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通っておかげ、すべっておかげ

 大阪市の東に八尾というところがありまして、八尾にも教会がありまして、教会長先生は国東先生とおしゃって、四十代の後半の先生ですね。この先生は元々ご信者さんでして、大阪の野田というところ。大阪駅から環状線で二つ西へ行った所、丹羽先生のお広前ですが。その野田教会のご信者さんで、ご家族が揃ってご熱心にご信心しておられました。そして、国東先生も、小学校四年の時から、野田教会へ日参を欠かしたことがない。ご家族はご両親とお姉さん、そのお姉さんも同じく大阪の神津教会の鈴木先生とご結婚なさっているんですけどもね、家族総あげで、ご両親とお姉さん、お婆さんとで五人家族、それぞれが日参をなさって、熱心に御用なさったり、ほんとに一生懸命の家族勢信心であります。
 その国東先生が高校をいよいよ卒業して、大学受験の時でありまして、その前にお姉さんは、二つ上ですかな、そのお姉さんが神戸大学へストレートで入学しておる。自分もご自身も大阪の教育大学へ入学したいという思いを持って、他どこもすべり止めを受けんと、教育大学一本で勉強に励んだ。
 いよいよ、入試を控えて一ヵ月前ですけども、急に体調がおかしくなって、もう、起きてられんようになった。そしてお医者はんに診てもらうと、肝臓が非常に悪い。入院するかどうかというようなところまできておった。もう後一ヵ月程で、入試が目の前にきてるのに、毎日毎日、日参してるのに、小学校四年生から日参してるのに、いよいよ入試の本番、一ヵ月前に肝臓がやられておって、とうとう受験ができんようになってしもうて、非常に残念なことであった。しかし、家族の者に励まされ、教会の先生に励まされ、一浪している。また教育大学受けさしてもらおうと、一浪した。


 それで、今度入試の時期になってきたら、今度は、五校、六校とすべり止めをもって、一番本命の大阪教育大学を受ける。教育大学は国立ですから、一番ラストにあるねんね。それまで私立の大学があって、教育大学は一番ラストに試験がある。それで、私立の大学受験頑張ろう思うたら、また一ヵ月前に、肝臓の数値が出てきた。「入院するか、即刻ベットを開けるから、即入院…」とお医者はんに言われた。
 帰って来てもうガックリきて、「どうしよう」ということで家族中、額を集めて、「人生、先長いんやから…」と。自分としては、一浪して、お姉さんはストレートで神戸大学通っているし、自分も昨年も自信あったしと。毎日日参してるし、「ぜひとも受けたい」と。「押して受けたい」ということを家族中に言うた。
 日参してるけど、朝参りは時々しかしてへん。家族の者も務めの都合やらで、朝参りはしてない。家族中五人、「この一ヵ月間、朝参りさせて頂いて、試験を受けれる体になるようにがんばろう」ということで家族中の願いが一決した。そして自分も体がえらい。肝臓で動いたらいかんと言われるところを、励まして、励まして、また家族の者にも励まされて、家族五人朝の御祈念に参拝して、頑張らしてもろうた。


