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信心友達は「両刃の剣」

 人に助けられなよ、人に迷惑かけなよ、人の世話にならぬのが神様のおかげじゃ。(扇町教会発行『日めくり 一言一句』より)
 ■解説■ 信者同士親しくなると、神様に頼まずに、信心友達を頼ってしまいます。人はそれそれに精一杯生活しているのです。その人を当てにするのは、その人を苦しめることです。神様が抜けます。信心友達は信心の共磨きです。

 信心に連れはいらない。ひとり信心せよ。信心に連れがいれば、死ぬにも連れがいるであろう。(『天地は語る』九九)

 今日の日めくりのみ教え、これはほんとに難しいことでして、信心初めと申しますか、飛び込んで来て「助けてください」と神様にお願いする。そして教会に入らしてもろうて、神様に向かわさしてもろうておかげを頂く、先生にお取次頂いて御祈念頂く、「有り難いことや」それでおかげ頂いた。「はあ、ええとこへご縁頂いたな、嬉しいことやな」。それで、参っておる信者を見たら幸せそうに見えてくる。結構なこっちゃな。そして、皆親切にしてくれる。
 そうしてくると今度、神様は声も無し、形も見えずですから、その親切にしてくれる、あるいはまた、同じ教会、同じ信心の仲間であると、その共通のところが生まれてくる。これまた、大事なこと。非常に大切なことなんですが、ここで間違いが起こってくる。
 神様に向かわんと、その人に心が向いていく。心がね。
 初めのうちは「有り難うて、有り難うて」おかげ頂いたら、神様に一生懸命になってくるんですが。今度、新婚さんみたいなもんやな。「うれしゅうて、うれしゅうて」と、段々年月が経ってくると、ブツブツが出てくるわな。初めのうちはブツブツ出えへん。一緒にいてるのが嬉しい。お参り出来るのが嬉しい、ということなんですけども。年月が経ってくると、教会に対してブツブツが出てきたり、色々なブツブツが出てくる。
 そうしてくると、その親しい仲間が共にブツブツやり合いするの。家族みたいになってくるからね。そうして、ブツブツをやる。ブツブツがブツブツを呼び出してくる。ブツブツぐらいで済んだらええんですけど、ブツブツが行き過ぎて、結局足を引っ張り合いして、おかげを落としてしまう人が、多いですね。「ああ、熱心な人がいてたな。こんな熱心な人がいてたがな。あの教会にもおられたな。扇町教会にもおられたな」、という方達の九割の人たちが、途中で信心を落としてしまう。
 そう言う意味では、ほんとの「子孫繁盛家繁盛」は難しい。代を重ねておかげを頂いていくいうことは、ほんとうに難しいこと。


