きなさいと言われる。それを聞く方は、特効薬を聞こうとするのね。「話しがおかげであるから……」とこのようにおっしゃているんやけど、聞く方は「話しの中から、何かええ特効薬はないですか」と聞きたい。ここに、教祖様との間のズレが生じるてくる。ここが、難しいところ。
 教祖様の話しを聞いて、特効薬を見つけだすんじゃなしに、我が身は神徳の中に生かされている人間としての、神様との間の有り難い関係が生まれてきた時に、その問題は自ずと解決していってるんです。ところが、今苦しいものやから、『信心しにきてるんじゃなしに、特効薬を求めに来てますん』やな。
 「どないしたらよろしいおまんねん。私どないしたらこの問題解決しまんねん。有り難う思いなはれ、思いまひょうか、思いましたで、まだでっか。」
 「物事、感謝しなさい。感謝します。感謝しました。有り難う言いました。おかげまだですか。」
 教祖様も「真に有り難しと思う心、すぐにみかげの始めなり」というみ教えをしてくださっているんですけど。「真に有り難しと思う心……」これを聞かれたら、「有り難う思うたら、何とかなりまんのか。思います。思いまっせ、はよ何とかしておくんなはれ。……」いうことやねんな。ここが難しいところで。


 「真に有り難し」と思うたら、例えボロを纏うておろうが、今食べるものが無くても、あるいはどんな大きな諸問題があっても、どんなに辛くてもそんなことフッ飛びますねん。「我、天地の間に生かされてあり」ということを神様へ、ビシッとスイッチオンになった時には、人間社会のどんな諸々の、どんなしんどいことでも、パーンと吹っ飛んでしまいますねん。これが「真に有り難し」ということなの。
 そうすると神様との間にパイプがつながっていきますからね。もう天地は自由自在の働きがビビーッと起こってくる。そうしてくると、今抱えてくる問題なんて、問題のうちに入らないような、大きな大きな悟りの世界にガンガン、ガンガン入っていくんですよ。
 ところが聞く方は、「真に有り難しと思う心、すぐにみかげの始めなり」。「みかげ」とすぐ御利益の方を思うからね。「神様有り難う思うたら、すぐにおかげになりまっせ」と、こう聞きたいものやから、「まだでっか」とこういきたい。そうじゃないんですね。ですから、なかなか真に有り難しというところまで行きにくいので、年月がかかると、私はいつも言うのはそういうことなの。


 あなたも、一年こうお参りが出来られて、今も昔も何とかせねばならん。なんとかして行かねばならんのは変わりはないんですけども、前はそこから逃げたかった。ところが今日のお話では、抱きしめたくなった。これえらい違いやで。これ神様の心になってきたんや。神様へのスイッチが入りつつある。前は逃げたかった。何とかせねばと思うても逃げるに逃げられへん。逃げられへんけども、ほんとは逃げたかった。それがそうじゃなしに、今度は抱きしめたくなってきた。その心持ちに変わってきた。これは大変な変わりようやな。こちらが神様の方へスイッチオンになってくる。
 おかげを受けるのでも「真に有り難しと思う心、すぐにみかげの始めなり」とピン、ピンといける人は何万人に一人でな。後は、次第、次第にな。学校へ行って勉強してるのやら、訳分からんけども。行かんより行ってる方がましやと。行かんより行ってる方がまだましやと。「九九」なんか、なかなか覚えられへんかったけど、六年生になったら勝手に「九九」言えるようになってたと。
 ざるで水を汲むようなもんじゃけれども、滴だけでも溜まっていきますよってね。ところが、苦しい時は、「来ましたで、たびたび参りましたで、何とかしておくんなはれ」いう。
 教祖様のお広前でも、「そうたびたびこんでもええ」と教祖様はおっしゃる。たびたび来るいうことは非常事態や。何とかしてもらいたいから、たびたび来てるんやろ。「なんとかしておくんなはれ、……」それに対して「たびたび参られても、どうしょうもないでー」と言うてる教祖様も辛かろうなと、聞いている方も辛いし、教祖様も辛かろうなという思いをいたしまするが。


