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すべてが命から出発する『存在の原点』

 『脳死』でお隠れになると言いますか、『脳死』という一つの医学的な判断でその人が亡くなったと。他の心臓やら、肝臓やら、膵臓やら、胃やら、腸やら他の内蔵は全部、働いておるけれども、人間として、脳が死んでしまうと、人間として『死』として認めるということで、『脳死』という一つの判断が下されて、そしてご本人、あるいはご家族の願いによって、健全に働いておる臓器を、病気で苦しんでいる人たちに提供するという『臓器移植』ということが、初めてなされました。
 色々な判断があり、色々な価値基準あがり、価値観がそこにあるんでありますが、国家の法律ということで『脳死』を人の死と定める≠ニいう問題。ここに大変な大きな問題があるようであります。心臓がまだ動いているのに、それを『死』と認めるかどうか、という大きな大きな問題。それを国家とか、法律とかそいう権力機構でそれを判断するということは、どうなのか、という大きな大きな問題があり、これからも論議を呼んでいくことやと思うんでありまするが……。


 それほど大切な命。国家あげての論争を呼ぶ命。一人一人の命はそれほど、実は大切なことなんですけれども、実際のところでは、毎日、毎日多くの人が交通事故で亡くなっておる。あるいはまた、人の命を奪うような犯罪もある。そして世界中でみると、民族間の紛争等で武器を使うて、殺し合いをせないかん。なんともはや、同じ命でありまするのに、そいうことが実際のところではある。いうことを見さしてもらいました時に、もっともっとそれぞれが、かけがえのないたった一度頂いたその命を、本当に大切にしきらして頂く。自分の命もそうなら、人さんの命、それもほんとうに、大切にさして頂くと。いうことがいるかと思います。


 私は見たことがないんですけども、ある先生から聞いたんですけども。高校生と大人との間における討論会みたいなものがあったそうですね。その時に、高校生が、「何で人を殺したらあかんの?」と聞いたそうです。「なぜ、人を殺したらいかんの」と。
 教育者である大人たちは、もうオロオロしてしもうたという。その当たり前の、当たり前の、当たり前が、疑問になる。その高校生が別に人を殺すわけではないんでしょうけども。「なんで、人を殺したらいかんの」と……。
 生きとし生けるもので一番大切なのは、命であります。すべてが命から出発している。生を受けたところから、すべてが出発しておる。この生があるが故に、命を頂いてあるが故に、社会の様々の働きもあれば、人間関係もあれば教育もある。原点。存在の原点なんですね。神様から頂いたこの命。生かしてもろうてるこの命なの。これがなければ何も無くなってしまう。その命はすべての原点ですね。その原点を抹殺する≠ニいうことは、自分も抹殺するということと同じことやろうし、その人を抹殺することであるし、社会を抹殺することでもあり、国家を抹殺することでもありますし、全人類を抹殺するのと同じことなんですね。
 その原点、それを大切にさしてもろうていく。かけがえのない命を大切にさして頂く。その命を、そこから物事すべて見さしてもらういうことが、信心にとって大切なことかと思います。有り難うございました。

(平成十一年三月一日)


健康な時の命の実感

 痛いのが治ったことだけがありがたいのではない。いつも健康であるのがありがたいのである。(『天地は語る』三二四)

 痛い痒いやら病気になりますと、そりゃあ、貧乏人も金持ちも、そんなん一切関わり無しに早く治りたい、しんどいのが早く治りたいとこのように思う。そやから病院へ通院したり、また入院しますとね、金持ちは大きなええ個室へ入れてもらえい、貧乏人さんはその他大勢の部屋へ入るんですけど、その思いは一緒なんですな。「早く、治りたい、早く、治りたい。痛いのは辛い」と。それだけではなしに、死に対する恐怖心。死にたくない。という思いがある。
 今日、脳死の問題が出てまいりまして、臓器移植の問題が出てまいりまして、臓器の提供を待っている人がたーんとある。それほどに、こう自分が患ったり、痛い目をしてくると、自分の命の大切さというか、存在というものをものすごく実感してくるんですな。ところが、健康な時は、自分の命の存在いうものをなかなか実感せん。そやから、平気で人を殺したり出来るんやろうね。自分が痛い目してきたら、病気なってきたら、『同病相憐れむ』やないけれども、「あんたも、そこ痛いんですか」と。あの時は皆平等やね。入院してたら、金持ちも貧乏もあれへん。「あんたそこ痛いの、辛いやろうな。私も実は、ここ、こうこうで痛いんですねん。」言うて皆同病相憐れんでおります。
 そうしてみると、故障せんと、そのように痛い目せんと、命の存在、命のあり方、さえも分からん人間が非常に多くなってきてるように思う。痛い目せんと自分の命の存在というものが分からん。難儀なことですな。そういう意味では、時々皆病気して、エライ目して、ほんで、「命があるんや、もっと生きたい。早く治りたい。」いう思いになった方がえんでしょうけども……。痛い目してから分かるようでは、つまらん話でね。痛い目せんうちに、その命の尊さというもの、頂いている命であると、いうことを分からしてもらわないけませんな。


