トップページ 写真館 本・ビデオ おかげ 扇町教会とは リンク

地獄の蓋を割る気になって

 心配が増したり、物事を苦に病むようになるのは、信心が落ちた証拠である。その時、これをありがたく思って信心すると、これが修行になって、また一段と信心が進んでいく。そうでないと信心が落ちてしまって、心配や苦難に負けて、どうにもならないようになってしまう。(『天地は語る』二四四)

 人間であるから、生きている間は先々のことを考えもしようし、心配の尽きる時はあるまいが、それがみなおかげになれば、心配はあるまい。心配は、信心すればみなおかげになる。心配は体に毒、神に無礼である。心配する心を神に預けて、信心する心になれよ。おかげになる。(『天地は語る』二四五)

 それぞれ色々な問題を抱えて生きております。今日の御理解のように、心配する種が次から次へと生まれてまいります。心配だけですめばいんですけど、せっぱ詰まってくると、お商売やら、仕事の上やらその他様々なことで心配だけではなくて、心配を通り越して、何とかせなきゃどうもならんというようなことが起こってくることがございます。お商売なんか特にそうであります。
 そして皆信心さしてもらうような者は、神様に「どうぞよろしゅうお願いします」とお願いをする。そやけど、お願いしてる尻から、心配する。「どうしよう、どうしよう」と迫ってくる。
 「お願いしてるんやけどな。今日もあかんかいな。やっぱりあかなんだ。明日はどうなるんかいな。いやもうこれやったら、一ヵ月後にはダメになるやろう。はあ、後二ヶ月もつかいな…。」そいう心配が我が心にずっと、はびこってしもうて、「神様、よろしくお願いします、なんとかしてください」と願うてるんですけども、心配が先に立ちます。


 神様にお願いする。「どうぞ、よろしく…」と言うときに、ただ単に、「よろしゅうに…」だけではいかんのですね。本当におかげを頂こうと思えば、地獄の蓋を割る気になって神様に向かう。お願いしてるその向こうに、もう一つ、「神様」という地獄の蓋を叩くような、割るような、その気迫をもって神様に向かわんと、「お願いしてまっせ。何とかしておくんなはれや」「あきまへんか。やっぱりあきまへんでした」というような程度では、お願いがお願いになりません。ただ単に、ずぼら、得手勝手いうだけでしょう。
 お願いがお願いになるには、神様を揺り動かすような、神様がこっちへ向いてくださるような、地獄の蓋を割るような、何が何でもというのと同時に、「ままよ…」と。「ままよとは死んでもままよのことぞ」とおっしゃる。そのおかげを蒙る。そういう向かい方をしませんと、手を四つ叩いて「お願いしまっせ。お願いしまっせ。」「はあ、あきまへんか。やっぱりな…」というようなことなんであります。「何なりと願え」とおっしゃるから、何なりと願わしてもらわないかんのですけども。願いが願いにならして頂くようなご信心をさしていただかんと、本当のおかげは頂けません。有り難うございました。

(平成十一年二月十一日)


