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皆、素直に神様に向かうことが出来ない。

 この教会の前を歩いている人もそうですし、それぞれの家庭でもそうなんですけども。例えば、子や嫁やらが難儀をしておる。辛い目をしておる。あるいはまた、表を通っている人も、誰から見ても「そんな人生を歩まんでええのになあ」。色々事情あってのことなんだけれども、気の毒な人生歩んでるなというのが見える。あるいは子や孫も、この子らは難儀な子やな。本人も難儀してる。中には難儀をしてても難儀と思うてない人おりますけどね。
 昨日も久しぶりに、梅田の方へ夕方歩かしてもろうたら、きれいなネーちゃんが、パンツ見えるぐらいまで足ほうり出して、客引きをしてる。もうあっけらかんなってしまいましたな。何ともなくなりまして、本人も何とも無くなってしもうたんでしょうね。ああ、そこから難儀が生まれてくることも分からん人も、中にはいてる。それだけではなしに、今日び、リストラやいう人もあれば、色々な人生模様を描いておる。赤の他人さんもそうやし、あるいは家族のことも、体のこと、仕事やら、人間関係のことやら、家庭のことやら教育のことやら難儀をしてる。それやのに、素直に神様に向かわれないいうのが、気の毒なね。何で「よろしゅうお願い致します。辛いんです。」言うてな。素直に何で向かわれへんのやろうね。


 よく言うんですけど、子安さんの子供さんが、小さい時から小児ぜんそくで、もう大変で、阪急電車へ飛び込もうかと何遍思うたことか。そのお家はお姑さんが信心してる。それで、お姑さんが「教会行かしてもうろうたらどうや」言うて。それでも行きたくない。難儀やな。阪急電車へ飛び込もうと思うても、神様に手を合わしたくない。あれは何やろうな、と思う。
 ほんとに、何にも特別なことあれへん。何もこうせないかん。ああせないかん。何にもおっしゃってない。「氏子助かってくれ、神は人間を助けるのが役割じゃ」と。皆神から命をもろうたんやから、みんな神様から命をもろうて、神様から命を頂いているんやから、素直に、向こうてこいとおっしゃっているのに、でけえへん。意地を張るねんな。
 ほんで、首をくくらないかん。電車へ飛び込まないかん。夫婦別れせないかん。子供殺さないかん。あれ、何でやろうね。何で素直に「よろしゅうお願いします。私の力ではあきません。」と素直になんで神様に向かうこと出来へんのかいな、と思うて。
 とことんいかないかん。とことんいってでも、こっちへ向けばええけど、とことん行きっぱなしで、もう首つらないかん……。ということやね。何で素直に、「辛(つら)おまんねん。辛いです」言うて。向かわれへんのやろうな。


 その当時のことを子安さんに聞くと、「何で向かわれへんかってん」と聞くと、「何でしょうね」とご本人もわからんと。何で向かうことができなんだか……。
 電車へ飛び込むそこまできてるのに、神様に向かうこと出来へんの。難儀なこっちゃな、あれ。「この方の行は水や火の行をせいと言わん」。何もせいと言うておられない。素直によろしゅうお願いしますと、それだけでええと言うてるのに、出来へんねん。
 あれなんででしょうな。神様も気の毒な、皆神様の命もろうたんやから、素直に神様に向こうたらええ。と言うてるのに出来へん。素直になれへんのでしょかな。
 これを「世間になんぼうも難儀な氏子あり」とおっしゃってる。「神は人間を救い助けるのが仕事じゃから、何なりとも頼めい」ともおしゃっている。素直に神様に向かうていくことが大事なことかと思います。有り難うございました。

(平成十一年六月三日)


金光大神の教えの舟に乗らずに……

 人間、自分の思う通りにいっておりましたら、何ともないんでありますけども。そう簡単に、自分の思い通りに世の中そうはいきませんし、また端から見て、「あそこは上手いこといってますな、よういってはるな」と思うても、人間の心いうのは毎日、毎日コロコロ、もう瞬間、瞬間でコロコロ変わりよる。機嫌ええなと思うたとたんに、機嫌悪くなったりな。喜んでるかな思うたら、すぐ腹立てたりね。ピッと決まることがない。コロコロ人間の心も変わる。
 まあ、その心の振幅が、さざ波程度やったらどういうことないのやけどな。さざ波じゃなしに、大波になったりな、フッと心配に取りつかれたら……、ちゃんといってるのに、ヒュッと心配に取りつかれはる時がある。それを今日で言うとノイローゼやとか、自立神経失調症とか言われる方がそう。端から見たらちゃんといってるのにな、ヒュッと何かの心配ごと、ヒューッと……。
 「もし、主人が死んだらどないしょう」。ピンピンしてますんですよ。ピンピンしてるのに、勝手に殺しよる。「もし主人が、先に死んだらどないしょう」と言うてくるから「御主人、どんな病気やねん。」「いえ、まだピンピンしてまんねん」「ピンピンしてたら、お礼申さなどないすんねんな」「はあー」。面白い言うか人間の心いうものは、恐いもんやね。ヒューとその中に入ってしもうたら、抜け出されへんのね。ほんまに気の毒なもんやな。よっぽどしっかり自分の我が心が、しっかりさしてもろうとかないかれへんな。


