トップページ 写真館 本・ビデオ おかげ 扇町教会とは リンク

「信心の代を重ねて…」はほんの数件

 扇町教会が明治四十二年に開かれて、九十年という長い年月が過ぎてきましたんですけども、その間に色々な社会の動き、国家の動き、そうしてみると人間の難儀、その様相もその時々によってどんどん、様々に変化し変わってきておりますが、人が助かってきた事実があるので、これで九十年という長い月日、この梅田の真ん中で御用ができとるんですけどもな。
 そして、私は九十年も生きてませんので、わからんのですけども、四十数年は覚えてる。まあ、様々な人が来たり、出入りをしてますな。そいう中で信心が続いている人というのは、一割ですかな。まあ、一割ぐらいですかな。私が知っているだけでね。まして、代を重ねてということになると、ほんまの数軒…。
 そうしてみると、ほんとのおかげ頂くいうたら難しいことですな。「喉元過ぎれば熱さ忘れる」と言われる、ほんとにそうや。「えらいこっちゃ、えらいこっちゃ、なんとかしておくなはれ」と、飛び込んで来て、必死になって、ちょうど子供が駄々をこねるみたいなものやな。おもちゃ売場で「これ買うてー」、寝ころんでバタバタ、バターと。朝と言わず、昼、夜と言わず必死になって一生懸命お参りして、「はあ、おかげ頂きました。こんな有り難い神様ありません」言うて半年で終わりやね。大体コース決まってある。皆これさえおかげ頂いたらええと思う。
 教祖様が教えておられるように、人生そのものが、親から子、子から孫へと長い、長い流れの中でのおかげを蒙って頂くという、これがなかなか出来るもんじゃない。神様を特効薬みたいな使い方をするんやな。皆な。


 ごく簡単に言えば、入試の子がどこでもええ、なんでもええ、お宮さん、お寺さんお参りして「入試合格、入試合格」合格したら、「ありがとうございました」で終わりや。お礼に行くのはまだましや。ほとんどお礼にも行かん。
 ほんとは、入試合格して、それから良い大学生活を送らして頂いて、学問を身に付かしてもらう、これが一番大事なとこやねんな。この一番大事なところを、皆パスしてしまう。
 例えば、「良縁を頂きますように」と、あちこち縁結びの神様ある。「良縁を頂きますように」「やったー、バンザイ」言うてる。違うの、それから先が大事なの。結婚してから先が大事なの。「これやったら、結婚せなんだらよかったのに。一人でいてる方が良かった」いうのは、なんぼでもある世界や。「子供も出来たし、辛抱せなしゃあないか」と泣きの涙で…。そうでしょう、だいたい、二十歳の半ばで結婚するとしますやん、ほんでこの頃八十五まで生きる。どっちが長い?、六十年と二十五年や、どっちが長い。後六十年泣きの涙で過ごさないかんねん。というようなことやろう。
 そうして見たら、大事なのはそこから先が大事なの。結婚してどないするの、大学に通ってどないするの。そこが大事なの。そこは、皆パスやな。おもしろいもんやね人間いうのは。


 商売でもそうやねん。不景気になったら、「儲かりますように、儲かりますように」とお願いに来るの。「儲かってどないするの。ベンツが欲しいの」。バブルの時そないでしたやろ。「儲かってどないするの」と私聞いたことがある。「商売繁盛、商売繁盛」商売繁盛せないかん、その通りや。「商売繁盛して、儲かってどないするの」「へっ。」その次どないするの。「へっ。車買い換えますわ」とかな、「家建て直しますわ」とかな。そんなことしかあれへんねん。「商売繁盛してどないするの」、「大いにお役に立たせて頂きとうございます」お役に立てる中身にならないかん。金計算してたら、お役に立つ人間と違うわな。お役に立つ人間にならしてもろうていかないかん。
 というふうになかなか、それから次が大切なところなんですが、分からないですね。扇町教会飛び込みで、多くの人が入ってきまして、また上手いこといって、「あの人熱心に参ってはったけどな。……この頃来はらへんな…」というような案配になってしまいますな。
 ほんとうのおかげを蒙らしてもらう。魂が安らいでいく、魂が生き生きさしてもらう。日々が有り難う過ごさしてもろうていく、お徳を積ましてもろうていく、家の中にお徳が染み渡らしてもろうていく、親から子、子から孫へとほんとに、生き生きとしつつ、大切にしつつ、お役に立ちつつ、神徳人徳を頂いていけるというような、そういうおかげを頂いていかないかんのに…。
 そうやね、トータルしたら、何万という人になるんやろうな…。今はせいぜい百数人やけども、大体そんなもんや。「結構でございました。有り難うございました。さいならー」というようなもんやな。
 そいうふうになってしまいやすいので、ほんとのおかげを頂くということへ、向かわせてもらういうのがいるのじゃないかなと。来年はほんまものにならしてもらわな。こうして不景気が続いたら、一辺にパッとひっくり返らへんから、長いこと時間がかかるから、ほんまものにならしてもらうチャンスかわからんね。こんだけ世の中が不景気やったらね。ということでないかと思います。有り難うございました。

