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一番のお供えは何やろう?

 長者の万灯、貧者の一灯ということがあろう。その貧者の一灯も供えられない者もあろう。神は灯明でも線香でも、何でもかまわない。一本の線香さえ供えられない者は、一本を半分に折って供えても、灯明の代わりに受け取ってやる。線香も供えられない者は、切り火をして供えても、灯明の代わりに受け取ってやる。線香の灰でもおかげを受ける者がある。(『天地は語る』一九二)
 神は供えたお金をただで取りはしない。昔から一粒万倍というであろう。大地に米を一粒まいてみよ、一合になるであろう。また、年が明けてその一合をまいてみよ、一俵になろう。天地の神に供えた物は、そのようなもので、一粒万倍にして返してやる。(『天地は語る』一九三)

 今日はお供えのことについての御理解を縷々(るる)頂かしてもろうたんでありますけど。一番のお供えは何やろう、いうことですね。
 今はお月さんには、うさぎがおりませんけどもね。昔はお月さんにうさぎがおりましてね。お月さんは神様やった。お月さんの神様がこの地球に降りて来られた。野や山の鳥や獣たちが「はあ、神様がお越しくだされた。」いつも夜は夜でお照らしくだされて、有り難いことであると、何か神様にお礼を申し上げたいと。それぞれどんぐりやら、木の実を山の獣たちが一生懸命に集めてきて、「どうぞこれを召し上がって頂きたい」と言うて、お月さんの神様にお供えをした。
 ところがその中でうさぎさんだけが、上手いこと集めることができなんだ。ほんなら、いつも自分はお世話になってる、照らして下さっているこのお月さんにお供えするものが何にもない。ということで心を痛めて、神様を中心にして森の獣たちがたき火をしてる。それぞれお供えものを皆それぞれお月さんへお供えしてる。そのたき火の中へ自らの身を投じて、「どうぞ私の身体を頂いて下さい」と言うて、たき火の中へうさぎさんが身を投じた。
 お月さんの神様は大変に不憫に思われ、「そうかそこまで思うてくれるか」ということで、そのうさぎさんを連れて、月まで帰られた。それから、お月さんにはうさぎがおると…。いうことになってあるんやけど、今はおらんらしい…。
 お供えいうものはそういうものやな。天地金乃神様は命を取ろうとはおっしゃらん。そうじゃない。その氏子の真心を何十倍にでも受け取って下されて、より一層に大きな働きをさしてくださる。


 九州に甘木教会という教会がありましてね。そのお教会では多くの信奉者が修行に入っておられるんですけども、特に信徒総代と言われる教会の中心になるご信者さん。そこの長男を神様にお供えする。大事な子なるがゆえに、お供えする。というふうな信心が甘木教会ではありましてね。教会の主立った役員さんたちの長男さんたちが、皆教会に修行に入られて、そして全国各教会の跡取りさんの無い教会やら、あるいはまた女の子だけの教会やらありますわな。そこへどうぞ、使うてくださいと言うて御用に立っておられる。これは、子供をお供えする。
 お供えする言うたら、捨ててしまうように思うんですけど、そうじゃないんですな。神様にお使い頂くということによって、こちらが、より一層に大きな天地金乃神様のお働きを頂戴していく、より大きな御用に立たせて頂くということなんですな。その真心を神様お受け取りになさる。
 たまたま、甘木教会で「役員さんやから」という、「役員さんやから」ということではない。役員の御用をさしてもらう者ぐらいは、という意味。役員やからそうせないかんという意味ではないんですよ。役員の御用をさせてもらうものは、それぐらいの信心をさせてもらわないかんのじゃと、いうことですな。これまた気を付けないかんのは、自分は役員やから、なんぼなんぼせないかんとか、役員でなかったらせんでもええのやとか、そんな人間考えのところでチョロチョロしますんやな。それではどうもなりませんな。