 教祖様のみ教えで、天地の道理に叶うてないことが一つある。天地の道理を説いておられるんですけど、天地の道理に叶うてないことが一つだけある。それは、「子孫繁盛家繁盛」なんです。これは、願いであって、「親苦労・子楽・孫乞食」がね、だいたい天地の道理なの。そうせんと、金持ちいつまでも、金持ちでしょう。番回ってこな、貧乏人も、番回ってこないかんからな。「栄枯盛衰世の習い」というて、栄えては滅び、栄えては滅びするのが、天地の道理なんですわ。それが、教祖様は「代を重ねておかげを頂く」と。願いですな。教祖様おっしゃてるのは、これは、願いですな。なかなかこれが出来にくい。代を重ねておかげを頂いていくいうことは、本当に出来にくいものです。
 ですから、「あんだけ熱心やったがな」という人、その九割以上、九九パーセント近くが、その信者さん同士が親しくなって……。親しくなることは結構なことなんじゃけども、親しい中からブツブツが出だして、神様や教会に対してブツブツが出だして、そして、そのブツブツが困じて不平不足になって、神様へ向く心が向かんないようになっている。「それで、信心してます」と言うてるんですよ。
 信心初めは、「えらいことです。先生、お願いします」言うてお願いして、御祈念もする。
 「先生、有り難うございます。教会有り難うございます」と。
 もう、嬉しいもんやから、そうなる。それが段々おかげを頂いてきて、教会も何もかも当たり前になってくると、ブツブツになってくる。
 これは新婚さんと同じや。「一緒になりたい、一緒になりたい」と一緒になって。嬉しい嬉しいから、ちょっと年月経つとブツブツが出る。結局ブツブツで済んだらええのやけれども、それが、離婚にまでいってしまう……。難儀せなならん。よくある話しなんでございますが、信者同士仲良くならしてもらう、共に信心させてもらう、ということは非常に有り難いことなんじゃけれども、これは、「両刃の剣」みたいなもの。
 教祖様は「ひとり信心をせよ。信心に連れはいらぬ。信心に連れがいれば、死ぬるにも連れがいろう」。信心というのは、神様と自分の命、命が神様に向こうていくと。そやから、「信心に連れがいったら、死ぬにも連れがいろうが」とこのように仰せになる。ところが非常に難しい。しかし、また教祖様は「皆で頼み合い、願い合いせえ」と。ここが、正に裏と表の微妙な、微妙なところですな。
 せっかくおかげを頂き、ご神縁を頂いておりながら、九割以上の人がおかげを落としていく、大きな大きな落とし穴ですな。
 「ひとり信心せよ、信心に連れはいらぬ。信心に連れがいれば、死ぬにも連れがいろうが」とおっしゃっておる。教祖様の時代にもあったんでしょうな。教祖様がこういうことおっっしゃるには、教祖様のご信者さんの中にも、多くおかげを落としていく人が、たくさんあったのはどうもその辺のところであったんであろうなと思います。有り難うございました。

(平成十年十二月十六日)


床の間が無くなった現代

 昨晩、こないだ結婚しました那須守親さんと、お嫁さんの真喜子さんの新居にご神殿を、お社をご奉斎さして頂く、神様と御霊様をご奉斎さして頂くお祭りをお仕えさして頂きました。守親君の両親、妹、お婆さん、私ら夫婦と。まあ都会での新居はせまくて、ご神殿新たにお祭りさしてもらうと、またスペースをとりますけどもな。スペース無いのに、それでも何が大事か。これから出発していく夫婦に、芯を、柱を頂かして頂きたいということでね。ご神殿を奉斎さして頂きました。ほんとに喜んでおりましてね。


 今年も一年終わろうとして、あっちゃ向いて、こっちゃ向いてバタバタ、バタバタして一年が終わります。しかし、一つの子が二つになりますからな。バタバタ、バタバタしてる間に一才の子が二才になり、二才の子が三才になりますよってな。ふと気が付いたら、十年、二十年という年月がほんとに過ぎ去ってみると早いもので、ピューと過ぎていく。
 この守親君も、お母さんのお腹の中からお参りしてくれた。もう、やんちゃばっかりしてくれて、お広前で暴れてばっかりしてくれて、そういう中、お広前で育って、大切なことが身に付いてきた。これ、昨日今日、にわかに、身に付け言われても付けられしませんねん。にわかに付いたとしたら、メッキや。バタバタ、バタバタして今年も一年過ぎます。また一年過ぎていく。その中にフッと気が付くと結婚する年齢になり、ご縁のおかげを頂いて、そしてまた、新たな家庭を築いていく。そこに「先生ぜひとも、ご神殿のおかげ蒙らしてもらいたい」と。あんまり給料もないのに、若いもんでお金も他に要り用もあるのにな。遊びにいくお金を削ってな。二人で遊びに行きたいわな。新婚さんや。それを削って、ご神殿買わしてもろうてな、祭りをさして頂ける、有り難いことやなとこう思う。


