不信心者ほど神はかわいい
不信心者ほど神はかわいい。信心しておかげを受けてくれよ。(『天地は語る』三四)
今朝も御祈念の時に、神様にお詫びとまた続いて、お願いをさしてもろうたんですがね。このようにご信心さしてもろうてるいうても、気ままばっかりして、ウロウロ、ウロウロばっかりして、神様に喜んで頂けるようなことが、どれだけ出来たやろうかなと思うたら、ご迷惑掛けっぱなし。ちっとは、ましになったかいなと思うたかて。はあ、どうもましになっとらん。お願いごとだけは、「あれもお願いします。これもお願いします」と。何なりと願えとおっしゃってくださるのやから、そういうふうに神様にお願いしとるんやけれども、「お前、どうなってんや」言われたら、おっとっととと……言わないかん。それでも、神様は今の御理解のように、「不信心者ほど神はかわいい。出来の悪い者ほどかわいい」と。このように仰せくださって、ほんとにどういうですかな。ようも、ようもご辛抱くださってるな、という思いをさして頂く。ほんとにご辛抱くださってるなと思わさしてもらう。
人間社会では、「あいつ信用できへんで」となる。人間と人間の社会は、適当にごまかすことが出来ますからな。ところが、神様はごまかしきかんのやからな。丸まるやからな。おトイレに入ってる時も、ブツブツ思うてる時も、愚痴不足ばっかり思うてる時も、あいつ死んだらええのにと思うてる時も、人には言わしませんで、「あんた死んだらよろしおまんねん」と言うたらえらいこっちゃ。「そやけど、あいつ死にやがったらええのにな…」と。それは、神様見抜き見通しですものな。じっと見ておられる。それでも、おすがりしていきゃ、守ってくださるし、導いてくださるし、恐れ入ったこっちゃなと、しみじみと思わさして頂きます。
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この年末になると、めったにお参り出来ない人が、段々とお参りになる。「ご無沙汰をしております」と、私に言わんでええのに。神様に言うてくれたらええのに……。私に「ご無沙汰をしてます」と言う。私に言わんと、神様にな。それでも、守って頂いとるんじゃから、言い訳せんでもええ、「それでも、お守り頂いとります。勿体ないことでございます」と言うてな、お礼申すことが大事なことで、ちっとぐらいましになるように、ちょっとぐらい神様に喜んで頂けるような、来年にならして頂かなと。
毎年このような反省をしておるんですけども、どうぞ、ちっとぐらいましにならしてもらいたいもんじゃなと思わさして頂きます。有り難うございました。
(平成十年十二月二十五日)
ポックリ祈願カード
神へは何でも願え。神は頼まれるのが役である。(『天地は語る』三八)
昨日のニュースでね。パソコンのインターネットを使うて、自殺志願者に青酸カリみたいな毒物を宅配便で送った。それでその人が死んだと。今朝もまた朝刊見ましたら、他の人も注文して死んで、送り主も死んでおる。これ大きな社会問題やいうことで第一面で出てますけど。
そのニュース、「インターネットで自殺助けます」いうやっちゃな。別の言葉で言えば、「あなた死にたかったら、お助けしますよ。三万円で」と。必殺仕事人いうのはあったけどもね。テレビでね。「自殺お助けしますよ」ということなの。
人間は時によったら、「死にたい」ということがほんとにあります。「死んでしまいたいなあ」と。苦しみから逃れたいということが、実際に人生の中に経験をすることがありますけども…。
そいうふうに辛いことから逃げたいという自殺と、お年をいかれて、「ポックリ逝きとうおますな」とがある。「あんなにボケんとポックリ逝きたいですな」、いうようなことを時々耳にする。
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昨日晩御飯の時に、そのことが話題になってね。扇町教会ではご承知のように誕生御礼から出産懐妊、あるいはまた入試というふうに。各人生の大切なことの祈願カードがありますわな。日々御祈念さしてもろうて、月例祭には、その願い主が、玉串奉奠してお願いする。また、こちらもその名前を読み上げて、「こういう願いでございます。願い主は彼々でございます」と。こういう願いでございます」と神様にご報告申し上げてる。
それで昨日、「ポックリ逝きますようにの『祈願カード』はどうやろう」と。「ポックリ祈願カード作ったらどうやろう」と。願い主は嫁。息子とかな。これやりにくいやろうな……。本音の世界は案外しにくいものやな。
「ポックリ祈願カード、願い主嫁。相手姑」これ書いたらどうやろな。ほんなもの読まれへんが……。もうねー、難しいなー。半分冗談で、半分真剣で大笑いしつつ、日々神様に「どうそポックリ逝きますように、ポックリ逝きますように」とお願いするんかいな。これもまた困ったこちゃなと。言うて…。
奈良県の方でしたか。ポックリ寺がありましてな。よう団体で皆行かれて、そこのお守り頂いたら、老人ボケせんと、ポックリ逝けると、寝たきり老人にならんと、ポックリ逝けるということで非常に流行った時期がありました。うちの信者はんも行った人がいてるねん。それな。