 この頃はガンでも、『ガンの宣告』をどないするか、いう問題がある。段々宣告するのが多くなってきてるように言う。「後三年の命です」とか、「一年の命です」とか。いうガンの宣告を受ける。ガンの宣告を受けてから真剣に生きるのね。
 「後三年の命しかない。後二年の命しかない。」そうしたときに、初めて自分の頂いている命というものをじっくり見直して、中には、やけになってしまう人もあったり、死に対する恐怖心の中へ入ってしまう人もあったり、あるいは、残された命をどう生きようかと真剣に生きることを考えるということがようあるそうですけども。やはり、今月今日、命を実感さしてもろうていく。それには、信心して神様に我が心を向けていく以外に、平生の命の実感、健康な時の命の実感というものは、なかなか出てこんもんや。
 幸せ不幸せというものが、どういうところにあるんやろうかということを見たときに、色々な話があるけれども、命を実感して生きれるというのが一番の幸せかわからんですな。「はあ、生かしてもろうてるんやな。命があるんやな。どうぞこの命大事にさしてもろうて、お役に立たせてもらうんやな」と命を実感して生きさしてもらうということが、一番幸せなことのように思います。有り難うございました。

(平成十一年三月二日)

信心も『基礎練』がいる

 先日ある教会の月例祭のお説教の御用さしてもらいまして、御用終えました後、帰らしてもらうのに、教会からタクシーを用意して下さって、車に乗せて頂いて帰らしてもうてきたんですけども。
 そのタクシーの運転手さんが、その道中に、
 「今、金光さんから出てきはりましてんな。」
 「はい、はい、そうです」と。
 「ああ、あっちこっちに金光さんありますな。」言うて、大阪市内の大きい教会の泉尾教会やとか玉水教会やとか……。「どこそこに大きいのありますな。」
 「ああ、そうです。大阪に百四、五十の教会がありますよ。大小、様々やけどもね。」
 「そうですか」ということで運転手さんが色々と話ししてこらる。
 そういう中で、「私ね、金光さんの信者さんでお得意さんありますねん。」言うて、
 「え、どういうこと。」
 「いつもね、梅田のちょっと向こうに久保田鉄工という鉄工所があります。」上場企業の大きな鉄工所ですね。
 「そこの会長さんが、そのビルの事務所からいつも晩の九時頃出てきはる。私はいつもそれを狙ってその辺で待ちますねん。ほんで、金光さんの教会へ必ずお参りしますねん。毎日。そやから、私を、指定しはるんと違うけど、そこに行ったら必ず、会長さんが乗りはるいうこと分かってますから、毎晩そこに行きますねん。」と言うておられた。
 「はあ、そうですか。」


 大きな鉄工所の会長でありますが、毎晩日参をなさって、その日一日のお礼をちゃんと神様へ申し上げ、また明日のお届けを申し上げて、毎日、毎日されておるということを、信心の関係のない運転手さんから、そいうことを聞かしてもろうて、「はあ、やはり、なんでも基本がキチッとしてはるな。おかげを頂いていかれる、末々ズーとおかげを頂いてこられるには、やっぱり基本をキッチリ押さえてはるな」ということ。
 おかげは、いくらでもある。「おかげは受け得、受け勝ちである」と。「何なりとも願え」ともおっしゃってます。
 琵琶湖にいっぱい水ある。なんぼでも使うてもええ。ただしそれぞれのバケツで、汲まないかん。いくらでも、使わしてもろうたらええんやけれども、それぞれのバケツで汲ましてもらわないかん。そのバケツが小さいか大きいか、あるはまた穴が空いとるか。それぞれのこと。
 ただ、その汲ましてもらう努力さえもしんどいいうのは、どうもしゃあないわな。汲ましてもらう努力さえも、しんどいいうことになってきたらどうもならん。


 しかし、どんなスポーツでもそうですけども、『基礎練』というものがあって、剣道で言えば竹刀の素振り。柔道で言えば受け身。相撲で言えば、てっぽう、シコというふうなものがある。これはあんまり面白くないの。ところが、やはりこの『基礎練』をキッチリ、毎回いつもいつもしとるその運動選手は、実力がある。ところが、すぐペンペンとやりたくなってくる。そっちの方が面白いから。それはすぐにダメになってしもうて、すぐやめてしまう。いうことがあります。何でもこの基礎というものがありまして、「なるほどな」と。
 しかし、それも身に付いたら、それもそんなにしんどいもん違う。身に付くまでがしんどい。身にさえ付けば、なんちゅうことはないんやけど、そこまでポーンと一つラインを越す、ハードルを越す。身に付いて、そのハードルをちょっと越しさえすれば、しんどいことでもなんでもないんでありますが。
 その久保田鉄工の会長は毎日、毎日、一日の仕事終わったら、教会へ参拝してその日一日のお礼を申し上げ、また明くる日のお届けお願いを申し上げて帰る。本人が言うてるんじゃなしに、全然信心を知らない、関係のないタクシーの運転手さんが、「あの人は熱心な人ですわ」言うて。「そのビルの前に行っとけば、絶対お客さんになってくれはるので、別に私を指名してくれはるわけでは、なんでもないんですが」と。
 やっぱりおかげ頂く人は、おかげ頂くだけの基礎をキッチリ押さえてるなと思います。有り難うございました。

(平成十一年三月三日)