 こう思いつつ、今日び、みなマンション暮らし、アパート暮らしだとかということになりました。大きな一戸建ていうたら、よっぽどのこっちゃ。今日び一戸建て買うとか、住むとか、建てるとかいうことは、なかなかのこっちゃ。そうすると、小さなマンション。2LDK、3LDKせいぜい3LDKかな。
 ほんだらね、床の間がないのよ。何処にも。「そんな床の間のスペースあるんやったら、物入れにした方がええ。クローゼットにした方がええ」ということになる。
 ところが、昔は、どんな長屋の小さな六畳一間でも、小さな床はありましたな。ここが大事なことでな。はあー。今は、よっぽど大きな一戸建てにならんと、床の間がありません。
 「そんなもん、不要なもんや。そんなことよりも、物入れにした方がええねん」ということになりますな。そう、これが、今日の日本の社会を狂わす、社会全体、日本人全体を狂わしてしまう元が、その辺にあるような気がする。
 皆、合理主義、自分の都合のええ合理主義、便利なように……、いうようなことだけできた。昔は六畳一間で、三人も四人も枕並べて寝たもんや。しかし、それでも床の間があった。まさか、床の間に布団ひいて寝るわけにはいきませんでな。
 そうすると、床の間に花一輪生けさしてもらおう。あるいは、御仏壇を祭る。「仏壇をそこでお祭りさしてもらおう。神棚をお祭りさして頂こう」。その心が皆あったの。「一輪の花も、その床の間に生けさしてもらう」。
 「ほんな場所いらんがな。押入れにせえ。押入れに……」それが今ね。この合理、便利、人間中心、これが定着しきって、すべての住まいから、住居から、教育から、人間関係から、何もかもこれできて、今確かに豊かになった知らんけど、難儀ばっかりせんならん、世の中になりましたな。
 もちろん、昨日行かしてもろうたその部屋も、床の間なんかありません。しかし、そこへ台を作って、神棚をご神殿をちゃんと作らしてもろうて。ですから、四角い部屋に凸凹ができるわな。四角い部屋に凸凹ができる。
 「それでもええ。かまいません。そんなことよりも、私たち夫婦の中にしっかりとした信心の柱を頂き、結婚生活をさして頂きたい」という願いで、若い夫婦がほんとに嬉しそうでした。有り難かったなと思わさして頂きました。有り難うございました。

(平成十年十二月十七日)

お取次とカウンセリングは違う

 神は、人間を救い助けてやろうと思っておられ、このほかには何もないのであるから、人の身の上にけっして無駄事はなされない。信心しているがよい。みな末のおかげになる。(『天地は語る』二八)

 このお道は「お取次で助かる道じゃ」ということ。教祖様以来、歴代金光様が五代に渡って御本部お広前で一人ひとりをお取次くだされる。また、全国一六〇〇の教会でも御本部と同じようにお結界でお取次を各教会長先生なさっておられます。ここで助かっていくんじゃと。お取次で助かっていくんじゃということで、お道の信心の根幹をなすものでありますが。
 さて、「お取次って何や」と時々皆わからんようになってしまいはるの。「お取次頂くいうことはどういうことですか」ということが、分からんことになる。そのわからん時は、大概、信心迷うてる時ですな。信心がぼやけてきたり、わからんようになったり、ええ加減になってきた時に、お取次いうのがわからんようになってきます。
 年間の皆さんのお届け、お取次さしてもろうたことを、年末に改めて頂いてましたら、その人の信心ぶりというものが大体見えてくるものがありますが……。
 お取次というのは、「取次、取り次がれる関係」。ちょっと難しいね。「取次、取り次がれる関係」によって成り立っていると言われております。今頂いた御理解のように、神様が「どうぞ、氏子助かってくれ」という願いをもたれておられる。それをお取次される金光様、あるいは、各先生が「その神様の願いを、どうぞわかってください。神様がこういう思いでおられまするよ。どうぞ、一人ひとりが助かってください」とその願いのみで、お取次というのは成り立っておる。それ以外にない。