 私も先日入院さしてもろうたんですけど、大量の吐血をいたしましたけども、有り難いことに「はあ、吐血したな」言うだけのことであって、囚われがないので有り難いことやなと。それを見て「どないしょう、どないしょ」という思いが一つもない、「えらいこっちゃ」という思いがない、ということが有り難いことやなと思わさしてもらうのやけれども。
 普通の人やったら、それで仰天してしもうて、「どないしょう、どないしょう。もうあかんわー」となってしまうのでしょうかな。自分の吐いた血を見てね、「だいぶ出たんやな」というぐらいのもので……。お医者はんや看護婦さんが、気が動転してもうて、「えらいこっちゃ、えらいこっちゃ」でキリキリ舞いしてはったけど……。
 そういうふうに、人間の心いうものは振幅しよる。上がったり、下がったりしてる。その時に人間の心が不安定になってくると、何が大切なのかが見えなくなってしまう。
 今日は情報化時代で、色々な情報がたんと入ってくるもんやからね。心が不安定になったりしますと、もう、どうでもええ情報でも、聞くとそれに流されてもうて、何が大事か、ここで大事な事は何なのか、というようなことが見えないようになってくる。
 例えば、「生きても死にても天と地とは我が住処なり」「天に任せよ地にすがれよ」「我が身は神徳の中に生かされてあり」と、ビッシとしたものが腹に入ってなかったらね、健康な時は分からんのやけど、ちょっと病気になるとフェーと流されてしまう。
 「生きても死にても天と地とは我が住処なり……、天に任せ……」そこのところキッチと腹入れをしとかんとね。ウエーと流されてもうてな、どうもこうもならんようになる。


 教祖様の後を継いでくだされた二代金光様の御理解に面白い御理解がある。
 「金光大神の教えの舟に乗せてもらいましょう。人の口車や、尻馬に乗りますまいぞ。大けがをしますからな。」、面白い御理解やね。昔もあったんでしょう。今でもあるけども……。
 信心してる。まんまんちゃんあんしてるんですけども、さてという時に、金光大神の教えに乗らんとね、人の口車や、尻馬に乗りますんやな。なんの為に信心してはったかいなと思わないかん。さてという時に、よう神様の教えに乗りませんな。人の口車や尻馬に乗りますな。
 それで、よそさんから、大騒動が耳に入ってくる。大騒動しはってな。「誰々さんがこう言うてた。ああ言うてた。ウワー」ほんでお結界くるのは一番最後。おもしろいものやね。ここで踏ん張らないかんのに、ここで教えを聞かないかんのに、先に「ウワー」と言うてしまう。あれは苦しいから言うてしまうんでしょうな。
 それで、「お結界で言うたらバレるから……」自分で先、言うて回ってるのにな。あれは苦しいから、自分がしゃべってるのが分からないねんな。「痛い、痛い、大変だんねん、大変だんねん」と人に言うて回ってるのね。自分が大変だんねん。言うてることが分からない。おもしろいもんやね。「お結界いったらバレる」言うて……。バレる前に他の人に言うて回って、他から耳に入ってくるんやけどな。おもしろいもんやね。
 さて言うときに金光大神の教えの舟に乗らんと、人の口車や尻馬に乗る。二代金光様の時もあったんでしょうな。ほとんどの人はこんなんだったのでしょうな。ですから、厳しく、また半分皮肉って、教えておられますな。
 「金光大神の教えの舟に乗せてもらいましょう。人の口車や、尻馬に乗りますまいぞ。大けがをしますからな。」
 皆、大けがしてもうてから、どうしょうもなくなってきて、神様を恨みはるんやな。「信心してるのに……」。実際は信心してへんのや。人の口車に乗ってしもうてますねん。さてという時に、どうもいけませんな。さてという時に間に合う信心をさせてもらわねばなりませんな。腹を据えた信心をさせて頂きたいもんじゃと思います。有り難うございました。

