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信心している錯覚に陥る

 人間にはその当事者であると見えないことがよくあるの。その渦中にいてると。『灯台もと暗し』ということもありますけども、その渦中にある、その当事者には「ええっ」ということがよくあります。それが見えない。また将棋指してる時にね、横から見てる方がよく見えたりするように、当事者にとっては案外見えない。そんな当たり前のことが、常識のことが、というその常識が見えんことがたーんとあります。
 信心も同じことで信心しているつもりで全然信心してなかったりしてね。いうことがあるものなんですね。


 ある高校生の子が運動クラブに入って、一生懸命に運動クラブをしてる。充実した高校生活を送っておった。もう友達も出来て、自分もキャプテンにもなって、ほんまに学校行くのが楽しい。毎日、毎日元気な心で学校へ通うて、一生懸命にクラブ活動をして、友達も出来る。「こんな楽しい所はない。またこんなに生き生きするところはない」こう思うっておったんですけれども、ところが、学校には『試験』ちゅうものがあってね。
 日頃クラブ活動に熱中してるものですから、帰ってきて勉強がなかなか出来ない。また、友達と話しする方が面白い。友達との話しでは、バイトの話しが出る。勉強よりもバイトが面白い、生き生きする。生き生きすることが人生であると。この子は思うてしもうた。勉強は生き生きせんのよ。クラブをやってバイトをすることが、生き生きする。生き生きすることが人生。素晴らしいことである。ほんまにその通りなんですけどね。
 ところが、試験がきたり、親からも学校の先生からも「勉強せい。お前落第するぞ」と言われる。それがどうも、ふに落ちん。自分がこんだけ生き生きしているのに、「何で嫌なことを勧められるのか」ということで、お結界にやってきた。
 「それやったら、学校辞めたらええねん」言うて。
 「ほんで、あなたの好きなスポーツ、社会人のスポーツがるあるから、そっちへ行ったらええねん。ほんで、バイトも、今度はバイトじゃなしに本職になったらええねん。すぐ学校辞めたらええねん。」
 「えっ」と、キョとんとしてる。
 「あんた、それで生き生きするんやったら、そのスポーツの方へ進ましてもらうか。あるいはそのバイトがそんなに楽しかったら、もうそれを本職にしたらええねん。あんた落第してでも、クラブやるんか、どないするねん」と。「そんな好きなクラブやったら、落第してでもやるんやな。どうやろう。」いうことを言った。
 「えっ……」
 「あんたは、高校生という勉強をするところが基盤となって、それが基礎になってその上に、クラブもバイトもあるねん。その基礎が無かったら、高校生とは言わんねん。そやから、もう高校生とは違うねん。あさっりそれを認めて、高校辞めたらええねん。」言うて。
 「それで好きなクラブの所へ、専門の所があるから、そこへ行って仕事も、バイト程度ではなしに、本職として仕事したらええねん。あんた、もう高校生辞めてるねん、同じことやな」言うて、
 「高校は、英語や数学や、色々な勉強をする。それが基礎になって、そしてその上に、色々なクラブがある。また余暇があったら、バイトがある。バイトが先にあったり、クラブが先にあるんと違う。英語や数学が基礎にあるねん。それが嫌やったら、学校辞めたらええねん」言うことを言うてやりました。
 「その証拠に、あんた落第してでも、次、クラブするか」言うて、
 「いや、せえへん」
 「大好きなクラブやろうがな」
 「せえへん」
 「そんなら、高校生活が基盤にあってクラブがあるんやな。」
 「そうです」
 「高校って何するところやねん」
 「英語や数学、先に身に付けるところやねん。」
 「しかし、生き生きする…」
 「そうやな、そんなら高校辞めたらええねん」
 「生き生き≠セけでは、あかんねんねん。何に生き生きか、どう生き生きかが大事やねんで。」とその子に言うてやりましたら、改めて、
 「ふーん、一番基本忘れてたー」言うて、
 「そうやな。何を基本にするかということ、高校生活は勉強を基本にするねん。それ嫌やったら高校辞めたらええねん。あんたの自由や。」ということで、
 「はあ、勉強せなあかんわ」言うて、改めて勉強に心向けましたけどもね。