 それでもたびたび参ってる間に、知らず知らずの内にお話が入ってきて、知らず知らずのうちに、神様の方へしっかりと心が向いてくると、スイッチオンになってくる。そうしてくると、「徳を頂いたらおかげになります」という、お徳になっていくんでしょうな。ピッピと手のひら返したように、真に有り難しと……、パッパといけるタイプの方もありますが、それをいけれる人は少ない。訳分からん間でも、参ってる内に、三年五年の信心ではまだ迷いやすい。十年の信心が続いたら、我が心神に向かうて、我が心を拝むことが出来るようになりますと、教祖様別のみ教えでも教えておられますがね。それを聞かれた高徳な先生が十年でいきまへん。私まだあきまへん。というた。十年でもあかん。それはよっぽどのお方や。三年、五年、十年でもまだ迷い信心をします。言うて。二十年、三十年かかりますな、ということをある先生が言うておられますが、正にその通りやと思うが、それでも悩み苦しんでいる自分を抱えて、まる生かしに生かしてくださっている天地の親神様がおられるということ。有り難いことやなとお礼を申さないかんと思います。有り難うございました。

(平成十一年六月十五日)


いくら医学が進んでも……

 この頃は医学で色々なことが分かりまして、頭の中の細胞のことから、胃潰瘍、ガンのことからずっとよう分かるようになり、原因を突き止めて、それに対する治療ということも大変に進んでまいりました。「えらいもんやな」と思わさせられる。しかし『命』は別なんですな。いくら治療をいたしましても、『命』はまた別でしてな。ここらのあやちはよう分からんのでありますけど。
 しかし、前々のことから思えばね、昔は『手遅れ医者』言うてね、何でも手遅れ……で終わってしまうんでありますけども。今はほんとに、すごいものやなという思い。そやから原因が分かると治療もはっきりする。ほんでまた、原因が分かっておっても、これは治療が出来ない難病であるということもはっきりする。また原因不明ということもはっきりする。不明≠ニいうことがはっきりする。というふうに、医学の方では大変な進歩をいたしました。
 そいう意味で、前々では助からない病気でも、段々助かるようになってくるいうことは、尊いことやなと思う。そのように医学の方で助けてもらうことが多んとあるんですけども、今度自分の生き様の方で難儀をしてくる。
 これは何が原因かいうことは案外分からん。何で夫婦仲がうまいこといかへんのか、親子の間がうまいこといかへんのか、仕事のことがうまいこといかんのか、というふうに難儀は体だけ、病気だけが原因じゃない。その中に色々な難儀ということがある。これらは案外、自分自身で原因が分からん。大概「相手が悪いからこうなるねん」言うてますわ。「社会が悪いからこうなるねんとか」原因を自分から外へ向けておりますなあ。まあ、原因ははっきり言うて、九割方自分のところにありますな。それがはっきり分からん。というようりも、分かろうとしないんかな。分かりたくない部分があるんやな。


 医学の方で「あんたは、こういう菌が入ったからやとか。内臓のこれが、こうこう、こうで……、それ治しておくんなはれ。」
 この頃は、臓器移植言うて、他人さんのがこっちへ持ってくるようなこともある。ところが、「あんたの心がけの、ここがあかんねん」言われたら、腹が立つねん、これな。面白いもんで……。分かりたくないの。「自分はちゃんとしてます」と思いたいし、「一生懸命してます」と思いたいし、「あなたの心がけのここが悪いです」言われると、「何言うてはりまんねん」と言いたくなってくるし……。
 原因を追求して、医学のように、「こういう病気やから、これが効くねん。この薬効くねん」と、出来たら楽なんですけど。出来へんのですな。はあー。よしんば、「私は癇癪持ちでございます」。教祖様の時代もありました。
 「すぐ腹が立ちます。気が短いでございます。」
 「その気が短いのがいかんのや」
 「何とか腹を立てんように頑張ります。」
 頑張って、ノイローゼになってしもうたりな……。余計あかんようになってしまうんやな。
 教祖様今度は、「腹の立てんようなおかげを頂いて……」と、ほんとにそいう面では難しいんですな。
 この気が短いのは原因や。辛抱せないかん。辛抱した末に、ノイローゼにならんならん。難しいですな。ですから、そのことも神様にお願いして、「私は腹立て性でございます。どうぞ、ちょっとでも気を長くさせて頂けますように。自分で自分はどうもなりません。」自分で自分がなんとかなれば、これは楽なの。
 今の医学みたいに、他の人の心を持ってきてな。「はい、入れ替えましょうか」言うてな、移植してもらえばええんやけども、これなかなか移植きかしませんねん。
 そうしましたら、それをも含めて「神様どうぞよろしゅうに」と。「気が小さいおまんねん。『いらち』だんねん。すぐ『ねたみ心』出ますねん。」というふうに、我が心が自由にならない。そこから出てくる難儀というものは多いですわ。これ自体どうしようもない。よう世間で言いますやん。「そういう気性でんねん。性分でんねん」それ言われたら、しゃあないわね。「そいうワテだんねん」言うてもうたら、しゃあおまへんな……と、それでしゃあないで済むのやったら、ええのやけども、それで難儀をせないかんからな。自分だけの難儀ではなしに周囲に難儀を及ぼしますでな。「ええ、ワテは気ままだんねん。」それで済ましてしまわな、しゃあないかもしれんけども、それで難儀をせないかん。自分も難儀、人も難儀ということになる。
 でありまするんで、それをも含めて「神様よろしゅうに」とお願いをさしてもろうていく。これは医学が進んでもなかなかいきません。臓器移植みたいにな、気の長い人の心をこっちへ持ってきてな、はい、と入れ替え出来たらええのやけどもな。入れ替えがきかへんのやからな。
 そうすると、ありのままを神様にぶつけて「よろしゅうに」とお願いをしていけば、神様よいようにしてくださいます。有り難うございました。