(平成十年十二月三十日)


人間関係もインスタントになってきた

 ニュースに再々出ておりまするけど、若い女性が『伝言ダイヤル』いうんですか、私もよう知らんですけれども、携帯電話でね、どういうんですか、安易な男女交際、電話で全然知らんもん同士が電話でやり取りして、携帯電話でやり取りしてね、そして落ち会うてデートして、すぐ肉体関係をもって、遊んで別れる。非常に流行ってるそうですね。ニュース見てビックリしました。それは、特別の人かいな思うたら、普通のOLやら学生さん、主婦までやってる。「へー」いうことでビックリをいたしました。
 そして全然見ず知らずの、初めて会うた男性から薬をもらって、「これは痩せる薬やとか、肌がきれいになる薬や」とか言うて、その薬をもろうて、飲んで意識もうろうとなって、お金巻き上げられて、ほんで死んでると。なんともはや、寂しい話しやなと思う。
 全然見ず知らずの男と女、電話一本でつながってすぐ会うて、すぐデートして、一体これなんやろうなという思いがする。まあ、前々からずっと思うてるんですけども、世の中便利になって何もかもがインスタントになってしもうて、人間関係もインスタントでようなってきたんでしょうな。
 ほんとに、愛情を育んでいくとか、問題を一緒に抱えていくとか、一緒に家庭を築いていくとか、というようなそいうものよりも、インスタントでパッパッとやる方が、それでええじゃないかと、いうことになってきたんでしょうな。


 残念ながら、人間というのはインスタントでは効きません。機械はいくらでもインスタント、ピッポッパになるんですけれども、人間が人間として生きていくには、決してインスタントでは効かないんですわ。
 オギャーと生まれて赤ちゃん育てていくのに、インスタントは決して効かない。辛抱するとか、育てるとか、積み重ねていくとか、いう力、辛抱力いうたら力ね。エネルギーが皆無くなってきたんでしょうな、簡単に離婚するのもそうでしょうし。こないだは「コインロッカーへ赤ちゃん預けといた」なんて、「はあー、」ほんで痩せる薬やいうて見ず知らずの初めて会うた男からもらって、平気で飲むんやから。これまた恐い話しやね。ほんとにそれで、まともな話しは聞こうとせん。難儀なことや。
 まとまな道の話し、人がほんとうに人となっていく、天地の間に生かされていく人が、人として幸せになっていく、その話しは聞こうとせん。ほんとにこう世紀末いうか、物事が滅びていくね、最たるもんであろうなと思わさして頂きます。


 人間が人間となっていく、あるいは幸せになっていくにはインスタントは無いんですわ。一つ一つ苦労して、一つ一つ身に付けさしてもろうて、一つ一つ分からしてもろうて、その努力と辛抱以外ないんですね。ところが何もかもがインスタントで、出来るような思いになってしもうておるいうこと自体が…。はあー…。普通のOLがその伝言ダイヤルで平気で会うて、平気で肉体関係を結んでいくと、ほんで一回か二回会うたら「さいならー」でよろしいねん、もうね。そこから愛情を育んでいくいうて、そんなしんどいことせんでよろしいねん。なんともはや、大変な世の中になりました。普通の娘さんですよ。これ世の中全体がインスタントなってるんだろうなと思います。
 それは男女の付き合いだけではなしに、あらゆることにね、そやから最近は、中学、高校中退なんか多いでしょう。それは、勉強しんどいの決まってる。学校が悪い言うけども、学校が悪いと言うよりも、勉強する努力するのがしんどいだけのことなの。はあー、いやな単語も覚えなならんわいな。いやな宿題もせんならんわいな。そりゃ、遊びに行って、ピポピポしてる方が面白いに決まってある。いやな単語、しんどい単語も覚えないかんわなそれは…。学校が悪い、教育が悪いということよりも、しんどいことはしたくないという、面白いことだけしたいという人間の難儀な最たるものが、生まれてきておるなと。
 まとまな話し、良い話し、身に付く話しは聞きとうない。難儀なこっちゃね。ほんとに困った世の中やけれども、困った困った言うてられへん。身近にそいうことが起こっているのでぜひともおかげを頂いてもらいたいもんじゃと思います。有り難うございました。

