善意だけでは、人は助からない
アメリカの童話のある一つに、白人の老夫婦が黒人の子供をかわいそうに思うて、なんとかこの子が白い肌になるようにということで、一生懸命、その子に石鹸をかけて、こすりたおしてる、という話があります。その話を聞いて、白人の老夫婦もええ人やなと思わさしてもらう。ええ人やな。優しい人やなと思う。
ところが、こすりたおされてる、この黒人の子供はたまらんわな。痛いわ。ほんとに往生せんならん。相手が善意だけに、余計にな。相手の気持ちがな。「この人はええ人や。自分のためにやってくれてはる」と分かれば、分かるほどに、この黒人の子供はしんどいと思う。皮剥けるまで辛抱せな……。その一つの話を聞いても色々にとれる。
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例えば、親が子供を育てるにおいても、馬鹿な子になってくれとは、誰も思うてへん。良い子になってくれるように、役に立つ人間になってくれるように、すばらしい人間になるようにと、一生懸命に教育をする。子供もそれは分かる。分かるだけに、うまいこといかなんだら、親の気持ちが善意の気持ちがよく分かるだけに、しんどい目をせんならん。往生せんならんと。いうことですな。親子でもそう。親子でのうても、みんな、ほんどの九九パーセントは、皆良い人だと思う。それで、関わりのある人に、よかれと思うて一生懸命にする。また、祈りもするな。「どうぞ、うちの子良い子になりますように」と祈りもする。願いもする。それだけでは、白人のおばあさん、おじいさんと同じことなの。
皮めくれるまで擦る。擦られる方も、おじいさん、おばあさんがええ人だと分かるから、皮めくられるまで擦られてないかん。これ、善意からくる難儀と言うねん。善意からくる難儀。どこがいかんのやろうということになってくると、白人のおじいさん、おばあさんが、物事の道理がわからんと、善意だけを出してるからやねんな。物事の道理を分からしてもらわないかん。
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そやから、「一生懸命祈ってます。子供のこと祈ってます」と。また、「あの人が幸せになるように祈ってます。何とかしてあげないかんと思います」と、ようやってますけども。殺してるのやら、助けてるのやら、わからへん。たいがい殺してますな。
ほんで、「こんだけ一生懸命してやったのに……」と。しまいにこうなるのね。黒人の子供に、「こんだけ擦ってやったのに……」もし、黒人の子供が逃げ出したとするや。もう痛うてたまらんと。このままやったら、殺されてしまうと。いうことで、おじいさん、おばあさんから飛び出したら、「あの子は恩知らずや。こんだけ一生懸命やってやったのに、わからん子やな。わからん人間やなー」とこうなってしまうわな。わからんのどっちやわからへん。おじいさん、おばあさんの方がわからんかわからん。
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一生懸命その人の幸せにために祈らして頂くと同時に、こちらが、教えを聞かしてもろうて、道理の分かる、物事の分かる人間にならしてもらわんと、あかんのですね。思いとか、願いだけでは、あかんのですわ。殺してるやら、生かしてるやらわからん。ほんで次には、「こんだけ一生懸命やってやったのに……」と。言う難儀なことになってしまうんですな。
思うてもろうてるが故に、余計に難儀なこと。全然思うてもらってなかったら難儀にならない。思うてもろてるからこそ難儀になる、ということになります。
信心は祈るだけではなしに、常にお話を聞かしてもろうて、自分を大きゅうしていかんと、物事の道理が分かる人間にならしてもうていかんと、善意だけでは、人は助からんことになってきます。有り難うございました。
(平成十一年七月三十一日)
「もしあの時……」が、良いようになるためには
信心しながらも、次々に不幸せが重なると、「何かのしわざではないでしょうか。何かの罰ではないでしょうか」と言って参る者があるが、どうして、神がかわいい子に罰をお当てなさろうか。心得が違っている、気をつけよ、とお気づけがあるのであるから、今までとは心を改めて信心をすれば、不幸せがおかげになってくる。(『天地は語る』二五〇)
今、頂きましたみ教え、生きていく上にはいろいろな難儀が次々と起こったり、「何で……」ということが起こったりということがあります。また、「もしあの時……」ということがね。「もしあの時……。ああ、ならへんかったら」ということもあります。それが「もしあの時……」が、良い「もしあの時」にならないかん。
「もしあの時、あの人と出会わなんだら、こんな目には遭わなかったのに……。」とかな。あの電車に乗らなんだら……とか、あの飛行機に乗らなんだら……とか、もしあの時……、というようなことがある。それが生きていく上で大切なといいますか、人生を支配するようなものなの。「もしあの時……」大変なことなんですよ。
よく結婚の縁なんてね、「電車の中で足踏まれたのが縁で……」と。もしあの時、足踏まれなんだら、こんな人と一緒なってへんかったのに……。それはええにつけ、あしきにつけ、もしあの時……、というようなことがある。こんなことには、出会わなんだのに……。というようなことがある。
