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道に基づいた親の愛でなかったら……

 信心する人は、めぐりを取り払ってもらっているのであるが、信心しないで、うかうかと暮らす人は、めぐりを積んでいるのである。(『天地は語る』八五)

 どのような大きなめぐりがあっても、信心によって取り払ってもらえる。先祖からのめぐり、祟りは、神が道のつくようにしてくださる。(『天地は語る』八六)

 今日は御理解のところが「めぐり」ということでの御理解でありますけれども。
 人間生きていく中で色々なことに出会うたり、自分の努力外でね、難儀をすることがありますな。勉強せなんで、ほんで試験に落ちた。「当たり前や、お前が悪い」決まってある。「前々から言うてるでしょう!」言うて怒られたもんや。誰も悪いことはない、自分が悪いねん。勉強せえへんかった自分が悪い。というふうに、その自分の責任でこうなってくるということ。
 これも実は分からん人が多いですよ。みんな人のせいにするのね。「こんなに勉強出来へんのはな、あの先生が悪いからやねん。」勉強出来へん子ほど、先生のせいにしますな。おもしろいね。親もアンポンタンやからね、「先生、うちの子は、ええねん。」また、輪かいてこの頃の親そない言いよる。「お前はええ子や。あの先生が悪いねん。」言うてね。子供もますます「先生が悪いねん。」とこうなってしまう。出来へん子ほど、参考書ようけ親買うてますな。英語が出来へん言うたら、何十万円もする、英語のテープを聞くやつ買うて…、しよれへん、しよれへん。


 それは悲しいことがあるんですな。自分の子供が勉強しよれへん、それを親は認めたくない。「うちの子はええ子やねん」と思いたい。これは親の悲しさですかな。
 ここに一つね、大切なことで大事なことなんだけど、めぐりの一つがあるような気がする。「認めたくない。うちの子はええ子やねん。」大事なことですな。そうやないと、だれも……最後の最後まで、親がかぼうていかんと、世の中のみんなが、お前とこの子供はな……、親である者は、皆が向こう向いても、我が親だけは子供をかぼうていく。またこうであるからこそ大事なことなんですな。
 それが今度は「業(ごう)」になってくることがありますな。ここが難しいところやな。かばう余り、思う余りに、「うちの子は、ええ子やねん。皆が悪いねん」言うてな、それが「業」になっていくところがある。ここらにめぐりの一つ大きな要素がありそうな気がする。そう、かばわないかんねん。世の中の人全部が悪いというても、親だけは「いいや…」と、これは、親心で素晴らしいことなんでありまするけど、ところが親の業になって、子供に引き継がれるというようなことがある。


 もっと簡単に言えば、「えらい過保護にしたな」ということが、そういうことでしょうな。世間で言うたら、「あそこの親は過保護やで」、端から見てるとよう分かる。「あんな育て方したら、あかんで」と思う。
 本人の親は一生懸命育てる「うちの子は…、うちの子は…」言うて育ててるんやな。その結果は過保護になってしもうて、こんだけ一生懸命育てたのにと、親思いますわな。「一生懸命に育てたのに、なんで…」ということなってしまう。時には子供にバットで殴られないかん。ということも起こってくる。非常に悲しいこと。一生懸命した結果がそいうことになってくる。
 端から見てたら分かる。「あれは過保護やで…、」と見えるんやな。端から見たら「あんな育て方したらあかんわ」ということになるんやけど、ご本人は一生懸命やから見えない。しかし、それも大事なことなんですよ。「世の中の人が皆、あかん言うても、私だけは…と、親だけは…」という親の愛。大したことや。
 ところが親の愛が、道に基づいた親の愛でなかったら、そいう愛からくる「業」になる。はあ、悲しいなと。なんぼでも世間に転がっている話。
 そうして見た時に、親の愛の注ぎ方、愛のあり方、それを日々の信心で勉強さしてもろうていかんとね。注ぎさえすればええというものじゃない。


 そうしてみると、神の氏子である、自分も神様の氏子、子供も神様の氏子、そこに必ず一人一人が神様の魂を頂いておる。「どうぞその魂が、よい響きになってくるよう、活動して頂けるよう神様にお願いをし、み教えを頂いて、お役に立てる魂にならしてもらえるように、人のことが思えるように、人のことが思える魂にならしてもらえるように、人のことが願える魂にならしてもらえるように、お礼を申していく生き方ができさしてもらえるように、自分も我が子もそいう生き方をさして頂きますように」。
 そして、少々のことはではくじけない。「まいっ」た言わない。少々のことではくじけない。そして人のせいにしない。自分で受け止めていける生き方をさして頂きますようと、信心して愛を注がんと、愛だけでいったら、「うちの子は正しいねん……。」「うちの子は正しいねん、ちゃんとしてますねん。」「めぐり」いうたら、そいう「めぐり」もありますな。


