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何もかもおかげの中でのこと

 皆に心配かけまして、四月二十七日吐血、北野病院へ緊急入院のお蔭を蒙って昨日五月十七日、退院の大みかげを蒙らしてもらい、いろんなことが、その中でお蔭頂いてのことでありました。何もかもがおかげの中でのことやなあと、いうことをしみじみと味はさして頂いております。しばらくの間、その話が続いていくことやと思いますが。
 守られて守られて、祈られて祈られてということも事実。ホントにしみじみと味あわさして頂きます。親神様に守られて、歴代金光様のお導きを頂いて、初代二代を始め多くの御霊様に守られて祈られて、家族に心配かけ、守られて世話かけて、多くのご信者さんに、これまた心配かけて、祈られて、ホントにそういう自分は果報者。あの人は果報者という言葉がありますけども。はあ、果報者やなあと。
 肉体を持っておりましたら、誰しもが痛み、病気というものが起こってきます。それは金持ち貧乏人かかわりなしに起こってくるもんであります。一生の間には、生まれて死ぬまでの間に、肉体を頂いている限りは病気になったり、痛いかゆいがあったり事故に遭ったりするのは当たり前であります。
 そして現代においては、医学の進歩で治療を受ける。そして治らなんだら死ぬとか、また体が不自由になるとかいうようなことがある。それは病気の程度による。あるいは事故の程度によることで、それは医学の治療と関わりあることなんでしょうけども。
 そういうことではなしに、治るとか治らないとか、病気が重いとか軽いとかではなく、医学の治療との関係ではなく、人のおかげ、もののおかげ、天地総がかりのあらゆる働きの中で、病気なら病気の私が生きている。そういうものがなっておる。
 だんだん元気にならしてもろて散歩が許されて、扇町公園をブラブラ散歩さしてもらった。扇町公園のこともるる話しに出てできますが、病院の隣が扇町公園でホームレスといわれるお方も大勢おられまして、テントの中におられます。その人も命をいただいている。私と同様、人もまた痛いかゆいもあるだろうし、また同じように病室の中に一号室二号室と、ずらっと満員御礼である。そして外来の患者さんもう満員御礼。何にもかも満員御礼。肉体持っておりましたらどこか故障ができております。そういう中で、その中の私もそのひとりであり、治療受けておる。しかし、おかげを受け、治療を受けており、守られて祈られて、心配をかけて、それだけではなしに、関わりある人達、お医者さん、看護婦さん、家族、信者さん達など、十分に皆それぞれを働きくだされている。
 もう一遍繰り返すようですが、体が悪くなることは誰しもがあることですが、そういう中でお蔭を受けて悪くならしてもらえる。結構なことやなあと。本当に結構なことやなあと。病気になって結構なこっちいうのは、けったいなことやけども、結構なことかなぁ。こういう思いをしみじみしてとさして頂く。
 今年は開教九十年ですけれども、九十年というと年月は勝手にくるようやけども、初代から流れておる、人が助けられてきたこのお広前でお使いを頂いておること、お徳の中でのことやなということ、勿体ないことやなと思います。しばらくの間、入院記が続くことやと思いますけれども、一番根本というのは結構なことであり、ありがたいことでなあということが、一番根底になっております。有り難うございました。

(平成十一年五月十八日)


その人なりの助かり≠ェある

 金光様に、「私は長い間信心させてもらっていますが、貧乏で困ります」と申しあげたら、「貧乏といって、食べない時があるか」とおたずねになった。「いや、食べられないことはありません」と申しあげたら、「いくら金や物を積み重ねていても、食べられないことがあってはどうにもなるまい。健康でご飯が食べられれば、それが金持ちと同じではないか」と仰せられた。(『天地は語る』二八七)