神様を使う信心と神様に使われる信心

 一日一話の本を第二集まで出させて頂きまして、色々なお方から感想文やらあるいはアンケートやら送って頂いております。その中でご婦人のお方が多いんですけど、とくにお年をいかれたお方の感想文によくあるのが、私の母の「辛抱の棒が太くなりました」という一節の話しがありますな。あの話しが非常に感動したというて、感想を送ってくださっておられます。
 これは、終戦後復興間無し、参ってきたご信者さんが、戦争の災いを受けて家を焼かれたり、肉親を亡くしたり、今日の食べることも段々事欠くようなそういう状況の中で、「もう辛抱の棒折りました」と、このように言われるのに対して母親が、「そうですか。私は、辛抱の棒が太くなりました」と、その方に語ったことを子供ながらに聞かしてもろうとる。その話が非常に皆さんに素晴らしいなと受け止って頂いとるんでありますけど。
 なぜ辛抱の棒が太くなるんでしょうな。これがね、同じ信心しておりましても、神様を使う信心をいたしましたら、棒は折れてしまいますねん。というのは、「こんだけ一生懸命に信心してるのに」「こんだけ、頼んでるのに、ひとつもようなれへん。しんどいことばっかりや。つらいことばっかりや。」ポキッと折れてしまいます。
 母親はそうじゃなしに、神様を使うんじゃなしに、神様に使われようとしてる。根本的に違うんですね。お使い頂くということ。
 「自分には何の力もございません。何のこともよういたしませんが、どうぞ神様にお使い頂いて、一人でも人が助かられまするように、私は何にもようしませんが、力もない金もない、体も弱い、何事も出来ませんが、せめて人様のことを祈らせて頂きますように、そのために様々な苦労はございますが、これは、皆、我が身に頂く修行と頂いております」という、その根本があるんですね。
 同じ神様に手を合わしておりましても、『神様を使う信心』と『神様に使われようとする信心』との基本的な違いがございますな。
 そうして見ると、母親の信心の中身は、
 「恐れ入ってございます。もったいないことでございます。こんな私でもお使い頂けますか。とこんな体の弱い体の不自由な体でもお使い頂ける。もったいないことでございます」と。これには、日々御本部でお取次ご苦労くだされて、「教主金光様のお取次あってのことで、私のようなご信心では無理でございます」と。そういう信心なんですね。


 でありますんで、亡くなる前に、病院へなかなか行かんもんですから、ちょうど、その年が立教百年というお道にとっての節の年でありました。
 「お母さん、立教百年の年、御本部へお参りしたい?」言うたら、
 「したい。させて頂きたい。這うてでも行かして頂きたい。」
 「お母さんその体では無理やから、病院へ行ってちょっとでも体ようしてもらわなな。」それまで病院へ行ったことがないですからね。
 「そんなら、病院へ行って、少しでも体ようならしてもろうて、お参りさせて頂くんや」ということで病院へ入りましたんですけども。
 「這うてでも、行きたい。お礼を申しあげたい」と。
 自分の体みたらガタガタで、お参り出来るような体ではないですよね。端から見たら、難儀の塊みたいな体なの。しかし、「這うてでも、お参りさしてもろうて、お礼を申しあげたい」と、そいう信心なんですね。それがこの「辛抱の棒が太くなります」というのが、根底にあるんですね。
 神様を使う信心をいたしましたら、「こんだけ一生懸命にしてますのに、あきませんわ。もうあきませんわ……。」ポキッと折れる。
 「いやいや、こんな私でもお使い頂けますか」という、神様にお使い頂く信心をいたしましたら、そいう辛抱の棒が太くなるおかげを蒙っていきます。有り難うございました。

(平成十一年二月十二日)

習う方の生徒のあり方は?