(平成十一年六月十六日)

お供えが入場券になってませんか?

 信心しておかげを頂くやとか、あるいはおかげがあるとか、ないとかよく申してますけど。頂けるような信心さしてもらわな信心してる値打ちがない。頂いているのやら、頂いてへんのやら、ウジュウジュして、「信心してたかてどうもならんなー」ということで信心をやめていく人も多んとありますし、それでも神様放すのも恐いから言うて、信心に引っ付いている人もありましょうし、せんよりする方がましやろということでしてる人もありましょうし。色々ありますけれども……。
 やはり、信心して神様に響いていく言いますか。神様にスイッチオンになっていくような信心の仕方をいたしませんとね。信心も続きませんし、おかげも頂けよう思うたかて、なかなか頂くはずがない。
 先程、信太郎君、長谷川さんの息子さんですけども、昨日も朝参りができましたね。今日もまた朝参りをさしてもうた。親ごさんは一回も「参れ」と言うてないはずや。願いはしてるはずや。「どうぞ、子供たちが信心のおかげを蒙って、どうぞ、大きくお役に立つ氏子にならせて頂きまするように」と願うてるけど、子供に「参れ」言うたこと絶対ないはず。
 ところが、そのようにお参りしてくる。不思議なものやな。神様に通じてるから、直接自分から向こうへ言うたら反発もしましょうし、「何言うてるねん」となりましょうし。ところが、神様からの三角関係になったら、必ず神様に通じるようなご信心をさしてもろうてたら、ちゃんと思うままのおかげにスーッとなっていくんですわ。
 そこのところが、なかなか神様に響かへんねん。すぐ問題のところばっかりで、一生懸命にやっているの。一生懸命に参っているのやけども、この問題解決せん。あるいは、どないなってるのやろと、神様へ$Sいってないんですな。問題へ$Sいってるの。無理ないんやね。けれども、いつも言うてるように、神様へ$Sを向けな。神様へ$S響かんといかん。


 これ一番おもしろいのが、どこで分かるか言うたら「お供え」で分かるの。お道はお供えのこと言うたらタブーだからね、あまり言わないんですけども。これが一番分かるんですな。ということは、皆お金大事やもの。大切なものやからね。お金を出す言うたら、はっきり言うたら誰でも嫌やねん。そうやけど、出すなら出すで出し方の中に色々ある。お金出すの、自分の好きなことだったらすぐに出せるの。旅行いくやとか、あの服買いたいやとか、これ食べたいとか、これら自分のために出すのは、一つも惜しいと思えへんねん。
 ところが、人の為に出すやとかな。そいうことになってくるといっぺんにお金出すのが惜しい、という気になってくる。そんだけお金というものは大事なものなの。お金って命の次に大事なものじゃと言われるぐらい大事なもの。自分の為に使うのやったら、一つも惜しいとは思えへんけどもな。人の為に使うとなると……。ところがそれが、お金を使う、出す場合にそれが成果が上がるかどうか、どっかで考えてるねん。「こんだけ注ぎ込んだらどうなる……」いうこと、頭の先でどこか意識してるんやな。意識してるから、えらい問題がある。「神様におかげもらいたい。どないしたらええかいな。ちょっとでも、お供えしたらうまいこといくかいな」と思うて、必ずお供えしようとする。すなわちそれは、神様を釣るんやな。そこをうまいことつけ込むのが新興宗教や。
 うまいこと、「もっとしっかりお供えしたらな、その問題解決しまっせ。」解決したいものやから、お金で買うのよ、おかげを。お金で買おうとする。「先祖の霊がついてるからな。そんな問題起こりますねん。その霊を祓うには、何十万円持ってきなはれ。」自分が苦しいものやから、霊を祓うてもろうたら、上手いこといくかいなと思うから、何十万円持っていくのね。そして霊を祓うてもらう。
 よう考えてみたら、これお金でおかげを買おうとするのね。上手いこといくことを買おうとしてるんやな。その結果は、「一生懸命にお供えしたかて、一つもあかんなだ」と思うの。コース決まってある。「だまされた」とこうなる。その「だまされた」と言う前に根性があかんわな。おかげを、神様の御利益をな、お金で買おうとする。その根性が第一、間違うとるわ。先ずこうなる。


