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皆『天地の道理』という、言葉は知っているが……

 ご信心のない人が飛び込んで入ってきて、「何でこんな難儀するんでしょうか。私はちゃんとしてますのに」と問われることがあります。それを聞かれたご信者さんや、長年信心している人たちは、「それは『天地の道理』を知らないからです」と。「『天地の道理』が分かったら、そういう難儀はせんようになります」と言う意味合いのとこを必ず言われる。「そんなら『天地の道理』って何ですの」言われたら、オットトットということになる。「『天地の道理』ってどういうことですの」。そやから、ご信者さんも、『天地の道理』という言葉を知っているのであって、長年信心しておっても道理を知らない人が沢山ある。
 また、「人間は、生かされて生きてますから……」と、『生かされて生きる』言葉を知ってましても、「そうしたら、『生かされて生きる』とはどういうことですか」と問われたら、「えっ」と言わないかん。そいうところで、危ないところが沢山ある。そこのところが分からなかったら難儀をしてくる。難儀をしてくる中で、「『天地の道理』を知らないから、『生かされて生きている』ことを知らないから、難儀をしてくるんです」と。その通りなの。「そうしたら、一体どういうことなんですか。どうしたらいいんですか」ということになってくると、「えっ」ということになってしまう。オットトットということになってしまいますな。そうすると、助かるということはなかなかのことなんですけども。


 『天地の道理』とか、『生かされて生きる』ということは、自分中心に生きてないんですよ。天地があって生きているんですよ。天地のお働きを受けて生きているんですよ。神様のお働きを受けて生きているんですよ。簡単に言えば、そういうことなの。そこまでは皆、説明できるかな。それも説明出来ない人が多いけど……。そこまではかろうじて説明できる。自分中心で生きているんじゃないんですよ。神様のお働きを受けて生きているですよ。命は神様の大きなお働きがあるんですよと。そこまでは、わりと優秀な人は言える。その次や、そんならどうするの?


 例えば今日は五月三十一日ですな。月末。昔はこれを『節季』とも言うた。天地の大きなお働きの中に、ケジメを天地はつけておられるんですわ。朝、お日さん、がお出ましになり、晩お日さんが、西へまた没しなさる。天地のお働きの中にケジメをつけてくださる。
 ところが人間は自由を与えられておりますから、そのケジメを段々崩してきたところにね、難儀がありますな。
 まず、命のケジメがありますな。人間の命も天地の間に生かされてもうとるんやから、ケジメがあるはずや。ところが人間は電気を発明し、昼も夜も分からんようになってしもうたな。そいう意味で、命のケジメが無くなってきました。そりゃ難儀してきますわいな。
 他の生き物は、ちゃんとお日さんお出ましになったら、目を覚まして起きて、鳥でもそうや、お日さんが没したら、休まして頂こうかと、天地のケジメと合わして生きさしてもろうとりまするな。そいう意味で人間は、ケジメいうことが無くなりましたな。自由、自由言うて、親子のケジメが無くなってきましたな。夫婦のケジメが無くなってきましたな。遊びと仕事のケジメ無くなってきましたな。このケジメを失うてくると、人間難儀しますわ。決まってある。これ一つの『天地の道理』や。
 そうすると、今日は月末ですな。確かに暦というのは人間が作った。しかし、なんで暦いうものをなんで人間が作ったかは、一年の三六五日を十二に割って、一つケジメをつけさして頂こうと。その大きなのは、季節のケジメな。
 教祖様はそこのとろね、「節季を忘れておるから、難儀をしてきた」ともおっしゃっている。『節季』を失ううてきたので、難儀をしてくる。「この一ヵ月間有り難うございました」とお礼を申すことね。『天地は語る』の四〇〇節の御理解には載ってませんが、分厚い教典の中には、教祖様の日常茶飯のことをよう教えて頂いておるんですけど。今日では、ピントこない部分があるので載せておられないのですが。その中の一つに「節季を忘れてきたので……」ということはね、西洋の暦が明治に入ってきた。西洋の暦は太陽暦。日本の暦は太陰暦であり違う。ある一面では、太陽暦が入ることによって、日柄方位を言わないようになって「有り難いこっちゃ」と言われ。またもう一方では、ただ単に日にちを勘定するだけの暦になってしもうた。
 そうではなしに、日本の太陰暦の暦は、そこで季節というものをキッチと載せておった。その季節に対してお礼を申して、ケジメをつけておった。そのケジメを「節季のケジメを忘れておるので難儀をするようになりました」と。すなわち『天地の道理』から外れてきておるということやね。人間は十二ヵ月の暦を作った。ただ単に日にちを勘定するだけやなしに、一ヵ月、一ヵ月をもってケジメをつけてお礼をし、お願いもし、お詫びもした。ですから、教祖様は「一日のことは朝に頼めい。晩にお礼を申せ。一ヵ月のことは一日に頼めい。そして月末にお礼申せ、一年のことは、三が日に頼めい。一月から四月のことは一日に、五月から八月までのことは二日、九月から十二月のことは三日に頼めい。」とケジメをキッチとつけておられる。天地にケジメがありますので、春夏秋冬というケジメをつけられ、一日一日のケジメをつけられ、そのケジメをつける生き方、それも天地の道理に合うていく、生かしてもうていく信心の生き方。