 世の中でカウンセリングというのはたくさんあります。カウンセリングというのは、神様が無いの。神様の願いである「氏子おかげを頂いてくれ」。天地の間に生かされていることがわからなんだら、難儀をしてくる。だから、天地の道理を分かってくれよと願われている。
 今日の頂きました御理解、同じようなことでね。「神は人間を救い助けてやろうと思うっておられる。この他には何もないのである。」その神様の願いを頂いて、お取次というのは生まれてきます。
 ただその次に、お取次を頂く者が、「神様のおかげを蒙っていきたいな、この先生に導いてもらいたいな。教えて頂きたいな。」あるいは、「日々御祈念くださっているのが有り難いことやな」。この思いが無かったら、成り立たないの。これ。一方通行になりますからね。その思いが無かったら……。
 「金光教いうたら、お取次を頂かな、いかんねんてー」「何やろう」「わからへんな」あるいは、「お取次を頂かんと助からんのやてー」「お取次を頂かんと助からんのかいなー」というようなことを思い出してきたら、それでもうお取次というものは、成り立たない。
 「神様の思し召しを、神様の思いを、このように教えて頂けるねんなと。このように導いて頂けるねんな。あるいは、このように御祈念くださっているんじゃな。有り難いことやな。もったいないことやな。どうぞ、この先生に導いて頂きたい。教えて頂きたい。あるいは、御祈念をして頂きたい」という、願う側の思いがなかったら、絶対成り立たないものなの。


 これは、別にお取次だけに関わったことじゃありません。例えば、夫婦もそうですわな。世の中に男と女しかおらんのじゃから、「この人を夫としたい、この人を妻としたい」という思いがなかったら、これはただ単なる男と女ですわな。それによって夫婦関係が成り立っているんですわ。人間の生活する上での一番の根幹に、この人を主人と思う。妻と思う。大事にさしてもらいたいと思う。また大事にしてもらいたいとも思う。それによって成り立ってますねん。
 教祖様が「おかげは和賀心」と言われるのはそういうこと。「おかげは和賀心にあり」と。言われるのは、このことがなかったら、人間関係も無茶苦茶やし、信心も出来ません。それが、どれだけ深いかということでしょうね。ですから、例えば田中さんみたいに、御主人亡くしても、「私はあの人の妻や」思うてるやろう。思うてへん?。形が亡くなっても、思うてるやろう。夫婦関係成り立っているのよ。お墓に入ってはってもな、形が亡くなっても…。端から見たら、「もうあの人、もう一人やで」ということになるねん。端から見たら「あの人、一人やで」ということになるんやけど。「いや、私は、あの人の嫁ですよ。妻ですよ。」亡くなった人の、形は亡くても、亡くなった人との夫婦関係が成り立っているの。そういうことやな。
 人間として一番大事なことは「おかげは和賀心にあり」ということ。また、教祖様は別の教えで「おかげは和賀心にありという見識を失うたら世はつぶれる」と。世の中は成り立たないと。このようにもおっしゃっている。その和賀心いうのは、「あなたあってこそ」とか、「有り難うございます」。神様のお取次で言うならば「はあ、このお導き頂きまして有り難うございます。またお導きくださいませ」と。という思いがなかったら、お取次なんて絶対に存在しない。成り立たないということになりますな。


 世の中のカウンセリングと違うところは、神様の願いを受けられて、各先生方がお取次をなさる。相縁奇縁によってお取次がなされておる。教主金光様も、今朝も朝の早うから、お結界ご奉仕くだされて、三六五日神様の願いを「どうぞ、氏子助かってくれ」との願いをお取次くださっておられるいうことでありますな。ですから、ほんとにそこのところを外したら、もう存在しないというかな。夫婦関係でも、ただ単なる男と女になってしまう。
 親と思い、子と思う。夫と思い、妻と思う。そこに初めて成り立っていくものなの。これを「あいよかけよ」とも教えておられる。「あいよかけよ」と。ですから、「おかげは和賀心にあり」とおっしゃるのはそいうところですね。そこのところがぼやけてきた時には、信心が完全にぼやけておるという案配ですな。ほんとに信心のおかげを蒙ってもらいたいものじゃと思います。有り難うございました。

(平成十年十二月二十四日)