「そない、心配しいな。直ぐポックリ逝けるように御祈念したげるがなー」
「いや、先生もうちょっとな、もうちょっと生かしてもらいたい。」
「あんた、ポックリ逝きたい言うたが…」
「いや、もうちょっと…」
「ええ加減やな。あんたもええ加減なこっちゃなー」と。
半分怒って、半分笑うたんですけどもね。
そう、誰しも痛い辛いせんとな、死ぬことは分かってるんだから、ポックリ逝きたい。また、迷惑掛けずに逝きたいと、これ本音よ。なかなか本音のことは、祈願カードでは御祈念しにくいな。祈願カードでは本音のとこはなかなかしにくいな。これは、なんか一工夫ないかな。なんか一工夫したら、御祈念できる。「ポックリ逝きますように、ポックリ逝きますように」も出来にくいしなと思うた。
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私の父親が高齢になってきまして、家内やら私によう晩御飯の時に言うた、「今にみとれ、ボケたるからな」言うて。「今にみとれ、獅子婆(下の世話)の世話を思いっきりさしたるからな。今にみとれ……」半分脅しを掛けていましたけどね。
私はね、願ごうてたん違うかなと、今思い出す。我々若い者にね、「そんな世話はさせんよ」ということを逆言葉でね、言うてたん違うかな。「今にみとれ、ボケたるからな。獅子婆の世話さしたるからな。覚悟しとけよ」言うてね、こういうことを言うておりましたけども。
あれは逆言葉やってんな。「どうぞ、そいうことがございませんように」ということを、日々お願いを一生懸命にお願いをしてたんじゃろうなと。そやから、そいうことなしで、亡くならしてもろうたけどもね、最後までボケることなど、一切なしに、おかげを蒙ってさしてもろうたんですけどもね。
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教祖様は「何なりとも実意をもって願え」と。「こうあったらええのになあ」ではなしに。そのこと本気に願わないかんな。「こうあったらええのにな」。誰でもそうや、ボケたない、世話を掛けたない、みんなその通り。しかしそれを本気に願ういうことが大事なことですな。
父親の場合は本気に願うてたんやなと。それを裏返して冗談半分に、「今にみとれ、こらー、わかっとんか、ボケたるからな。獅子婆の世話さしたるからな。今にみとれ」。晩酌頂いたらそんな冗談をよく言うてた。
それを聞くこっちは、「えらいこっちゃな。ほんまにボケよったら、どないしようかいなと」これも本音や。「ホンマにボケよったらえらいこっちゃな」と思うた。
しかし、本気に願うてたんでしょうな。「こうあったらええのにな」ということと、「本気に願う」いうことはまた、別やわな。皆こうあったらええのにな。信心せん者も皆、こうあったらええのになあとは思うけれども、本気に「どうぞ、ボケて周囲に迷惑掛けませんように。よい年の取り方をさして頂きますように、そして、長患いをせずに神様の元へ帰らして頂きますようにということは、やはり本気に願わないかん大切なことやなと、思わさせて頂きます。有り難うございました。
(平成十年十二月二十六日)
あなたは七代前の霊が祟っておるー
今から二十年ほど前になりますかな、二十歳代のお方が来まして、今もう四十代になっておられるんでしょな。ダスキンの手拭いやら、絨毯やら、靴ふきとか、あんなんをチェーン店で販売してる一生懸命に働く子ですけども。その子が入って来まして、私に「先生、私に何か霊が付いてますか」言うて、「私知らんけどな。何でそんなんの問題なるのや」いうことを聞いた。するとその子が、二十歳過ぎたぐらいに友達と一緒にドライブして、友達が運転してたらしい。若いから暴走したんやな。防波堤みたいなところへつっこんで、車が大破した。それで「むち打ち」になったんやな。それで、「むち打ち」いうのはなかなか治りにくくて、色々治療したけど、天気の悪い日やらはしんどうて、しんどうてたまらん。一生懸命商売して頑張らしてもらおう思うんやけれども、もうむち打ちがしんどうて、しんどうてたまらん。お医者に行ってもなかなか治らん。
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あるとき、新聞の折り込みに「どんな難病でもすぐに治る」というチラシが入っておった。吹田の方のマンションの一室であった。「どんな難病でも霊力をもって治してやる」と書いてあった。もうお医者はん行っても治らへんし、一辺行かしてもらうかと、吹田のとあるマンションに行ったんやね。
ドアを開けると受付があるの。そしたら、二、三人のおばちゃんが、受付に座っておる。それで、自分が受付の部屋へ入ったら、おばちゃんたちが「ここの先生はすごい御霊徳がある。私はこんなに治してもらろうた。あんなに治してもうろうた」と二、三人のおばちゃん方が話ししてるの。「はあ、ほんまに治るんやな」と…。いうことで、「ひょっとしたら、私のも治してもらえるかいな」と。順番回ってきて、向こうの巫女さんみたいな人が出てきて、「住所氏名、問題点などを書きなさい」と。病院で書くやつと一緒や。住所氏名から、生年月日、職業は何、年収までなんぼと書いてはるの。