 今日のみ教えでも、一本の線香でも折ってでもかまへんとおっしゃってくださる。一本の線香をお供えすることが出来なんだら、半分に折って、二本としてお供えして、その真心を受け取ってやる。線香もお供えできなんだら、切り火(縄の先へ火を付けるもの)でもええと。こういうふうに神様そこまでおっしゃって頂く。
 すると今度また人間ずぼらで、「金光さん切り火でええねんで」とこうなる。「線香半分でええねんで」。人間ちゅうのはな、ずるい方へずるい方へシュシュ、シュシュといってしもうたり、あるいは自分は役員やからこうせないかんのやから、役員でないからせんでもええやとか、そんなとこばっかりで動いてしまう。心が動く。「神様へ」、「神様に」というものをしっかりと持たせてもらうことが大切かと思います。有り難うございました。

(平成十一年一月三十一日)


ケジメを付けると神様と響き合う

 家族一同、仲よくして信心せよ。彼岸もちなどをこしらえる時に、子供がそばで、くれ、くれと言うのを、神に供える前はいけないと言って頭をたたいたりしては、神は喜ばない。先に子供にやって喜ばせておいて、それから神に供えてくれれば神は喜ぶ。招かれて行っても、台所で子供が頭をたたかれて泣いたりしていては、ごちそうを出してくれても、うれしくはないであろう。(『天地は語る』一九七)

 農作業で忙しい時など、ご飯を神に供えるのに、足が汚れているからと、めんどうに思って供えるのでは、神は喜ばない。それよりも、釜の中で少々かき寄せて、神様と言って拝んで、それをよく混ぜていただけ。神はそれを喜ぶ。(『天地は語る』一九八)

 今日頂きましたみ教え、神様の大きな大きな愛の表現をしてくださっておられます。「彼岸もちなど供えるのに、子供が、くれ、くれ言うたら、先にやれ。その方が神が喜ぶんじゃ。と氏子が助かってくれれば嬉しいことなんじゃ。」
 農作業の忙しい時に一々手足を洗うたり、口をすすいだりしてる、そういう間はないであろうと。釜の中をかき混ぜて、「神様有り難うございます」と言うて、それを神は受け取ってやる。有り難いことですね。
 まさに、天地自由自在の神様であります。非常に有り難い。神様はそのように天地自由自在にありつつ、そしてなおかつ、氏子もその天地自由自在なる大きな大きな心を持って、お守りくださり、慈しんでくださってありまするが、こちらの方はどうなんかと。その天地自由自在なる神様の大きな大きな真を頂いて、こちらはどいう程の大きな真と言いますか、それを頂ききれてるかいうたら、気ままの方にいってしもうたりしてな。自由自在と気ままとは話しにならん。違うんですな。そのように天地は自由自在、神様の心も自由自在ですが、天地には大きな大きなケジメということがあるの。ここを案外分からん。


 例えば春夏秋冬のケジメがあるでしょう。自由自在でありつつ、ケジメをキッチ、キッチと付けておられる。そのケジメに反すると、冬に夏服着たら往生せないかん。風邪引かなならん。「わし、夏服好きやねん」言うたら、「おう、好きなもの着たらええ」好きなもの着ますわいな。何でもええ…と。しかし冬に夏のもの着てたら、えらいことになってしまわないかん。というふうに自由自在でありつつ、ケジメを付けておられます。


 そうしました時に、我々は神様に向かうのに、ほんとにおかげを頂いていける向かい方が二つある。それ程大きな天地自由自在なる神様。もう一つ別の御理解で言えば、「壁を向かって拝んでもかまわん。天地金乃神の広前は世界中である。壁を目当てに拝んでもおかげはある。」その通り。
 近藤藤守という難波教会初代の先生が、その当時船で行くか、歩いていくかという時代に、月に二度も三度も教祖様の元へご参拝なさっておらる。教祖様も「天地金乃神の広前は世界中であるからな。大阪にも天地金乃神様はおられるんじゃぞ」と。「無理して来んでもええ。大阪で信心さしてもろうたらええんじゃ。お金もいる。日数も掛かる。そんな無理な信心をしなさんな」と。「麦飯信心をしなさい。白飯だけやったら飽きてくる。麦飯信心をしなされ」とこのように仰せられた。藤守先生は、「そうおっしゃらずに参らせてくださいませ。私ら夫婦にはもう両親はおりませんが、金光様を親と思うて、慕うて参らせて頂きとうございます」と。このように押してお願いさせらると、教祖様は「天地金乃神様の広前は世界中であるが、金光大神はこの大谷(今の金光町)にしかおらん。」とこのように言うて喜ばれた。そして教えをズンズン、ズンズン頂いていかれる。
 その向かう心やね。「天地金乃神の広前は世界中じゃ、壁を目当てに拝んでもと」教えられても藤守先生は、ご神前お扉の中の目に見えん所に最高の材木を使われ、最高の絹を使われ、御神具、神様のことに対して、もうあらん限りの人間で出来る最高のことをしておられる。
 片一方では、「壁を拝んでもおかげはある」とおっしゃる。天地自由自在と。それを受けられて、「そうでございますか。そこまで大きなお心でございますか。そのお心を頂いている私は、どうお応えさしてもろうたらええんでしょうか」ということで目に見えない所に最高のことをなさってますな。そこにね、響き合いがあるんですわ。信心というものは、神様との間の響き合いですな。響き合いが無かったらいかん。それ程大きな神様のお心を頂いておる私はどうさして頂いて頂きましょうと。そうやないと、あいよかけよになりませんわな。片一方だけや。