 一ヵ月経ちました。いよいよ入試です。病院行きましたら、数値が下がって普通になっておる。「はあ、おかげを蒙った。神様、聞いて下された、家族中手をとって、喜んだ。さあ、これなら入試いける」ということで、喜び勇んで入試を受けた。
 私立のすべり止めが順番にある。四つか五つ言うてましたかな。すべり止めが。すべり止めが四つも五つもことごとく、すべり止めがすべるの。しかし、自分としては、「これは神様のおかげや。あの大変なところ、即入院だと言われた肝臓。それを家族中勢信心さしてもろうて、見事に治して下された。これは、すべり止めでいらん入学金のお金を使わんと、本命の教育大学、そこへ始めからそこ一本で行かしてもろうたら良かったんやと。きっと神様はそうに違いない」と。いうことでラストにある教育大学を受験した。自分なりに書けた。「はあ、神様恐れ入ったこちゃな」と思うた。
 さて、発表を見た時に、その本命の教育大学もすべっておった。もう自分は何がなにやら訳がわからん。「信心って、何やろう。神様って何やろう」と迷いが出て、ガックリきて、その発表を見に行ってすべってたー。ということで落胆して家に帰って来た。
 すると、お母さんが「教会へお届けに行かして頂こう」と。もう行きたくないねん。自分としたらな。全然行きたくないの。お母さんが、「さあ、教会へ結果のご報告へ行こう」ということで、母親に連れられて行った。その時にお母さんがね、お供えに分厚いお供えをされるの。「有り難うございました。残念でございましたが、すべらしてもらいましたと。これは、入学金に予定いたしておりました、私立に通ってもええように入学金に予定致しておりました金額でございます。もうこの子は、大学を、神様辞めておけととおっしゃっておられると思います。有り難うございます。この入学金は神様にお供えをさして頂きます」いうて、準備しておった大学の入学金をお供えになされる。
 自分としては、こんだけ一生懸命に朝参りして、家族揃うてあそこまで一生懸命になっていたのに……。おまけにその入学金までお供えする。「なんじゃいな」と思うた。有り余ってるお金じゃない。サラリーマンさんの家ですんで、有り余ってるお金じゃない。「うわー」という気持ちになった。一体なんじゃいなと思うた。どこがおかげなんだ。どこが有り難いんじゃと。という心持ちで悶々とした日々を過ごしてる中で、「通るのがおかげか、すべるのがおかげか」ということが段々、段々分からしてもろうてきた。
 皆通らんとおかげじゃないとみてる。通るのがおかげか、通らんのがおかげか、というお前そのまま通っておいてみい、どうなるか、お前は、「どうぞ肝臓を治さして頂きますように、受験出来る体にさしてください。」二年続いて、肝臓悪い身体で受験出来る体にさしてくださいませということで、家族中勢を揃えてお願いして、受験出来る体のおかげを蒙った。がそのまま、大学へ行ってよいということではない。そのままでは、体をほんとに潰してしまう。二年続けて、神様がお知らせくださっていた。
 ところが、こっちは、受験の前にこんな病気になってと、そっちばっかりに心がいっておって、二年続けて神様がお知らせくださっているのが、分らなんだいうことが、信心で段々見えてきた。そこをお母さんは「有り難うございました。受験をさして頂きまして有り難うございました。すべらして頂きまして有り難うございました」というて、入学に準備しておったお金をお供えなされたことに気が付きましてね。
 自分の生き道をこれからどうしたらええのか、ということが問題になってくる。そうしたら就職さしてもらおうということで就職したが、やはり体調がおかしい。悶々としておった時に、親先生から「御本部でご修行さしてもろうてお役に立ち」と。「御用さしてもらうことは、そんなに体使わんでもええし、そんな体でもこんだけお使い頂くんだというそれをお手本にさしてもろうたらええ」と。いうことでお取次くだされて御本部へ行かして頂いた。八尾教会の先代先生がご高齢で後継者がないと。いうことで後継に入らしてもろうて、わずか五日で、先代先生がお隠れになる。そして今、元気に御用に使うて頂いております。
 ですから、通っておかげ、すべっておかげ、と真剣に向こうたら、これ真剣に神様に向かわなんだらね、「あかなんだ。まんまんちゃんしたかて、あかなんだ…」いうようなことになる。真剣に神様に向こうた時に通っておかげ、すべっておかげがある。ましてお母さんは見事にそこのところ、「これは、おかげのことじゃ、神様がお働きくだれてることじゃ」ということがピシィとお分かりになってね。神様に通じている。ですから「まんまんちゃん、あん」しても神様に通じな、通じる信心をさしてもらうことがいろうかと思います。見事におかげを頂いて、今日大変な御用を日々され、多くの人を助ける身になっておられます。有り難うございました。

(平成十一年三月十一日)


内なる神様が揺り動く働き

 自分のことは次にして、人の助かることを先にお願いせよ。そうすると、自分のことは神がよいようにしてくださる。(『天地は語る』三七一)

 今日のみ教えでふと思い出したことがありました。「自分のことは次にして、人の助かることを先にお願いせよ。そうすると、自分のことは神がよいようにしてくださる。」
 みんなこう、自分の問題を抱えておりましたら、なんとかその問題を早く解決したいということでキリキリ舞になる。これは、お金のことやら、物のことやら、子供のことやらと。あるいは家庭のことやらということになります。ほとんどその場合はそこへ没頭してしまう。問題をもって、その問題にはまり込んでしまういうことがあります。