 天地の親神様が、「どうぞ氏子信心しておかげを受けてくれ」。人間は賢いようでも、一生懸命自分で、ああじゃこうじゃとしておるようでも、間違いだらけであり、良かれと思うてしたかて、すぐスコーンと、とんでもないことになって、わめきちらさないかんことがある。ちゃんとしてますというても、ちょうど、ちびちゃんのちゃんとしてますのと同じでな。はあ、そういうことであり、もうほんとに目の見えない人が杖無しで走っているようなものであり。賢いようでも、ガタガタになってしまい、というようなことがあって、何とか助かってもらいたい、天地の道理を分かって頂きたい、おかげを頂きたいとそのように仰せになり、全国の各教会も教主金光様始め千六百のお教会、皆それぞれ教会長先生がお取次下されて、お導きをくだされておるんでありまするけど。なかなか「親の心子知らず」言いますかな。それを受け止めてくれる人が、なかなか少ない。「あれは先生やから言うてはりまんねん……」となかなか、……親の心子知らずいうことがありますな。


 まあこうして、扇町教会も、なんとか天地の道理を、お話を聞いて分かって頂きまするようにということで、色々な事をさしてもろうてる。火鉢の横に朝のお話を取って、テープレコーダーに吹き込んで、「どうぞ、わずか五分程度やから聞いて帰って下さい。」としても、ほとんど聞かない。な、……これが事実。
 それから、一日一話の第四集もこのようにださせて頂き、「どうぞ、一日一つのお話を読んで、身に付けてくださいと、こういうふうにして作らしてもろうても、なかなか持ってかえらん。これも事実」しかし、教会としては、それぐらいしか、あと出来ようがないのね。ここまでぐらいやな。あと、何考えられるかいな……。どないしたら、お話を聞いてくれるか、どうしたら、身についてくれるか、ということをね。できるのはこれぐらいやな。


 ずっと若い時分にね。東北の方の教会に青年教師の時に視察に行かしてもろうて、その先生がこういうことを言われた。「もう、全然お話なんか聞いてくれへん」。あの辺は、ご祈祷師だけなんだから。皆その感覚だから、どないしても、どないしてもお話なんか聞いてくれへん。そこでしゃあないから、その辺は十一月頃から冬ごもりやからね。雪の中へ閉ざされてしまうのやからどうしようもない。そやからお広前から、天上から、壁から、どこ向いても、教祖様の教えが目に触れるようにと、模造紙に書きたおして、寝ころんでも見えるようにと、はり倒したという話しを聞いた。「そんなこと大阪なんかせんでええやろう」と言うてね。「そやな、ほんまやな。大阪でも一緒やな」と思うてな。教会として出来るこというたら、もうあと何出来るんやろう、あと何をさしてもらえることがあるんのやろう。というところまで、さしてもろうとるんでありまするけど。


 これも、こないだから入院さしてもろうて、「どうしたらええやろう」ということを問いつつ思う。そうしてみたときに、例えばね。学生さんが、「もうすぐ中間テストくるねんやろう。期末テストくるねんやろう。勉強せんか。」学校の先生も怒るわ。あと二週間しかないやないか、分かってるやろう。それでもしよれへんな。いらつくな。後十日やろうが。何で勉強せえへんねん。〇点取ったらどないすんねん。
 それは教える方に立ってみたら、いらつきますな。「はあ、分かってるがな」「もうほんとに何してんねんな」ということになる。親も学校の先生もほんまにもう……。私、何を教えてねんな、一生懸命にしてるのに……、ということになる。いらつくやろうな。生徒の方は、また始まったかいうようなもんやな。「また始まったか。うるさいなー、また始まったか。」という。しかし、勉強せなんだら、勉強せなんだ成果が出てくる。勉強したら、勉強しただけの成果が出てくる。どっちにしても出てくる。その時に勉強せなんで赤点取ってどない言いよるか。聞くと「先生がちゃんと教えてくれへんから」と言いよる。
 お前が勉強せえへんかったやないか。ええ加減にさらせと、また腹立てないかん。