(平成十一年一月八日)

命がけの御本部参拝

 一月十日の日には御本部へ大阪の地区として皆さんで、年賀参拝のおかげを蒙らして頂きました。大体この日曜の年賀参拝には、京都、神戸の各ご信者さん方、お教会の方々ともお参りなさいまして、そうですね総勢三千名から四千名程度の参拝者数ですね。ですから、お広前もすぐ一杯になりましてね。それで、お結界の金光様お届けもズーッと並ばないかんというようなことでありまして、御大祭の時には、それこそ何万ということになりますから、お届けは、教主様にお取次頂くのは、教会長のみになっておるんですけれども、お正月は大祭ではありませんので、どなたでも教主様にお取次頂いて、新年のご挨拶を頂けることになっております。
 ところが、皆さん方は大勢来てますからね、普通一般信者さんは、金光様の所へお取次願うのを遠慮するんですね、どうしても。そして教会長がその教会代表でね、新年のご挨拶にお取次頂くんですけども。それでも、順番待ちの中にご信者さんがちらほらおられる。
 それはかまいません。どなたがお取次いかれても、どなたがいかれてもかまわんのですけども。ちらほらおられるのがわかる。ちょうど私の前におられたご婦人、そうですね五十前後、もうちょっと年いってますかな。パッと見たら分かる。態度で分かる。「ああ、この方はご信者さんやな」と。私の方向いて「すいません。すいません」。
 「どなたでもいかしてもろうてええんですよ。今日は御大祭違いますから、ええんですよ、かまえしません。かまえしません」いうことで、小一時間待って、やっと金光様のお取次を頂いたんですけど。金光様も大変や。何千という方にご挨拶を受けられるんやからね。


 やっとこさ、順番回って来て、そのご婦人がお結界行かれて、
 「昨年は、命の無いところをお助け頂きまして、有り難いことでございます。信心が浅いのに、ここまでおかげを蒙らして頂くことが出来ました」言うて、涙ながらにお取次頂いておられるのね。
 まあ、お正月のことですから、ほとんどの先生方は「あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします」後ろ並んでるの知ってますからね。ようけ並んでますから、はい、続いて「あけましておめでとうございます。今年もどうぞ、よろしゅうに……」ま、言うたら流れ作業みたいなもんじゃ。はっきり言えば。そやないと後ろ、気の毒やもんね。ずっと並んでますんやから。
 その人が何分ほどお取次を頂きはったかな。しかしそれをじっと聞かしてもろうて、この人は命がけでね。今日お参りなされて、我々からみたら何千人という人数を見るか分からんけれども、この人はたった一つの命、その一つのかけがえのない、その人にとって一番大事な命のおかげを頂かれたら、それはもう何十分お礼を申されてもね、申しきれんじゃろうと思う。その方は「すいません。すいません」言いもって、金光様にお礼のお取次を頂いておられました。どこの教会の信者さんか知りませんけども、胸にジーンとくるものがございました。


 こうして、「お正月や、皆でお参りしようか」とまあ、軽い気持ち言うたらいけませんけどもな、年中行事の一つのようなもんで、「年賀やで、参りしようか」、扇町教会も殆どそっちの口やろう、しかし中には、そのように命の無いところをお助け頂きましてという、ほんとうに命がけでお参りなさっている。お方たちもその中におられるやなと思うてね。有り難いことやなと思うた。
 それを金光様は一辺に引き受けられて、お取次なさっておられるんやなという思いをさいてもらいまして、その人どのくらいお取次頂きはったか知らんのですけども、「気にせんとしっかりとお礼を申されるようにと」思うて後ろで控えとりまして、やっとこさ番回ってきたんですけども。並んでからの待ち時間は一時間以上掛かっておるんですけども…。その間ズーッと他の信者さんも待ってるんやな。
 しかしそれよりも大事なのは、一人一人がおかげを受けるということ、助かっていくということ、それが大事なことやな、改めて、どこの誰かも知らん、どこのご信者さんかも、お名前も何も知りませんけども、「はあ、良かったなあ」とお礼の思いを持たせて頂きました。有り難うございました。

(平成十一年一月十一日)