 病気も大きな問題でありましてね。あることで聞かしてもろうたことがあるんですが、同じ病室で病人さんが、六人なら六人寝てる。その中でその病気に囚われて、もう先の不安を持ち、「しんどい、しんどい。辛い、辛い、私ほど人生の不幸な者はない」という病人さんと。「はあ、自分も辛い、辛い。しかし、横の人も辛かろうな」と思うて、「自分も体えらいが、ちょっとでも、横の病人さんを助けるお手伝いをさしてもらおう」と。
 「自分もこんだけ辛いんだから、同じ病室で寝ている他の人のお世話をさせて頂こう」と。そう思うて、「どれだけのお世話も出来ませんのやけれども、わずかでも自分がこれだけ辛いんやから、横の人ももっと辛かろう。そうに違いない、気の毒になあ。」と思えて、お世話が出来る人はね。早く退院が出来る、早く治るということを言われたお医者さんがおられまして、「なるほどな」思いました。
 自分の問題にはまり込んでしもうて、辛い、辛い、暗い暗い、病気だけではなしに、すべてのことにおいて、自分の問題にはまり込んでしもうて、「私ほど不幸な者はない。私ほど辛いものはない。私ほどしんどいものはない」と不安の中、辛さの中へはまり込んでしまいましたら、なかなかそこから抜けら出すことが出来ません。助かっていくことが出来ないものなんですね。
 確かに、辛い、しんどいなんだけれども、その中でも、お役に立たせて頂くんだ。お使い頂くんだという思い、その中でも、自分はこれほど辛いんだから、逆に人様ももっと辛かろうと、人様のことを願えたり、人様のことを助かるお手伝いが出来たり、すると、天地が動くんですね。
 そもそも人間というものは、神様から頂いている神心がありますからね。神様の魂がありますから、魂が、内なる神がね、揺り動いてくるんですね。働きをしてくる。
 みんな、外にある神様、上からの神様が自分を助けてくれるように、くれるようにと、思う。「自分はこんだけ辛いんやから、神様早くおかげを下さい。上から、こう授けてください」という心へ、すぐなるんですけれども、そうじゃなしに、内から頂いている神様が動き出す。働き出す。
 そうしますとね。上なる神様と、内なる神様とが共鳴しおうてね。ズーっとおかげを蒙っていく。「よう、不思議なおかげを頂きました。不思議なおかげを頂きました」とおっしゃるのは、内らなる神様がね、動きだすんですわ。そうしますとね、天地の親神様とそれぞれが頂いておる神様とが共鳴しおうていってね、おかげを蒙らして頂く。辛ければ、人を助ける。逆にね。辛ければ人を助ける。


 これ、勉強もまた同じことでしてね。人に教えようと思うたらものすごく勉強が進むんですわ。自分だけで、自分の勉強をしてただけでは、「これ、なんのこっちゃ」と分からん。ところが、人に教えんならん、友達に教えんならんと思うて勉強したらね、ものすごく身に付いていって実力が上がる。
 「ほんなん、友達どころのことか、自分がやらな。自分のことやないかと。自分の成績やないか」というところで勉強する子は、あんまり伸びないと言われてますね。「人様に教えさしてもらおう。友達に分からんところを教えさしてもらおう」と思うて勉強する子は、勉強がズッーと伸びる。人様の助かりに心を向けさしてもらおうと思うたら、グッと神徳が付いてくる。
 「それどころじゃございません。私自身がヘトヘトでございまして」と。ほとんどの人がそういうことでありまして、天地の道理の中で、内なる神様が動き出してくる。内なる神様が動き出して、外の神様、天地の親神様と共鳴しおうていく。それが生神金光大神になられた教祖様の日々の生き方であったんだろうなと思う。