 入院中にこれどないなるんじゃろうなと思うた。
 「もうすぐ受験やろ、テストがくるやないか、見てみい、勉強せえへんから、こんな点やないか。どないすんねんな。」と言われた子供は、大概反発してますな。
 「勉強できへんかってんや。しよう思うたかて、出来へんかってんや。」「そうやな、かわいそうにな、そうやそうや、なかなか勉強ってできへんもんや」と言うてもうたら、子供もホッとするねんな。どっちが親切なんかいなと思うな。
 「勉強せんか!」
 「勉強せんでもええ、せんでもええ」言う方が親切なんか、どっちが親切なんかいなと。子供はどっちの方がホッとしよるのかいなと思うたら、
 「なかなか勉強なんか出来へんわな。そうやそうや、無理にせんでもええ」、言うてもうた方が子供はホッとしよるのに決まってある。
 ほんなら、それでええんかというたら、ええことないねんな。またこれな、なんとかせんんならん。
 として見て、勉強で例えて見るならば、〇点取ってる、赤点取ってる。赤点なりに、また、なんとかやっていってるんやな。不思議なものや。ヤイのヤイのと「そんな点取ってどないすんの。勉強せなんだら〇点やないの。赤点やないか」と、いらつく。教えてくる方は特にいらつく。
 「それみたか、いわんことかや、大晦日」そんな川柳があるけど。お正月くるけど、ああもせないかんやないか、こうもせないかんやないか、と言うても、正月は来よるわな。ほんなら、それなりにいけるんやなと。〇点取ってても、赤点取ってても、それなりにいこう思うたら、いけるんや。ということをね。入院中分からしてもろうた。それなりに、いこう思うたらそれなりに生きていけるんやと。


 赤点でも……、極端なこと言えばホームレスさんな。ほんなことしたら、公園へ寝んならんで。ヤイヤイ言わなならん。「そんなことしてたら、公園で寝ないかんことになるんやで」「寝てもかまへんやん」となったら、全然ものの見方コロッと変えてみたら、「別にかまへんや。寝てても。それなりに生きて生きるやんか」言うたらそうやな。それなりに生きて生きていけるや。
 それよりも、「それ見てみい、そんなことしたら、そんなことになるやないか」言われる方がかえってしんどいかも分からんな。
 「そうでっか。また優雅で結構でんな。」と言うてもらう方が、ホッとするかもしれへんな。公園で寝てる人。「見てみい、ちゃんとせえへんから、こないなったやないかと。前から言うてるやろ」と言われるよりな。
 まあ、優雅な生活。「たまにはな、まあ頑張っておくんなはれ。またそのうち、ええ時もきまっせ。」と言うてもらう方が、あの人たちホッとするかわからん。