 信心でも同じこと。教会でもそう。信心いうたら、生き生きするために信心をする。その通り。「神様に向かって、教えを身に付けて生き生きしていく」。教会にも色々な活動があってね、信徒会の活動やら、ブラスバンドやら、ポンポンやらあるいは、コーラスやら……、それはクラブなの。ところがそれをしてたら、教会来てて、教会でするものやから、信心してるような錯覚に陥るのね。信心でも何でもない。それはクラブなんですわ。そこらの錯覚に陥っている人がたくさんありますね。それはクラブしてることであって、信心してるんではないんです。教会へいってる。高校生が学校へ行ってる。そうクラブをしにな。それは信心でもなんでもない。いうことをしっかり分からしてもろうて、それはクラブである。生き生きするのは、教えを頂いて、神様に向こうて、教えを練って、それを身に付けさしてもろうて、そしてクラブをさしてもらう。そうしたらお役にも立たせてもらういうことになります。その基本の当たり前のところが、皆抜けてしまうことが多いなと思います。有り難うございました。

(平成十一年三月八日)

コンピューターで『喜怒哀楽』は現せない

 コンピューターの発達が著しいものがあって、それはそれは、大変な発展、発達で、もう日進月歩ではなく、刻々の進歩というように思わさしてもらうんですが。
 その専門家たちが集まって、どこまでこのコンピューターが進むか、ということを話し合われたそうですね。そして人間の頭脳。頭、脳ですね。これはどうであろうかと。コンピューターのプロと医学の専門家と脳について色々と、「何億細胞がこうあって…、ああ、あって…」と言う話しと。それから、コンピューターの話しも出ておる。
 人間の脳をコンピューターで同じような働きを造れるのは、どれくらい先のことであろうかなと言う話しになった時に、「さあ、造れるやろうか…」とコンピューターのプロが言う。「造れるだろうか…」と。「もし、造れたとしたらどれくらいのスペースになるか。」いうたら想像つかないスペースになるやろうと。大きさになるやろうと。お金にしたらどれくらいのお金で出来るやろうかと。何千兆のお金を掛けても出来へんのと違うかということを、両方のプロが言うてる。
 それを聞いておりまして、一人一人が世界六十億の人類、人間おるのね。皆ものすごいものを頂いておるなあと思う。


 それでまた、話し合いが続いて、しかしなんぼコンピューターでも、出来ないものがある。人間の頭と同じものを造れないものが二つある言うて。コンピューターでは情報を入手し、それを分析解析をし、方向性を出すというような情報処理というもの、分析というものはすごいスピードで出来る。記憶を止める。入った情報を整理する。そしてそれをまた新たな資料として展開さしていくいうことは、もう日進月歩ですごい勢いで出来ていく。人間の頭も同じように色々な情報が入ってきて、そこで自分なりに考えて、また自分で情報を出していく。全く人間の頭もコンピューターもそいう面では、同じ働きをしておる。
 ただその中でコンピューターでは出来ないことが二つある。その一つは、コンピューターでは、『喜怒哀楽』喜び悲しみね。感情やね。『喜怒哀楽』はコンピューターでは造れないと。もう一つ造れないのが、『意志力』。「よし、今晩頑張ってみるぞ」とかね。「よし、これをなんとかやり遂げるぞ」とかね。というふうに『意志力』を持つ。『喜怒哀楽』と『気』を持つという。どっちも『気』の問題ですわな。心の問題、気の問題。これはコンピューターでは造れないのではないかと、両方の医学のプロも、コンピューターのプロもそういうこと言うてる。