 まあ、私らでも勉強せなんだ方でしたけども、幸いにして、ああ、成績悪かった。学校の先生のせいには絶対にせなんだ。「僕が、勉強せなんだために……」、学校の先生のせいにはせなんだ。知らず知らずのうちに、教えてもろうてたんですかな。みんな僕が悪いです。言うて、誰が悪いものでもない。みんな宿題せなんだからこうなったんですと。いうことで人のせいには、しませんでしたがな。そいうふうに「めぐり」というても一生懸命にみんなしてるんやけれども、その道筋が分からん。愛なら愛の注ぎ方が分からん、そこに難儀を及ぼしてくる。これがずーっと続いてきたらな、そういう質になってしもうてきたらな、「めぐり」になってきますな。
 そやから「信心なければ世界が闇なり」とおっしゃるのは、そいうことじゃないかと思います。有り難うございました。

(平成十一年四月七日)


すべてのことに対して、何なりと願う

 天地の間に住む人間は神の氏子である。身の上に痛みや病気があっては、家業ができがたい。身の上安全を願い、家業出精、五穀成就、牛馬にいたるまで、身の上のこと何事でも、実意をもって願え。(『天地は語る』一七二)

 「何なりとも願え」とこのように教えて頂いております。みんな自分の手元のところ、何なりと願わさしてもらういうことなんですけども、それだけでええんか。そんな程度だけでええんか、ということを思わさしてもらう。
 昨晩も、大変に大きな雷があっちこっちで、落ちたり鳴ったり、風雨が強くなったり、大荒れをいたしました。日本国中、大荒れですね。私は日々にお願いしておる中の一つに、天災のこともお願いさしてもろうとる。『台風、地震、洪水、干ばつなど、そういう大災害が起こることがございますと。人間の力では、どうしょうもないものがあります。大きなものは、どうぞ小さく分けて、起こして頂きますように。』地震ということも、津波いうことも、竜巻いうことも、冷害いうことも、干ばついうことも、みな天地のお働きの一つで、人間の力の及ばざるところなの。
 人間中心にしてると、「なんでそんなこと起こるねん」ということになりましょうけれども、その天地の中に生かしてもろうとるんでありますんでね。どういうお働きが起こってくるかわからん。それが人間にとって不都合になったり、家を奪われたり、命を奪われたりということが多々ある。あっちこっちでね。それをニュースで見ておりまして、自分と関わりなかったら、「へー、地震があったんか。へー、台風があったんか。竜巻があったんか」と。ニュースで「へー」と言うだけのことなんですが、それが我が身にふりかかってきたらどうでしょう。「こんな不幸はない」と嘆かないかんいうことになりますな。
 そうしました時に、「日々に、どうぞ大きな災害、天災は小さく分けて頂きますように。数多くても結構ですから、もう小さくお分け頂いて、ご都合蒙らして頂きますように」ということですな。大難は小難、小難は無難にお祭り替えと。これは我が身に掛かることだけではないんですな。我が身に掛かる大難は小難、小難は無難ということだけではなしに、天地のそういう大きなお働きに対しても、日々にお願いをさしてもろらう。「何なりとも願え」とおっしゃる。一生懸命にお願いをさしてもろうて、人様のことも願うていくと、そういう神様への我が心に向かい方、自分のことだけではない、大難は小難という程度のことではなしに、どうぞと……願うことが信心と思います。


 三代金光様が十四才から八十四才までの七十年間、御本部お広前でお取次御神勤くださいました。御大祭の時には、大勢の人がお参りをするんですが、常平生はそういうことはございません。またお若い時などは、今のように交通の便が良くない。ですからお参りの方も非常に少なかったと思う。
 そいう中で、めったに金光町では、飛行機が飛ばないんですが、たまに飛行機が飛ぶようなことがある。すると、爆音が聞こえると、直ぐさまその場で御祈念をなさる。
 「どうぞ無事に、飛行機が着かして頂きますように、お願いを申し上げます」と言うて、その場で即、お願いをなさる。あるいは、お参りしておる中で、小さい子供さんがぐずる。泣いたりわめいたりする。そうすると、
 「どうぞ、子供の機嫌が直りまして、親も子も助からして頂きまするように」と、直ぐさまその場で、御祈念なされたということであります。