 としました時に、〇点は〇点なりに生きていけるんやろうなと。それなりに、やっていけるんやろうな。「ホレ見てみい」言われたらイヤやねんなと。言われたくないんやなと。「〇点取ってしもたやないか」、〇点は〇点なりに、ヤイのヤイの言わんでも、それなりに生きていけるんやな、という思いをさしてもろうた時に、教祖様のみ教えを改めて頂かしてもらうと。
 貧乏で困ります。と教祖様の所へ言いに行ってますわな。貧乏するいうことは、ある程度経済観念がキチッと出来ないということ。働きをキッチとできないということ。そいうことですわ。経済観念が分かっていない。物事分かってて、十の収入で十五使うたらそりゃ貧乏やわな。決まってある。十の収入で十とも使うたら、いつもピーピー言わなしゃあないわな。十の収入で七ぐらいにして、三を貯めて行けば、それは何とかやっていけるけれども、あるいは病気なることもあるやろう、不作の年もあるやろう、ほんなら、その年のために、十の内三は貯金していこうと。していったら貧乏いうことはなくなる。貧乏いうたら、十の収入で十二、三の生活してたら……、先は分かってある。
 それでも教祖様の所へ来て、「貧乏で困ります。」「はあ、そやけど、何とか食べてはりまんのやろう。食べてたら、貧乏いうことないがな、お礼を申そうや。」と教祖様は、こう教えておられる。「そうでんな」言うてこの貧乏の人落ち着いておられる。「あんたのやり方があかんからやがな。十の内十使うてもうたら、あんた、貧乏して当たり前やんか」言うたら、この人助からへんわな。
 これ塩飽きよ≠ニいう人なんですけどね。十の内十とも使うてしもうたら、そりゃ貧乏して当たり前でんがなと、教祖様がもし言いはったら、この人助からんわな。「貧乏や言うたかて、食べれないこともなかろうがな。食べれたら金持ちと思いなはれや。」
 「まあ、そうでんな。健康のおかげ頂いてばっかりやな」と。この塩飽きよという人は、これから先もずっと貧乏しまんねんで。これから先も一生貧乏しますんやけれども、食べれなんだかというと、一生食べてはりますねん。ちゃんと。それなりに。としてみた時に、助かり≠チて、一体何かということをしみじみ考えてみる。その人なりの助かり≠ェあるんやなと。その人なりの助かりがあるんやなと。
 としてみて、こちらの御用としては、出来る限りのことをさしてもろうて、後はその人、その人なんじゃなと。という思いをさして頂きました。入院中これは一体どういうことかいなと、問いつつ、考えつつ入院をしてました。有り難うございました。

(平成十一年五月二十八日)

価値観が世間並では助からない

 人には十人十色の物の見考え方がありましてね。「へえーそんな考え方するのか」ということがようあります。それは、その人の生まれ育ってきた時代、地域、家庭環境……と様々。家庭環境の中でも、例えば五人子供いてたら、長男に生まれるのとね、真ん中に生まれるのとね、下に生まれるのとえらい違いじゃ。
 例えば四条畷教会に四人の孫がおりますけど、えらい違うわな。四人ともね……。あれは順番で違うんかな。同じ時代背景、親も一緒やしな、教会も一緒やけど、性格も違うんかいなと。というふうに正に十人十色。皆違う。また違うからいいんでありますけども。その人その人によって皆違う。ちょっと難しいこと言うと、価値観。その人の価値観、物を見る目、見方の根本になっていくものが価値観。
 商売人さんの家庭に育った人は、儲かるか損するか、ピッピッと損得が価値観の原点になるといいますかな。ピッピッと、何を見るにしても「それは損やで、徳やで」。というものでパッと物事を見る。人と人と接してても、「やがて何かの時に商売に出来るで」というようなものやな。そいう様な価値観でスーと入ってきますな。ほんとの大阪の商売人さんを見ててね。全然商売とは関わりなしに人と合うでしょう。初めての人と会うのを見て、「入っていくのうまいな」と思う。
 「はあ、そうですか。私もゴルフするんですわ……」と。何か共通の話題を見つけ出していくのうまいですな。それで、今日初めて会うたのに、旧知の仲みたいに、シューと入っていきますな。おもしろいもんやなと。何ぞの時には、シューと商売の話しが出来るようにね。初めて会うた人にあそこまでね、何十年来お付き合いしてるようなね、一時間も話している内に、そこまで関係を付けていくかいな。と感心させられたことがありますけども。