 そうしますと、人間いう一人一人の六十億の人たちが、皆もろうておるこの頭脳、人間の一番大事なところ、今、脳死ということが問題になってますけど、人間として一番大事なところである脳が、何千億円かけても造ることができない大変なもの。そしてコンピューターでは造れない『気』というもの。『やる気』とか、『喜怒哀楽』。人を愛するやとか、腹を立てるやとか、怒るやとか、喜ぶやとか。これは、コンピューターでは造れないすごいもの。
 そうすると機械ではない、人間の『気』というものなんですな。これが教祖様教えて下さっている。『分け御霊』いうところやね。天地の神様の分け御霊。ほんで、色々本を読んだり情報をで勉強したりする。これはコンピューターでも出来る範囲かわからん。段々出来てくるやろう。情報処理というものは。
 しかし、人間が人間として一番大事なところの『気』、喜怒哀楽の『気』やる気の『気』、これは神様から頂くしか仕方がない。またそれぞれが頂いておる『分け御霊』を働かすと天地が働いてくださる。コンピューターは何処までいっても「1+1=2である」しかし、この『気』の働きを神様と響き合いですな。この『気』が神様との響き合いです。信心さしてもらういうことは、この『気』を大いに響かしてもらう。
 「真に有り難しと思う心、すぐにみかげの始めなり」すごいですな。これ『気』の親玉みたいなものやね。「真に有り難しと思う心、すぐにみかげの始めなり」天地の『気』とピャーと響き合いをする。共鳴をしていく。「あれ、こんな不思議なおかげを頂いたな。あんな不思議なおかげを頂いたな」。ということがそこに生まれてくる。信心はこの『気』を働かしてもらうこの『気』の働き。「おかげは和賀心にあり」と教祖様がおっしゃってるのは正にその通りではないかと思います。有り難うございました。

(平成十一年三月九日)

人生のテストは『実力テスト』

 今はちょうど入試の時期で、学生さんたちが大騒動してる。学生さんたちだけではなしに、家族の方も大騒動してる時であります。そのテスト、それぞれの学校で受ける入試問題というのは、始めから定められて、『英・数・国』とかな。それぞれの定まった勉強、科目があって、それに向かって、その勉強を一生懸命にさしてもろうて、それぞれの学校学部へ受験をするんでありまするけども…。
 テストの中にも『実力テスト』というものがあって、どういうところから、どいう問題が出るか分からんという『実力テスト』も中にはある。始めから目標が定まっておって、英語したらええ、数学をしたらええと、いうテストと。全然範囲が分からない『実力テスト』がありましてね。これは、もう手の打ちようがない。その時が来たらその時でしゃあないがな、というのが『実力テスト』というでことすね。
 人生もそれぞれの目標があってこれに向かっていこう、ということは割と楽なんですな。この事で頑張らせてもらおう、ということで向かうことは楽なんですが。これがテストと違うて、どういうところへと、目標を願うてても、いつ、横やりが入るか分からん。願いと全然違う方へ動くようなことが、たーんとあります。また、同時に人生のテストの中には、「ええー」ちゅうような、「何でー」、というような大騒動が起こってくる。それが、やはり『人生のテスト』ということじゃなかろうかと思う。
 そうしました時には、日々に信心の実力を付けとかんと、そのテストに落第したり、埋没したりしてすまいますな。総崩れになるようなときも時にはあります。ズーッと崩れてしまうことも、ようありますね。その時に小さいテスト言いますか。「その時はまあ、しゃあないや。」というあきらめということがあるんですけども。「このぐらいやったら、しゃあないわ」で済む問題と。「しゃあないわ」では済まない問題とがそこにある。


 例えば小さい子をおいて、母親が病気になる。「しゃあないわ」では済まされない、大きな問題がそこにある。「もう死んでしもうたら、しゃあないわ」ということになってしまう。「しゃあない」で、ほんとに済むんかどうか。
 そこを「『ぜひとも』、という神様に向かわさして頂いて、おかげを頂くんじゃ」というその「ぜひとも」という願いを持たしてもらわないかんのですけれども、日頃勉強してなかったら、実力を付けてなかったら、オロオロするばっかりで、お参りしておっても、オロオロしてるばっかりで、「えらいこちゃ、えらいこっちゃ」と言うてるだけのことであって、神様にピシッと心が向いてこん。
 それで、「しゃあないわ」になってしまう。「しゃあないわ」で済みませんからな。そこから人生がそう崩れになり、その子供がどんな育ち方するのか、よう新聞に出ておるように「子供を殺さないかん。子供を放ってしまわないかん」ちゅうような「アホかっ」いうようなことが実際、現実であっちこっち起こっておる。そうした時に、ほんとに信心の実力を、日頃からつけさしてもらうことが大事なことやないかと思います。有り難うございました。

(平成十一年三月十日)