 今日はそう意味で月末。月末のケジメを信心してる人も、どれだけの人がつけているんかな。「まんまんちゃん、あん」だけしてるだけかわかんらんな。人に聞かれたら、『天地の道理』ですんやとか、『生かされて生きています』という言葉は知ってるけれども、さあ、自分自身の信心生活の中で、そのケジメがどれだけつけさしてもろうてるか言うたら、非常に危ない世界があるね。
 今日は月末、一ヵ月のお礼をしっかりとつけさしてもろうて、また、明日は月初め、そのケジメをキッチとつけさしてもろうて、信心生活をさして頂きたいもんじゃと思います。有り難うございました。

(平成十一年五月三十一日)


神様がお待ちくだされている

 大変に良いお天気のおかげを頂きまして、有り難いことと思います。どういうわけか有り難いことに、もう朝の五時前から目が覚めております。寝るのも前々とそう変わらない、十二時前ぐらいに休ましてもらうんですが。
 五時前には目を覚まさして頂きまして、ぼちぼちと身繕いをさしてもらいまして、マンションにご神前がございます、神様にお礼を申して、お水をしかえさして頂きまして、それで、自転車でお参りをさしてもらう。正に、『お参り』をさして頂ける。有り難いですな。お参りをさせてくださる。神様が待っていて下さっておられる。「どうぞ、今日も一日、元気に御用に使うて頂けますように」と、道中にそういう思いがずっと湧いてきてね。お広前に入らして頂けることが「有り難いなあ」という思いがいたします。


 大きなお宮さんと言うたらいけませんけども、明治神宮やとか、伊勢神宮やとか、大きなお宮さんや、大きなお寺さんがありますね。それには、『参道』というものがありますな。玉砂利が引いてあって、それから、鳥居があって、緑があって、気持ちが良ろしいなあ。まあ、この梅田の真ん中でそれを求めるのは、無茶苦茶な話しなんですけども。
 あの参道の間に、神様に向かう心が定まってくるんでしょうかな。構えが出来てくるんでしょうかな。ケジメがついてくるんでしょうか。有り難いですな。はあ。
 この神様へ向かうていく、向かう姿勢が、ケジメが、その間にずっと出来ていけるんでしょうね。玉砂利をジャリジャリ踏んで、鳥居の下をくぐらしてもろうて、森林浴みたいなもんやな。天地の息吹をずっと頂いて、それで奥の方に、やっとお社がありますわな。そこでご拝礼申し上げる。
 その参道の間に、お参りをさしてもろらおうという、参道の間に意識をさしてもろうて、神様に向かう構えが出来てくるんですな。


 ……というて、ここ扇町教会には参道も何もあれしません。ずんべらぼうなんですけど、しかし、有り難いですね。マンションからこちらへ通わしてもらう。自転車で五、六分の道中なんですけども、「はあ、神様が待ってくだされてるなあ」。「今日も御用さしてもらいたい」。という構えが出来てきますんやな。ケジメが出来てきますんやな。有り難いことですな。
 そうしますと、神は声も無し形も見えずのお方でありますが、我が心でケジメをつけさしてもらい、喜び勇んで、今日も天地の息吹を受けて、お役に立たせて頂く。それでも、体は限度がありまするで、疲れたら、疲れが出るんでありますけども、その前に、おかげは我が心とおっしゃる。「今日もお役に立たせて頂きとうございます。神様お待ちでございます。神様お待ち下さっておられる。」という思いを持つ。
 有り難いですね。マンションからこっちへ来る。えらい手間のように思うけれども、反対ですな。手間じゃありませんな。教会の中に住まわさしてもらうと、「時間やで」。と「さあ、今から御用に……」というより、「もうちょっとねむたいな。もうちょと寝さしてくれはったらええのになあ」と。義務になってくる。義務が出てくる。
 義務ではなしに、返って、向こうからこちらへ通わしてもらうことによって、息吹を頂いていく、命のケジメが出来てくるんですかな。「せないかん」というよりも、ケジメが出てきて、「さあ、今日もお役に立たせて頂こうと。神様お待ち下されている。」そう思うたら、思おうとして思うんじゃない。勝手に思うてくる、天地が響いてくるんですな。そうなると、早う目が覚める。
 これ、マンションから通い出して、半月以上なりますか、いよいよもって早くから、目をシューッと覚まさして頂いて、「はあ、有り難うございます。」と命のケジメが出来てきて、神様への向かい方が、また、こう生き生きさしてもらえる。「有り難いこっちゃなあ」と。これがずっと続けさしてもらいたいなーと。あそこへ住まわさしてもろたら一番ええのやけどな、そうもいかんのかいなと思うて、「有り難いこっちゃな」というものが、湧いてまいります。