 今の子供は、「親には子供を養育する義務があるねん。小遣い渡すのが親の務めや」いうてね。小遣いだけとっていくような子供じゃどうもならん。合うてるのよ。確かに、親は子供育てる義務がある。学校へ行かす義務がある。だから親が子供を学校へ行かすのは当たり前じゃと。「もっと小遣いくれんか」と。しまいになんぼ親でも腹立ってくるわな。こいつ何も分かってへんなと。
 理屈からいうたら、養育の義務がある、その通りやわな。
 しかし、ここまでしてくれるものがあってこそ、あいよかけよが生まれてくるんであってな。「そこまでして自分を育ててくれるか。はあ、有り難うございます」という、それがあってこそ、親子の響き合いがある。そこのところが今はない。


 もう一つ、天地自由自在なるがゆえに、信心にケジメを付けていかんと危ない。「せめて私は、このように取り組まして頂きとうございます」というケジメね。何もかも、がんじがらめにせいとおっしゃってるんと違う。そんなことせんでもええとおっしゃってるんやけども。こちらとして「このケジメを付けさして頂きとうございます」というケジメを付けていかんとね。あまりに自由自在やから、危のうてしゃあない。いうことがありますね。
 雑巾と布巾とごちゃにしませんわな。人間というのはな。なんぼ、さらの布でも「これは雑巾じゃ」として縫うたら、それでお茶碗は拭きませんわ。このケジメが今日無くなってきておるところがあります。そいうところから難儀をしてくるようなことがたくさんありますな。そいうケジメもって神様に向かって、ケジメを付けさして頂くということが大切なことじゃないかなと思わさせて頂きます。有り難うございました。

(平成十一年二月一日)

大阪造幣局の桜の通り抜け

 今はまだまだ、寒い時期でありますんで、桜の花は関係ありません。「梅は咲いたが、桜はまだかいな」ということで、桜の時節が待ち遠しいところもあるんですけれども。
 大阪の造幣局。ご承知の通り「通り抜け」は八重桜です。四月下旬から五月ぐらいが見頃の「通り抜け」があります。わずか数百メートルの距離なんですけど、ほんとにものすごい人が通ります。桜見るより、人にぶつかってばかっりやなというのが実際なんですけど。
 その桜の枝に和歌やら、俳句などの短冊を掛けてあります。私も何回かその通り抜けに行かしてもろうたことがあるんですけど、「はあ、掛けてあるな」ということは知っておった。その掛けられた短冊、特に俳句の方ですな。それを集められて本にされた人がいてる。その本をこないだ持って来て頂いて見てビックリしました。四千六百以上の短冊が掛かっているんですね。「へえ」思うて。なんぼ多くても、百ぐらいかなと思うてましたんですけどね。四千六百以上の短冊が掛かっておる。その本を持ってきてもろうて初めて知った。まだ全部見てませんけど、パラパラと、こう見さしてもろうただけのことなんですけど、また感心した。
 同じ数百メートルのあの雑踏の中を歩いて、同じように咲いてる桜を見て、四千六百もの思いがあるということ。詩というのはその思いを書くんですからね。同じ情景、光景、桜の花を見る通り抜けに、四千六百首以上の詩がある。生まれておる。それを思うて、「うわー、すごいもんやな」と思いました。情景は一緒なんですんわ。しかし、それを見る人によって、四千六百以上の心があるんですな。たまたま、それは詩に、あるいは俳句に記しただけのことであって、そんなん記してない人もありますわな。その方が多いか分からん。そうしますとそれまた、色々と通り抜けをする一人一人が皆違う思いで、あの桜を見てるんやなと。すごいもんやなと思いました。