 大相撲の正月場所があのような結果で…、千代大海関が優勝して、大関になって、こないだ、大分の方へ帰ったら、凱旋将軍のように、そりゃ、そりゃ、十何万人の人で、すごいもんですな。あれ見てて平和やなと思うんですけど、大変な大勢の人が出迎えて、正にヒーローでありましたが…。
 そういうことがあってのことなんですけど、時々、相撲のドキュメントが行われている。その一つで、「はあ、これは大事なことやな」と思うて見さしてもらいました。
 昨年小錦と一緒に引退した元大関の霧島関のこと。その方が、新しい部屋を相撲部屋を開設したんですな。それで、あっちこっちから、まあ新弟子ばっかりや。新しい部屋やからあっちこちから、体の大きい中学生、高校生。頑丈そうな相撲取りに向くような人を募集して、新弟子を教育してる。
 今までのつっぱりやら、甘い生き方をした人もいる。しかし、相撲取りになって、ええカッコもしてみたい。錦を飾りたい。まあ、千代大海みたいになりたい。強くなりたいとそういう思いで、新弟子達がやってくる。
 それで来た日は、お客さん扱いするらしいですな。ちゃんこ鍋でも一番上座に据えて、それで一番にご馳走を食べさすらしいですな。そうしてご馳走を食べさす。
 しかし、二日目からは、今度は一番下になって、厳しい修行と規律とを求められる。国を出る時に、親方とおかみさんが「お預かり致します。この子供をお預かり致します」と。「これからは、親方夫婦を親と思うて…」と。また親方夫婦もおかみさんも「この子を我が子じゃ」と思うて引き受ける。
 ところが、普通の親子やったら、子供があっちゃ向いてても、「しゃあないわー」ということがあり、無茶苦茶しても、「はあ、自分は親やから、辛抱せないかんのじゃ」とかということになるんですが、同じ親子でも、親子違いやねんな。
 相撲の師匠弟子としての親子≠ネのね。ここらが子供はなかなか分らへんねん。ですから初日は、お客さん扱いしてもろうて、ご馳走食べさしてもろうて、「うれしいなあ」と思う。それが、明くる日から、竹刀でお尻をたたかれないかんのやからな。ピシッとお尻叩かれて、朝の早うから、雑巾かけに掃き掃除に、ちゃんこ鍋の準備に、自分が食事出来るのは一番後や。ちゃんこ鍋食べるのは一番ラストや。そうすると、汁ばっかりしか残ってへんの。
 すると、その子供が「親やったら、こんなんことせえへんのにな」と思う。親やったら、「一番にご馳走を食べさしてくれたのにな」と。親の感覚が全然違うんやね。


 それから、その新弟子の中の半数ぐらいがやっぱり新弟子の間に脱走するんですね。逃げてしまいますねん。厳しい修行に耐えかねて、逃げてしまう。その逃げた、脱走した新弟子をものすごく親方夫婦は気遣う。もちろん親元へも電話をし、「あの子はもうケツ割ってしもうたか。さびいしことやな」と。逃げた方は、そう思てへんと、「あんなえげつないとこなー。あんなもんイヤ。あんなもん辞めやー」とこう思う。
 その中で帰ってきたもんがおるんですね。やっぱり気を取り直して、帰って来て、親方に「すいませんでした。心改めます」言うてな。その時の迎える時の親方のこの笑顔というかな。何も言わんと、「うん…」と。
 それをずっと見てて、何の親なんか≠ニいうことな。子供は分らへんねんな。
 親や言うたら、今までずっと守ってくれてた両親の実の親。何でも許してくれる親。相撲の師匠としての親。この区別がつかんねんな。段々と修行しているうちに、そのことの区別が、段々と区別がついてきて、親という名前には違いないけれど、これは相撲の師匠としての親。ということが段々と分かってきて、段々と強くなっていく。
 中には、ある程度までいっても、「もうやめや」といって廃業する相撲取りもいてる。脱走だけではなしに、もう辞めてしまういうこと。そうして辞めてしもたり、脱走してしまうと、親と子という関係は切れるんですな。相撲を通して、相撲を媒体としての親と子なんですな。ところが、そこでもう方一方が、弟子の方が「やめや」思うたら、残念ながら、それは親と子ではなくなってくる。