そういうふうに生きていく上で、大きな人生を支配することが、「もしあの時……」というようなこと、あないならなんだら、こないならなんだら、というふうなことがあります。
その中に二つの問題があります。もしあの時という中に、良い「もしあの時」にならしてもらう。それは日々信心の稽古がいります。信心力を頂いてんとあきませんなあ。信心の基本の「参る、聞く、祈る、奉仕」ということ。もしあの時が、良い「もしあの時」にならしてもらうように。生きるっていろんなことことの出会いです。毎日毎日いろんなことに出会うていくんですから、それは自分自身の病気とも出会うこともありますし、いろいろなことに出会い、社会の動きに出会うていく、人と出会うていくという様々な出会いがあります。
もしあの時が良い、もしあの時にならしてもらうには、「参る、聞く、祈る、奉仕」を日々しっかりとさしてもろて信心力を得てお徳を頂いていくということが、もしあの時が、良い「もしあの時」にならしてもらう。よしんば、悪い「もしあの時」でも「はあ、よかった。一台電車遅らしてよかった。」いうことがある。それがね、「参る、聞く、祈る、奉仕」という信心力を頂かんとあきません。
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それと同時にそれだけじゃなく、「何でー」というエライ問題が起こってくることがある。しんどいなーと。逃げるに逃げられない。この時にね、気を付けなあかんなはね、うろたえが先に出てしもてね。うろたえが先に出てしもて、神様を信心してる人でも神様を手放します。
エライこっちゃ、エライこっちゃはエライこっちゃいうて、信心してる人でも神様を手放す人が多い。ウワーとなってしもて、拝んでるのやけれども、お願いしててもお願いにならん。エライこっちゃは言うてるんですよ。神様に繋がってないねんな。お願いも何にも。うわーとなりよる。この時につながる方法がある。
腹据えてつながる方法がある。先ずその一つに「祈る」ということがあります。本気に祈る。祈って祈って祈る。ところが祈りで気をつけいかんところがある。祈らしてもらうことは大事ですけど、祈りはへたすると、夜中にね、ロウソク頭に立ててなあ。木へな、カーン、カーンやってな。丑の刻参りや。あれも祈りやからね。神様に通じるには、祈るという一つの要素があるんけどもね。神様に祈りを間違うと、とんでもないことになる。カーンカーンと、あの人祈りは強いけど怖いで。しかしこれもね、神様にグッと集中してスイッチオンになるひとつの大きな要素なんですね。祈るということ。そうやけども祈り間違うたら、みなさん迷惑するけどもね、祈るということは神さまにスイッチオンになっていく、大切なことなんですね。その次にまたスイッチオンになる、基本の要素がある。
それはね、「改まる」です。「信心は日々の改まりが第一だ」とおっしゃるでしょう。はあ、これは、神様は私に「何をおっしゃっておるんでしょうなあ。神様は何を教えて下さっておられるんかなぁ」という改まり。ズバッともっと改まらしてもらう。これがね、神様にスイッチオンなんです。ここで改まらしてもらおうと。
それからもう一つある、スイッチオン。「真に有り難しと思う心すぐにみかげの始めなり。」もうアカン言うてる中に、有り難うございますと、腹からお礼申した時にスイッチオンになる。「もうだめやあ」と言うてる時に有り難うございますと。お礼申した時に、神様にスイッチオンになり、ビッとつながる。「もうアカンというところに、お蔭を蒙らして頂きました」というおかげ話を聞きます。よう聞かしてもらいますけど、この三つですなあ。
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もう祈り抜きましたというのね。次に、改まらして頂きましたと、改まりの信心をさして頂きました、その中でも有り難うございましたと思いました。という、これがね、非常事態を乗り切らしてもらう、神様にスイッチオンになることですね。うろたえるからは何も生まれてきません。この三つの信心したらどんなことでもおかげを蒙っていきます。
しかし、それだけではいかない。先程言うように今度は、常に平生いろんな出会いが起こってくる。その出合いが良い出会いになるように、常平生の「参る、聞く、祈る、奉仕。」これですなあ。この「参る、聞く、祈る、奉仕。」これらを常日ごろさしてもうとりますと、いろいろな日々の出会いの中で、「もしあの時……」が良い「もしあの時」にならして頂いていくということでありますなあ。信心するものが神様へしっかりとつながっておりませんと、さてという時に間に合わない信心になってしまいますな。
人間いうのは賢いようでも、ジャジャ漏りでありますんでね。よかれと思ってやってもね、よかれとならんことになったり、賢いようでも、あの時あんなことにならなんだらということになる。人間って弱いもんであるということを、自覚さしてもらうことがいるもんじゃと思います。有り難うございました。
(平成十一年八月十日)
無限大のお働きがあるのに……