 神は声も無し形も見えずでありますから、余計に生き様の中で、ケジメを自ら付けていかんと、だらけだしてくると、神様へ向かう心もだらけてくるしね。同じお広前に住まわしてもろうてても、有り難うなくなってきたりな。「せんならん、せんならん」ということが出てきたり、何してるのやら、訳わからんようになってきたりする。ケジメを付けることは、エネルギーですな。昨日もケジメの話しをいたしましたけれども、ケジメは一つのエネルギーを生み出しますな。ケジメがつけられんようになった時には、エネルギーが無くなってる証拠なんですかね。ケジメが頂けるのは有り難いことやなと思いました。有り難うございました。

(平成十一年六月一日)

給料袋を神棚へお供えして、それから……

 氏神様の祭り日には、家々でたいそうなことをしてお祭りをするが、天地金乃神からは日々のおかげを受けておりながら、その祭り日には特別のこともしないで、ろうそく一本を供えるくらいのことである。白いご飯を炊いて、おなますでもつけて供えるようにせよ。そうすれば子供でも、お母様、何事ですかと言って聞くようになる。わけを話してやると、神の恩を知るようになり、大きくなって、だんだん自分でも尊ぶようになる。(『天地は語る』三一一)

 今日の御理解に、「氏神様のお祭りには、たいそうに大騒動するけど、天地金乃神様の祭日には何もしない」というみ教えがございますね。これ、思いますのに、氏神様のお祭り日にたいそうなご馳走をする。あれは氏神様にお供えしてるの違うんですわな。年中行事で、家族中が楽しむために、あるは親類縁者がその日にお越しになって、それでご馳走して食べるという意味合いが強いですな。その氏神様が有り難うて、氏神様にお礼を申すと、お宮さんの神様にお礼を申すということは、ほとんどないんですな。
 でありまするで、人間というものはおもしろいもので、「神様にあれもお願いします。これもお願いします」と、神様にお願いをしたりするんですけれども、その『お礼』ということになってくると、ポコーッンと抜けますんやな。それで人間の方へはすぐ目がいきますんやな。誰々がくるからご馳走をする。というような人間の方へシューッと目がいってしもうて、それで肝心のお世話になっておる神様の方へは、全然目がいかないということになりますんやね。大事なところがスコーンと抜けてしまいますね。神様にどれだけ、お礼を申し上げているのかということですな。そこのところがスコーンと抜けてしまう。
 「お礼を言うてまっせ」、お礼を言うてるだけでなしに、ご馳走をして、改めてお礼を申し上げていくという具体が伴わない。信心には具体が伴わなければなりません。


 おもしろいことに、給料をもろうたら、「先ず神様にお供えしてから、神様に使わしてもらわないかんで」と言うことを言われている。「そうやそうや、給料袋を神棚へお供えして、まんまんちゃんあん」と。「はあこれでお供えした。あとは給料はわしが使うねん」いうこと。それで終わってしまう。それでもまあ、良しとせないかん。その前にお教会に来て、お届け申し上げて、「どうぞ、一ヵ月間元気で働かして頂きますよう。お祈り添え、お力添えよろしくお願い申し上げます。お導きお願い申し上げます」とお願いしといて、それコロッと忘れてしまいますねんね。給料袋、ポッと自分の家の神棚へお供えして「はい、お供えしましたで」それで終わりやな。お広前お届け、お礼のお献備をようせんの。それで神棚へお供えしましたで。それで終わってしまう。
 そこらにね、人間のスコーンと抜ける。おもしろいもので、そのお金を貯めたとしますや。違うところで、ジャジャ漏りになりますな。そいうお家は違うところで、子供で無茶苦茶使われたり、ジャジャ漏りになる。しゃあない、我が子に要ってきたらお金使わな、しゃあないということになったり、あるいは病気で使うたり、そっちでジャジャ漏りになってますね。スコーンと抜けてしまう。


 今日はお宮さんのお祭り日やいうたら、お宮さんにどれだけお礼を申し上げていく、具体をしていってるかと言う、お宮さんへお供えをちゃんとしてるかというたら、それしてませんねん。
 親類がくる。そっちの方へ気はいくけどね。
 そいうふうに、人間のしてるこというたら、えらい信心してるようやけども、こちらからみさしてもらうと、ジャジャ漏りいうか、スコーンと落ちてしまう。やはり天地の道理はおもしろいもので、それが結果として現れてくるということがあります。気を付けさしてもらわないかんことやなと思います。有り難うございました。

(平成十一年六月二日)