「しばらく待ちなさい」それで、次名前呼ばれて、次の部屋に入った。そしたら、薄暗くしてあって、それで、御簾もしてあって、大僧正みたいな格好してあって、男の人が水晶の玉を見てる。
「見える。見える。七代前の霊が祟っておるー。七代前の霊が祟っておる。この霊を除霊しなければ、あなたは、今年いっぱいの命である。」いうことなの。
ご祈祷が終わりはって、「今、お告げがあったように、あんたはこの霊を除霊せんと、今年中に死ぬ。えらいことや。そんな若い身空で、かわいそうなことである。ぜひとも、助かってもらわねばならん。まだ結婚もしてないんじゃろう。かわいそうに、私が毎日、毎日祈祷してあげよう。一日五万円、一日一回祈祷してあげるから、一年間私が祈祷したら、この霊は、取れるから…」
一日一回五万円の祈祷料。彼計算したん。
「五万円いうたら、十日で五十万円や。三ヵ月で五百万や。僕はそんなにお金ありません。」
「そうか、君はお商売してるんやろう。」
「私はお商売したてで、そんなに資金繰りもようありません。」
「それは、気の毒に、三万円にしてあげよう。くれぐれも言うとくよ。君は今年中の命やぞ」とそれ言われて、三万円出すべきか、今年中に死ぬべきか、ほんで表をフラフラ歩いてた。ほんで教会へ入って来た。
「先生、七代前の霊に取りつかれてるでしょうか。」
「ちょっと待て、あんたお父さんお母さんおるな。またその上のお父さん、お母さん。またその上のお父さん、お母さん。またその上の……。何人いてると思う。どの霊かもう一辺聞いてこい」言うて…。
「へっ!」
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「確かにむち打ちは辛い。むち打ちは辛くて早く治らしてもらわないかんのやけれども、しかし、ゴツンと若気のいたりでやったやろ。それを先ず認めなさい。それで、あんた運転した友達恨んでたやろう。」
「はい、恨んでました。あいつが下手な運転しやがって」と。
「恨んでるやろ。あんたもチョボチョボや。たまたま、あんたが運転せえへんかっただけのこちゃがな。若気のいたりでやったやろ、それを先ず神様にお詫びしなさい。向こうの運転手さんどうやねん。」
「運転手は半身不随や。」
「かわいそうに。」
「運転手さんは半身不随になっておる。あんたは、むち打ちや、たまたま友達が運転しただけのことであって、あんたが事故起こしてかわからん。同じことや。チョボチョボや。先ずそれをお詫びして、そしてそれを一旦認めて、そうでございますがどうぞ、お仕事をさしてもらいますようにとお願いしていき。」
「ここは、五万円取れへんから、心配すな。祟りじゃ言わへんから、心配しな。一つだけ教えといたるわ。宗教いうのは、素晴らしいんやけども、『宗教まがい』というものがあるからな、気を付けや。それは、人の弱みにつけ込んで、色々なこと言うのを『まがい』というの。ほんとの宗教はな、しんどい目してる人に、『あなたはもう死ぬ』そんなこと言うか、『大丈夫ですよ』というのが、人というものや。」
「病人さんとこ行って、あなたは『もう死ぬ。もう死ぬ』言うて見舞いに行くか。『大丈夫よ。元気出しなはれや』それが人間いうものや。死にかけてる者に『あんたほんとにダメです』誰がいうかいな。アホなことに引っ掛かったらダメ。しかし、そんなのが一番恐いんやで、お金の問題だけで済んだらええけれども、精神まで攪乱されてしまうで。頭まで攪乱されてしまうで…」と教えてあげた。
「あんたこの辺回ってるのか」
「回ってます。そしたら、毎日おいで、毎日来たら、お参りして帰り」言うて…、…来ました。一年経ちました。
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「先生死んでません。やっぱり気になってましてん。」
「それは人間言われたら気になるわな。」
「ほんまにええ加減なもんですな…」
ということなんですが…。
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教祖様は他宗を非難するなと言われています。それぞれに素晴らしい宗祖、開祖の教えがあり、素晴らしいものがあるんですが、気を付けないかんのは、『まがい』に引っかからんように。金取られて、壺買わされるぐらいで済めばええけれども、正常な精神までも、ものの見方考え方までも狂わされてしまうのでね。マインドコントロールされます。向こうにとって都合のええようなことを教えていきます、食い込んでいきますでね。これからおかしな時代になって、益々おかしいのが、雨後の竹の子のように出てきます。気を付けさしてもらわないかん。しっかりと天地の親神様様に根ざして、まともな信心をさしてもらうことがいるんじゃないかと思います。有り難うございました。
(平成十年十二月二十九日)
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