扇町教会で昨日も、教祖様のことを勉強さしていただこうと、「金光大神勉強会」をさしてもろたんでありますけど。また教祖様自体のところにはなかなか入らないんですけれども……。
だいたい教祖様の生きられた時代背景は「士農工商」という身分制度があった時代。それから、宗教も仏教が、徳川幕府に非常に保護されて「寺請け制度」というて、全部の国民は、お寺の檀家に全部組み込まれてしまったというところから、仏教が儀式宗教になってしもうた。人を助ける、あるいは導く、教えをするというようなことが、ほとんどなくなってしもうたということ。
次に、迷信がはびこってしまって、「暦がでうじゃ。大安がどうじゃ。日柄がどうじゃ、方角がどうじゃとか……」人々は不安なもんだから、そういうことに心を向けていって、心の拠り所を向けていく。そうすると、それを調べるご祈祷師や山伏やらがはびこってくると。そういう意味では非常に暗雲の中に、希望の光のない、そして世の中は、時代が変わろうとしておる。徳川幕府の矛盾が出てきてひっくり返ろうとする。外国からは、今まで三百年近くお付き合いしてない国が、うわーと入ってくるという、非常に混とんとした世の中。そういう中に教祖様が一人のお百姓として生きられて、そして神様に出会うていかれてご用くだされた。真実を伝えて下された。
いつも思うんですけども、あの大谷の片田舎の、そして小さな村の、そして小さなお百姓のおお方が、どうしてああいうふうな普遍的なというか、天地の道理を解くことができたのであろうか。とてもとても大変なことで、そんな状況であるにも関わらず、あの時代と今の時代とでは全面的に違う。そういう時代が変わっても、変わらざる天地の道理を説いて下された。そして人が助かっていく道筋を、神様とつながっていく道筋を、お伝えくだされた。どうしてお百姓さんにそれが出来るんだろうか。という思いをいつもさして頂く。
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そうした時に、教祖様の神様へ向かい方が、普通の人と違うておったということだけは、確かである。普通の人は「自分の都合が良くなるように」ということで、神様に向こうた。教祖様は神様に向かわれたのは、「どうぞ神様の思し召しにかないまするように」ということで向かわれた。その違いやな根本は……。
普通は、「自分が都合のよい生活になりますように」ということで神様にお願いする。教祖様はそうではなく、「神様の思し召しにかないますように、神様がお喜びなりますように」という信心のされ方をされた。ここが根本的に違うところやな。そうすると神様は無条件で働き出すのね。こちらの都合よう神様に動いてもらおう思ったら……。
例えば幼稚園の子でしたら、「アメ玉頂きますように」とお願いするわな。神様もっと大きなものをやろうと思っても、幼稚園の子は、あるいは二つ三つの子は、アメ玉でええねんな。「神様アメ玉ください」とお願いする。そうすると、神様アメ玉くれはる。それでええんか言うて、アメ玉くれはる。「はい、もうそれでええです」言うて。幼稚園の子だったそれでええはな。その程度やわな。
次、大学入試やったら、「どうぞ大学入試を……」「それだけでええんか」言うて、そうしたら大学入試だけ……。
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すなわち自分の受けものな。これだけ欲しいですと、このことが欲しいですというお願いで神様に向こうたら、そのことだけや。「バケツ一杯の水で十分です」。そうしたら。バケツ一杯の水や。「お茶碗一杯です」言うたら、お茶碗一杯だけや。
だから人間側に神様を向けたら、願いが上手いこといきますようにという信心をしてたら、自分の願いだけのこっちゃ、小さなもんじゃ。
教祖様は逆に、「神様の願いに生きられますように、神様の願いをわからしてもらいますように」というところ、神様に向かうと無限大や。そうやから、土を掘るただ単なるお百姓さんでも、あんな大きなことになってくるのね。神様の方へ向こうたから、自分の方へ神様を向けたんではなしに、神様の方へこっちが向いたから、無限大になってくる。それはすごいもんですよ。そうすると神様はいろいろと教えてくださる。
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あの当時、教育も何も受けてない、何の事も分からない一人のお百姓さんが、あれほど、天地の道理を説かれ、あれほどの人を助けられ、あれほどの人を導かれ、あれほど大きなことができられていく、すごいことやなあ。
それは何遍もいいますが、神様を自分の方に向けたのではなしに、神様の方へ自分が向きはったと。この違いな。そうすると、自分がお蔭頂くのは当たり前のこっちゃ。ガアガア言わんでも。決まってある。そこに基本的に神様にお使い頂く人間になるか、神様を使おうとする人間になるか、神様にお使い頂いたら、いくらでも大きくお使いくださるし、神様を自分のところにもってくると、自分の都合だけで神様を小さなものにしてしまう。いうことになろうかと思いますね。そこを「あいよかけよ」と、おっしゃるのであります。有り難うございました。
(平成十一年八月十二日)
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