 信心も同じことでね。昨日も教祖伝記の勉強会をして久しぶりに嬉しかったんですけど、神様が教祖様に、四十三才の時ですかね。神様の方が教祖様に頼まれる「神の頼み初め」というところがあるんですけども。「神を神と用いてくれ」と教祖様に言われている。「神を神と用いてくれ」とこのようにおっしゃっている。
 おかしなことですね。しかし、人間側が、神と用いなければ、関係は生まれないの。それは、信心というのはね。相撲の世界も同じこと。
 「この人を相撲のお師匠はんとさせてもらおう。お師匠はんとして、教えてもらうんじゃ」という弟子として、師匠に向かう心がなかったら、それは成り立たないのね。
 今日こういう世界が失われているというか、無くなってしもうて、親やいうたら、いつでもな、かばうてくれた親。というイメージで受ける。
 そうじゃなしに、一つの目的を持った時に、そのことを通してと、そやから信心をしようとするものには、神を神と用いる。神様を神様と頂いていこうとする心がなければ、神様との関係が生まれてこないんですな。「神を神と用いてくれ」とおっしゃる。そうしなければ、神と人との関係、あいよかけよの関係が生まれてこないんです。
 その用いる、師匠なら、師匠と頂こうとするその心が生まれんと、それは成り立っていかないことなんですな。あいよかけよとはそういうことなんですな。そやから神を、神さんと用いなんだら、一つもそこに関係が生まれない。相撲の世界でも同じことで、「この人について、この人を師匠として頂いて、そして教えてもらうんじゃ」ということがなければ、それが生まれてこないんですね。残念ながら、一方通行になる。
 そやから、「神を神と用いてくれ」。神様の方が教祖様の方へお頼みになっておられる。「神を神と用いてくれ」と。


 また同じようなことが、後々教祖様が御用なさった中でこういうことがあります。
 教祖様のご近所の大谷村やらの人がね。教祖様の所へ来て、「教祖様、なんで京阪神から来て参る人は、ようおかげ頂けてね。この近隣のものは何で、おかげ頂けませんのやろうな」言うて、このように尋ねられる。
 すると、「京阪神から、遠方からお参りする人は、『生神金光大神』と頂いてお参りしている。近所に人は、『文さん』じゃと思うてる。その違いがある。『肥かたぎの金神』やと思うてる。『肥かたぎの金神』には、『肥かたぎの金神』のおかげ。『生神金光大神』には、『生神金光大神』のおかげ」という一節があるんですけど。
 教会においても同じことで、教えの親=B「教えを頂かして頂きたい」と思わなんだら、それはもう成り立たない。この先生から「教えて頂きたい」という思いがなかったら、なんぼ表を通っておってもね。「はあ、ここで教えて頂きたい」という思いがなかったら、それはもう絶対成り立ってこない。


 そう意味でおきまして、今日はそいう昔の師匠と弟子とか、あるいは、親と頂く。子供の方が親と頂く。親の方ばっかり求めるんですけど、子供の方が師匠と頂くとか、親と頂くとか、もう一方の方が非常に薄れてしもうてる。権利ばっかりの主張やな。社会全体がな。
 学校でもそうや。「先生、こんなんやからあかんやないか」、習う生徒は、どうさしてもろうたらええのかが、一つも問われないでしょう。「学校はこうじゃ、授業はこうじゃ」と言うことばっかりで、習う方の生徒のあり方はどうさしてもろたらええのか≠ニいうもう方一方のところが非常に、今日社会全体に、薄れてしもうとる。
 でありまするんで、その相撲部屋のお師匠はんも大変なの。社会全体がそうやから、ほとんど脱走しよるねん。「もうイヤ」。今まで保護されてばっかり、守られてばっかりですから、もう自分で生み出していくとか、向こうていくとか、師匠と頂くとか、やったことないのでな。
 「なんで、いじめられないかんねん。」と、こうなるねんな。
 「強くなるためや。」
 「そんなんやったら、強くなりたくないわ…」
 脱走が非常に多い。半数以上が脱走し、それでまた、幕下、十両、幕内と順番に上がっていくまではもう百分の一、千分の一というようなことになる。なかなかなことですね。
 受ける側がどうあらしてもろうたらええのかという、そこのところが、社会全体がなくなってきたので、非常に寂しいことじゃなと。成り立ってこないなという思いを、相撲部屋のドキュメントを見つつ、思わさせて頂きました。有り難うございました。

(平成十一年二月十四日)