 その次にどうなるか言うたら、長年信心してくると、お供えしたかて、急におかげもらわれへんこと知ってるねん。「このお道はな。お供えせい言われへんねん。」
 昨日でも月例祭があった。教会の備え付けのな、お供えの袋にシャカシャカと書いてなクシャクシャの千円札を入れといてな、それで済んだと思うてるの。それで、神様に通じると思うてるの。これまたおかしな話しや。真心はそこにあれへんねん。
 「今日は天地金乃神様のお祭り、今日は教祖様のお祭り、あるいは、誕生のお礼を申さないかん。自分のせめてもの真心をお供えさしてもらおう。」
 ここで初めて通じるんやろ。神様にね。
 「今日は月例祭、行こうか。あ、そうやそうや。お供えせないかんねん。」教会の備え付けの袋にな。クシャクシャの千円札つっこんどいて、「はい、お参り来ましたで……」。これは、『入場券』言うねん。一つも神様につながってへん。お供えの額はそれぞれありましょう。しかし、その中の真心でせい一杯で、せめてもの……。そりゃ大事なお金や。神様にようけお供えしたら、あと生活出来なんだら、えらいこっちゃ。生活もさしてもらわないかん。学費も要る。しかしその中でせめて……天地の親神様に、「せめてこれだけはお供えさして頂きとうございます。お礼を申さしてもらいとうございます」と、せめてもの心で、お包みをさしてもらう。
 今日はお祭り日や。家からちゃんと『奉』と書かしてもろうて、名前を書かしてもろうて、「どうぞ、これを神様へせめてもの真心でお供えをさして頂きとうございます」と言うて、お供えする人がまあ、一割やな。あとは、「教会来て、お供えせないかんで。あんた、なんぼしてますの。はあ、そうでっか、……」クシャクシャの千円札つっこんどいて、「来ましたで……」。そんなん神様に通じるはずがあれへん。


 一番よう分かるのはお供えの仕方。「ようけしたら、おかげもらえまんのか」。これは、おかげを釣うとしてるの。そんなのちゃうの。そこのあやちのところが分らへんのやね。神様へせめてもの真心を……。そりゃお金は大事なものやから、生活していかなければならん。あれにも要る、これにも要る。その通りやな。その中で始末さしてもろうてせめて神様に、ここまでおかげを蒙ってる、ここまでお守りを頂いておる、ここまでお導きを頂いておる、それに対してせめても……と。自分は何もようしません。出来るものじゃございません。せめて……。それで初めて神様に通じるのね。神様に通じたらおかげになるのが当たり前なの。
 『信心してみかげのなき時はこれぞ不思議なことぞ。信心しておかげのあるを不思議とは言うまじきものぞ』と。「信心して……」とおっしゃる。別の言葉で言えば、「神様に通じて」という意味ですね。「来てまんねんで。お供えしてまんねんで。まだでっか。」そんなもの通じる言えへんわな。そこらのあやちが難しい。一番よう見えるのがお供えで見えますな。
 「ああ、あの人ちょこちょことやってはるなー」。私から見たら『入場券』やな。神様への真のお供えになってない。殆どの人が……。神様への真の真心になってない。ほとんどが、まあ、『入場券』みたいなものやな。その程度では、神様に通じない。額の云々を言うてはるのと違うねん。どういう心持ちで神様に向かうとるかを言うておられる。そこのところが、なかなか信心してるようでも、信心にならないということであろうかと思います。有り難うございました。

(平成十一年六月十七日)