 それぞれに育った環境やらがありますね。そいうふうに人は環境やらで、価値観を持ってますね。それが悪いとか、いいとかいうんじゃない。それぞれ持ってます。
 その価値観が、助かる価値観になるかどうか、信心でね。助かって行く価値観、物事を見る見方の元になる、物事を判断する元になる、物の見方考え方の根本になる。それによってね、その人が違うてくるんやけれども、助かるか、助からんか。信心というものは常に、そこへ目がいく。助かっていかないかということを、すなわち神様につながっていくか、いかんかと言う価値観、ものの見方があるんですね。
 よく言う例なんですが。教会でお茶を一服頂く。そのことにおいてもね、三人様、四人様のお茶の頂き方がありますね。やっぱりその人育った環境やら物の見方があります。
 一人は頂いても何とも思わない人。それから、お茶を頂いて「おいしいお茶ですな」。それからね、教会の外へ出てからね。「ちょっと、この頃教会贅沢してる。おいしいお茶飲んではりまんがんな。」と言うて回る人ね。何とも無い人。言うて回る人……。
 同じお茶を頂いても、「有り難いことやな。今度は、私がお茶を持ってこさしてもらおう」と思える人。というふうに、同じ一服のお茶を頂いてもろうても、十人十色の頂き方をしますな。「有り難いことやな。もったいないことやな。」と思える人。今度は私が、お茶をお供えさして頂こうと思える人。「ちょっと、この頃教会こんなお茶出してます」。今度は、おいしいお茶だけではなしに、まずいお茶やったら、「こんな粗末なお茶出しはって」と言うて回る人な。ほんと十人十色。同じ事柄で見てもそうです。


 おもしろいですよ、私が、入院さしてもろうても、十人十色の取り方がありますやろうな。「ちょっと、先生ひっくり返りましたで」そこまで皆一緒やねん。それから十人十色の見方がありますな。ある人は連絡が入って、丁度食事中だと聞いてますが、お箸を置いてね、玄関を飛び出したという人もいてる。「先生とこ行かないかん。」どこの病院か分からんとな。そこまで思うてくれる人もある。「ちょっと聞いた……」。同じ事柄でも、十人十色の見方。お茶碗とお箸ほったらかして、飛び出して「先生とこ行かないかん」と言う人もいてるそうな。後で報告を受けた。「はあ、そいう人もいてる」。そいう中で面白いのがあった。
 教会の先生方も有り難いことに、何十人と次々とお見舞下された。病院へ尋ねて来てくだされたり、教会止まりにしてくだされた方と、大変に有り難く思う。そいう中で色々な噂があり、その噂が耳に入ってくるから、また面白い。
 ある先生なんかは、「この頃、扇町、次々本出しとんねん。儲け主義になっとるからな。あれは、ああなんねん」。「はあ、そうかそいう見方もあるねんな」と。また、ある先生は、「扇町な、そんな本、一生懸命に出して、あれは、私も経験あるけどな、大変やろ。本一冊作るの。今度第四集まで作る。誰も買えへんしな。ほんとに経費倒れになるばっかりで。本一冊作る言うたらどれだけしんどいか。はあ、そこまでして出すか。なんでそこまで身を削ってまでせんならんねん。ちょっと身を削るの止め。」と言うてきはる先生もいてる。これは経験した先生やな。「本を作るの、本を一冊作るの経費倒れになるか、みんな買いよれへん、読みよれへん。知ってるねん。もうやめとき、経費倒れで、神経遣い倒して、止めとき、止めときっと。自分中心になり。そこまで苦労せんでもええ」と、わざわざ言うに来てくれる人もいてるし、「儲けよう思てまんねん。そやから第四集まで作ってな、ひっくり返りよるの。アホやがな。」言う人もある。まあ、十人十色やなと思う。
 そこで、神様に通じて、物事がほんとに分かって人が助かっていく物の見方をさしてもらう。また先生方でもそうです。まして信者さんな、どんなんかなというこっちゃな。
 私が良く言いますが、価値観、物の見方、世間の方が現実やし、神様は声も無し、形も見えず、み教えを聞け言うたかて、なかなか聞く機会もない。価値観が世間並になってしまう。世間並になってしもうたら、世間並の考え方、助からん考え方になってしまう。神様に通じる物の見方、考え方をしていく。世間並は、世間並。一つも助からんですな。助かるおかげを、助かる物の見方をしてもらいたいと思います。有り難うございました。

(平成十一年五月二十九日)