 としますると、同じ社会に、同じ時に、生きております。その人、その人によるものの見方、考え方、同じものを見てもそれだけ違う。全然違うものやなということをね。しみじみ思いました。そいう中で、ご神縁頂いて、ご信心をさしてもろうてる者でも、おもしろいものですね。お話を日々聞かしてもろうてる人と、そうでない人と、同じものを見ても、全然違うものの見方をしますね。はあ、これは世間並のものの見方してるなと。これは立ち行かんことになってくるな。あるいは、「ここは、こういう見方が出来るようになったから、この人はおかげ頂いていくな」というふうに、同じ情景事柄でも受け取り方によって全然違うてきます。
 かといって、前にも言うたと思いまするけど、「あんたの顔に、黒いの付いてまっせ言うたら、あーそうでっか、どうもどうも」と。「あんたの心に、黒いの付いてまっせ」と言われたら…、怒って明日から来えへんから、言へんけどね。尋ねてきたら、言いますけどな。怒るから言いませんけど、段々染みが拡がってきたなということも見える。その点難しいものですな。
 やはり、信心さしてもらう者は、常にお礼を土台として、「こうもしてもらえて、ああもしてもろうてと、先ずお礼をして物事を見さして頂くの」と、「どうぞ、お役に立ちますように、お役に立てる人間になれますようにということ」と、「皆さんが助かって行きますように」と、この三つの土台をね、しっかりしときませんと…。ところが、言葉で言うたら、そんだけのことなんですわ。そんだけのことなんですけど、これが出来しませんねん。


 扇町教会開教九十年に向かって、「参る・聞く・祈る・奉仕」の信心力を頂き、混迷の時代を乗り切り、末繁盛のおかげを頂く。この力、信心力これは頭で分かったかてあきませんねん。身に付かしてもらわないかん。そうせんと力にならないんですわ。信心力にならないんですね。
 御祈念かて、祈るということかてそうです。手を叩いているだけやったら祈る口に入りませんからね。神様と響き合わんと、祈るになりません。御祈念をしていても、他のことフワーと思うてますしな。フワフワしてますしな。一つも、祈念力という力にならない。それはね、もう数重ねていく以外ないんですわ。勉強と同じですね。勉強力つけるいうたかて、にわか勉強では、勉強力なりませんからね、もう力を頂かんと、あきませんのですね。それはもう繰り返し、繰り返し、繰り返しさして頂かないきません。
 皆さんの祈念カードで一ヵ月間御祈念さしてもろうたら、始めの内はフッと思うけど、ピッ、ピッときますからね。一ヵ月間その方のことを御祈念さしてもらうと、ピッピッとその思いに入らしてもらうことがありますな。というふうに、力を付けさしてもらわないかん。
 そうしませんと、右往左往のものの見方、考え方、幸せ、不幸せというのは、その辺から決まってきますよってね。幸せ不幸せというのは、どのようなものの見方さしてもろうているか、どのようなものの考え方をさしてもろうてるか、どのような生き方をさしてもろうてるか、同じ情景であっても私は不幸じゃなと思う人と、幸せやなと思う人とありますよってね。
 同じ通り抜けの桜見て、「泣きの涙の句を書いてる人」もおれば、「ええな」と思うて書いてる人もある。四千六百首ですよ。すごいものですわ。こんだけ違うんかと、そして同じ句が一首もないんやからね。フワーと思わんならん。
 そうしました時に、十人十色のものの見方、考え方、生き方、その中にそれぞれの人間の幸せ、不幸せがあるんじゃと思わさせて頂きます。有り難うございました。

(平成十一年二月二日)