 みな、それぞれに自分の大難は小難、小難は無難のお願いはしますけれども、その自分を含めることなんですけれども、すべてのことに対して、何なりと願うていかしてもらう、神様への向かい方が、大事なことじゃないかなあと。そうすると、自分に降りかかってくる大難は小難に、小難は無難に、お祭り替えも、またお徳として頂かしてくださるものであります。有り難うございました。

(平成十一年四月十一日)

お願いしてても、神様を信用してない

 拝めとも何をせよとも言わない。ただ一つ真の信心をせよと言うのに、その一つができないのか。(『天地は語る』一一七)

 今のみ教えのように、「『信心をしなさい』言うたら、柏手を打って拝みだします。拝めとは言いません。『信心せよ』と言うのです。」と、このように仰せられております。ここは微妙なとこですな。
 御拝礼する。柏手を四つ打つということはね、「今から神様に向かわして頂きます」という一つの儀式かな。それで神様を拝むんですけども、もう一方通行ばっかりでね。「あれしてくれ、これしてくれ」と。これが一番端緒に出るのが、お正月のお参りですな。各お宮さん、お寺さんへ、初詣にお参りなさって、皆それぞれにお願いする。あれ、神様忙しいやろうと思うわ。大勢の人が、あっちもこっちも、ぶっつけ放題ばっかり言うて、ほんで「さいならー」言うてね……ホンマに神様お忙しいことやなと思うんですけどもね。
 やはり信心言うのは、一方通行じゃなしにね。こちらが願う、大いに願わしてもろうたらええんやけど、神様の思いも聞かして頂く≠ニいうことが大事なの。聞かしてもらういうたら、どういうことなんじゃ、ということになるんですけども。


 先ず、お願いしたからにはね。安心さしてもらわないかん。第一にね。安心してもらわんと、神様の思いが入ってこん。心配ばっかり、先にあって、自分の心、心配で満タンや。満タンやから、一つも神様が入ってけえへん。お願いしたからには、神様に責任持ってもらうんや、というぐらいに、神様を信用せないかん。神様を拝んで、「お願いします」言うてるのに、神様を信用してないねん。そやからまた、心配してはるんやな。
 これは、人間と人間とでもそうじゃ。「これ頼みまっせ」「はい、任しときなはれ」言うたら、それもう任すんやからな。そんなら神様に「これお願いしまっせ」とお願いしたら、こちらの方が心配ちょっとこっちへ置いて、ちょっとでも心を広くさしてもろうて、神様の思し召しを頂こうとか、神様に喜んで頂こうとか、そっちの方へ心を配ったらええのやけど、こっちへ心配らんと、心もっていかんと、お願いしてるのに、まだ百パーセント自分で心配してますねんな。そやからお願いしてても、一つも神様を信用してない。一つも信用してへんの。
 それで自分で心配して、自分でなんとかなる……、ならんから神様拝んでるのね。ならんからね。非常にそういう面ではね、矛盾してるのね。もうほんなら、自分で心配して自分でするんやったら、神様頼まんといたらええねん。自分でやったらええねん。自分で出来へんから、神様お願いします言うてるのね。ほんなら、本当にお願いしてるんか言うたら、一つもお願いしてないと言うことが多いですな。


 今日も、大きな大きなお働きを頂いて、命を頂いているんですわ。別の言い方すれば、生きてるから心配もあるねん。命を頂いているから心配もあるんですよ。暑い寒いもあるんですよ。そのことへフッと目が覚めた時に、「はあ、神様、今日も命くださっているんやな」と思わさしてもろうた時に、先ず、それへのお礼をさしてもろうていくいうことが、大事なこと。
 誰でも心配するんやけど、自分の心、心配で満タンになっているのを、ちょっと外さないかん。それでね、心配無いとき何が入ってるかいうたら、「気まましょうかいな」が入ってあるねん。心の中にな。一つも神様入らへんねん。
 調子よういってる時、どうか言うたら……、心配は入ってへんが、空っぽかいうたらそうじゃない。我情我欲が入っておる。ほんなら心配が増えてきたら、我情我欲はどっかいくけど、今度は心配で満タンになってある。
 どっちにしても、人間は気ままなもんでね、ほんとに得手勝手なもんじゃなと、思わさしてもらう。ちょっとでも神様が入るように、さしてもらう。
 それが今のね、「『信心せよ』言うと、柏手を打って拝みます。拝めとは言いません。『信心せよ』と。信心さしてもらう≠「うたら、我が心に神様が入ってくるいうことであろうかと思います。有り難うございました。

(平成十一年四月十三日)