(平成十一年六月五日)

国や地域の大きな『仕構え』が働きをしてくれる

 先日、二、三日前ですけど、ふと家内が「パスポートの更新をもうせないかんの違いますか」言うて、「はあそうやな、そやけど次、外国へ行く機会あるんか」言うて。「そやけど、更新しましょうや」ということで、パスポート出して見ると、もう更新の期限過ぎてしもうて、改めてもう一度取りなおさないかんということだったんですけども……。
 その時ふとパスポートのことで思い出した。あのパスポートを持っておりましたら、外国へ行きましても、この人は日本人やということで、その外国は、よその国からパスポートを持ってる旅行者である私なら私を、守ってくれるんですな。別の言葉で言えば、日本の国が保証してくれるんですな。どこの国へ行きましてもな。全然知らない国へ行きましても、「はあ、この人は、日本人なんじゃ」と。そして大事にしてあげないかんのじゃ。と身分を保証してくれますねんな。身分だけではなしに、外国での何日間の生活、生きていく上で色々なところで守ってくれるんですね。
 そうしましたら、外国に行くときに、「このパスポートだけは絶対に失わんように」とヤイヤイ言われましたわ。なぜかというと、間違いなく日本国国民であると、保証がなかったらどないされるか分からんと。
 そうして見たときに、大変なことなんだなと。それまで、国の中にいてたら、国いうものを余り感じませんな。当たり前のことで、わざわざ自分自身が「日本国民であります」ということをわざわざ思うことはないんでありますけど。国というものに守られているという、保証されているという大変なことがあるんやなという思いをさせられる。


 日本国内で旅行したり、外国へ旅行する信者さんに、「もし旅行先でなんかあったら、金光教の教会を探しや。『大阪の扇町教会の信者です』言うたら、大概分かりはるから……」、という事をなんの気なしに言う。特に若い子でも、無鉄砲なことして、よそへ行ってもうて、えらいこっちゃ、財布無くしたということもありましょうし。色々なえらいこっちゃということも出てくるでしょうし、その時は必ず、「電話帳でも何でもええから金光教の教会を探し……」と。「こっちへ電話しといで、そこの教会へ私が電話したげるから」言うことをよく言う。
 ただ、押木廣太という個人が保証したかてどないもならんと思う。向こうと知り合いで無かったらね。金光教の扇町教会という一つの構えと言いますか。それが保証するのでしょうな。そうしました時に、教団とか、あるいは社会、国家、という、『仕構え』というものが大変な大きな役割をして下さっておらるんじゃなあと改めて思う。
 こないだ私、入院をいたしまして、大勢の方がお見舞をしてくだされて、退院を無事にさしてもろうたんですけど、押木廣太個人やったら、ほんまの数人の人しか見舞いはないと思う。ところが、「教会長先生が入院された」「親先生が入院された」ということで大勢の方がお見舞くだされたり、あるいはまたよその教会の先生方が「扇町の先生が入院された」ということでご心配くだれた。として見たときに、個人の働きというものもあるんですけども、その国やら社会やら、教団とか言われる『仕構え』が働きをしてくださる。ということが非常に大きなことがある。


 そうしました時に、大阪へ色々な人が務めに来られたり、学生さんが来られたりする。「私は、国はどこそこであります」と。「どこそこに、ちゃんとした親がおります」ということがあるのと、無いのとで、同じ大阪へ出てきて働いたり、大阪で住まいをしてましても、生活しておりましても、「はい、私は山口県のどこそこから出てきまして。実家が、山口県にあります」という方と。誰でも実家があるんやけれども、浮浪者、ホームレスの人は、実家があっても無いですわな。誰も保証するものがない。保証されないということはほんとに、人間の力の小さなものであるんだなと思う。「ちゃんとやります。ちゃんと働きます」となんぼ言うたかて、誰も保証してくれない。ということは、ほんとに小さな力しかないんだなと。
 国が保証してくれる。あるいはまた、実家が保証する。あるいは地域が保証する。例えばあなたやったら、「あそこの看板屋さんや」と、それが保証してくれはる。それで、どこそこの奥さんや。誰それさんの子供さんやとかね。その家が保証する。その保証が無くなった時には、人間は小さなもんなのだなと改めて思うた時に、お礼を申さないかん。国にお礼を申したり、教団へお礼を申したり、家へお礼を申したりする、ということがいるんじゃなと。家族にお礼申したりすることがいるんじゃなあと思わさして頂きます。有り難うございました。

(平成十一年六月十一日)