 「自分のことは次にして、人の助かることを先にお願いせよ。そうすると、自分のことは神がよいようにしてくださる。」このみ教えはそういうみ教えですね。これが天地の道理というものです。自分がえらけりゃ、しんどけりゃ、人様もしんどい。そのしんどいことを「どうぞ…」と。
 また、自分が勉強難しいなと思えば、友達も勉強難しい。その友達に分かってもらいたいと思うて勉強すれば、ズッと働きがようなってくる。実力がついてくる。これが天地の道理というものです。
 昔から「女は弱し、されど母は強し」という言葉がある。普通の女の人は弱い。しかし、子供を持って、子供を守らないかんと思うた時の母親は強しと。大変な力を持ってくるというようなこと。これは天地の道理ですね。この天地の道理を、案外知らない人が多いです。有り難うございました。

(平成十一年三月十二日)

金や銀のメッキの信心

 金や銀のメッキというものがありますね。張りとも言いますけど、金張りとか銀張りとか言いますね。他の金属の上に、あるいは他の物の上にそれを張ったり、メッキをしたりする。それを見ておりましたら、非常に美しく見える。金は金として見える。そりゃあ、上に張ってるんですからね。銀は銀として見える。ところが、コツンと当たったりしたら、ポロッとそのメッキが剥げる。あるいは泊はとれてしまう。いうようなことがある。


 信心も同じことで、端から見たらご熱心なお方やな。よう出来られたお方やなという方がたーんとおられるんですけども、なんぞ、コツンと事があった時に、その人がメッキであったか、ほんまものであったか、ということがね、見えてしまう、分かってしまう。
 コツンと物に当たったり、その時にポロッと取れてまう人が、非常に多いですね。それはまあ、メッキの話で言えば、他の金属の上に金や銀を塗っておる。ということで分かり易いんですけども。
 これを人間で見てみたらどうでしょう。その自分の持っている質と、信心の質と、違うんですな。自分の質は質としてあって、ほんでまあ、信心という質を塗ってある。何ぞことがあったら、自分の質がポーンと出てくる。いうことになってしまう。そうすると、さて、という時におかげを受けることが出来ない、助かっていかない信心になってしまう。その自分の持っておるものを良いものにさして頂く。神様の思し召しに叶うような、良いものにさして頂くいうのが大事なこと。そうすると、「私は出来ません」ということになってしまうけども、みんな、神様から良い心、神様から真心というものを頂いております。
 ところが、世間で生きていく上において、世間ばかっり目がキョロキョロ見とりますので、損得の計算ばっかりせないかん。あるいはまた、自分が自分がとか。侮られたとか、こんなんされたやとか。そんなことばっかり気になって、肝心の自分の神様から頂いた、自分の素晴らしい原石を磨こうとしていかない。みんな素晴らしい神様から頂いた神心という原石を頂いておるんでありまするけども、それを磨こうとしていかない、いうところにね、信心のメッキだけ上にパッとしている人が非常に多いですね。そんな人は、何ぞことにコツンと当たって、ポロって取れてしまう。


 「真に有り難しと思う心すぐにみかげの始めなり」。有り難う思わないかん。と思うんじゃなしに、「はあ、もったいないことやな、恐れ入ったことやな」と常に有り難いことやなと、それが、「感謝しなさい。はい、感謝します」というような程度のもんじゃなしに、「今、我ここに生を受けておる。」特別の物をもろたから、有り難いというような、そんなことではない。上手いこといったから、有り難いという、そんなもんじゃない。「今、我この天地の間に生を受けてあり、真に有り難しと思う心、すぐにみかげの始めなり」と。「はあ、もったいないことやな」というこの命からのお礼。状況は色々あるか知らんけれども、この命からのそのお礼をね、ズッーッと出てくる。そいう信心をさして頂きたい。
 「有り難う思わないかんで、思いまっせ、さあ、思いましたか」まあ、それも稽古の一つか分かりませんけども、それは、メッキですな。「我が身は神徳の中に生かされてあり」神様のお徳の中、そのものに生きておる。生かしてもろうてある。
 それはね、よちよちの孫を見ておりましたらね、ほんとにそのことが分からしてもらえる。ほんとに神様総掛かりで、この小さい命を天地総掛かりで生かしておられるということがね、しみじみと見さしてもらえる。そうするとそのお働きは私にも頂いておる、世の中のすべての人に対しても、もったいことやなと。先ずそのお礼からさしてもらうことが、いろうかと思います。有り難うございました。

(平成十一年三月二十四日)