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中身を作るには大変な年月と努力がいる

 今、大阪に金光教が営んでる高校が三つありまして、一つは生野区にあります「浪花女子(現金光藤蔭)高等学校」、来年からは男女教学になるんですけども。次は高槻にあります「金光第一(現金光大阪)高等学校」、それから八尾にあります「金光八尾高等学校」というふうに三つの高校と。それから兵庫県の赤穂、赤穂浪士の所に福祉大学、「関西福祉大学」いうのがございます。
 一番古いのは生野区にあります「浪花女子高(現金光藤蔭高)」が一番古いのでありますが、次に、今から十七年前、高槻に「金光第一高校(現金光大阪)」が誕生いたしました。
 各金光教の学校では、毎朝、朝礼の時に「祈りの言葉」等を全校生徒唱えるんです。今日も実は、年一度の感謝祭ということで、お祭りを仕える。御大祭みたいなもんじゃな。今日はその感謝祭の祭主として、今から行かして頂いて全校生徒、PTA等皆集まった中で、お祭りをさしてもらい、お話をさしてもらうんですけども…。


 ずっと以前に、第一高校が開校して、二、三年経った時分に行かしてもろうたことがある。これは感謝祭やなしに、「お話に来てくれ」ということで、お話に行かしてもろうた。ほんならね、講堂へ生徒がズラーと並んでますね。竹刀持った先生が、各列におる。列を見たら茶髪ばっかり、けったいなのばっかり。「ウワー。こんなんばっかりかいなー」と。「大変なこっちゃ、生徒も大変やし、先生方も大変なこちゃなー」という思いをいたしました。噂で聞いたところによると、卒業式は暴れよるし…。というような、「ゴミ貯め、五目箱みたいな学校かいな…」と正直思うた。
 それから十七年の年月が過ぎまして、この今日の感謝祭をお仕えするにあたって、向こうの職員の先生が、ご挨拶に先日お越しになった。その先生は開校当時からずっと勤務している。
 「長いことかかりました。いっぺんにいかんもんです」と。
 その第一高校がね。高校体育の部のサッカーの部で、大阪二百六十数校の代表に勝ち抜いて、全国大会に出ることになった。また、吹奏楽部では、関西で金賞を例年取っている。そして、進学率も非常に高くなり、大阪でも有数の私学に育ってきてるんですね。私もその育ってきたこと、立派になってきたいうことはよく知ってるんですけども。
 その先生が言われる「いっぺんにいかんものですなー。よう『石の上にも三年』ということを言われる。三年ぐらいでは、体質は変わりませんな」。
 「もうどないしても、こないしても、言うこと聞かない。どうしようもないもんばっかり、集まってきて…。これもう、どないなるんかいな、と私たち思うとりましたが、それでもあきらめずに、一生懸命に取り組まして頂いて、『朝の祈りの言葉』、これも前々は『朝の祈り言葉』唱える者なんておりません。もう言うても聞けへん。授業はボイコットしよる……」。
 そして普通の高校違うて、宗教の時間いうのがある。
 そんな時間はもう「みんなワイワイ、ガー、ガー言うて、授業受けさしよらん。もうそりゃ、そりゃ、どうなることかと思うておりましたら、それでもあきらめずに、一生懸命にそのことに取り組ましてもろうてきた十七年の年月。はあ、みんな素晴らしい生徒たちが、集まるようになって、毎年多くの生徒を世に送り出して、世の中のお役に少しでも立っております」と。
 「クラブ活動でも、運動の部でも、大阪一じゃの、全国大会出るじゃの、というような大きなことが出来るようになったり、あるいは吹奏楽では金賞を取ったり、また色々な面で表彰される学校になってきました」ということを、しみじみおっしゃってました。
 「ほんとやね、私も前々を知ってるからね。よう頑張りなさったなー」。
 「やはり、あきらめんと願ごうて、願ごうていくことですね」と、しみじみとおっしゃいました。
 今日はそういう意味で、金光第一高校の感謝祭、祭主を務めさして頂く。まさか祭詞で「昔は悪かったですね…」とは書かれへんけどもな。


 物事が成っていくいうことは、大変なことや、物事が成っていく、出来ていくということは大変なこと。カッコは付け、公舎は造ることが出来た、教科書も作ることが出来た、教職員も集めることが出来た。さあ、教育の方針も作ることが出来た。「さあ、やりまっか」いうてもあかんのね。なんぼ整えても、その中身を作るということには、大変な年月と努力がいりますんやな。しかし、おかげを受けられて、そのように大阪でも有数の高等学校が出来まして、大学までできまして、有り難いことやなと思うております。有り難うございました。

(平成十年十二月五日)


生きているから、命を頂いているからこその出来事

 今日は、今年最後の天地金乃神様の、月毎のお祭りをお仕えさして頂くんでありまするけど。まあ、人間生きている上に、スッタラもんだら、スッタラもんだらがあったり、嬉しかったり、悲しかったり、泣いたりと色々なことがあります。それも、生きているから、命を頂いているからの出来事なんですな。先ずそれが土台にあるんですわ。


 昨日、金光第一高校(現金光大阪高校)の感謝祭に祭主として御用さして頂き、お話させて頂いたんですけど。私も高校時代があって、もう勉強イヤで、受験勉強もしんどくて、ほんとに「イヤやな、イヤやな」と思うたり、あるいはまた、今の子はすぐバイトして小遣い稼ぎますけども。「クラブもしんどいし、何もかもしんどいし…」と。そうして見たらほんとに、イヤやなと思うたり、あるいはまた逆に、学校が面白いなと思うたり、様々な高校生活を送ってきたんですけどもね。
 それもよう考えてみると、高校あってのことで、色々な様々なことがあるんですな。高校を外してしもうたら、勉強も何もないんですな。高校という畑、基盤の上に、勉強のことやら、友達のことやら、あるいは恋愛のことやら、クラブのことやら、様々な出来事が起こる。その出来事の前に、高校という学校というものを外してしもうたら何にもない。
 というふうに、我々、色々なことが起こり通しに起こって、スッタラもんだらするんですけども、今日の命を頂いてからこそ、今日の様々なことが生まれてくるの。今月今日、今日は十二月の六日ですから、三六五日はまだ経ってませんけど、途中でピッと終わったら、今日はあれへんのやからね。「途中で、はい、ご苦労さん」いうて…。終わったら今日はあれへん。命頂いてこそなの。
 あるいは、別の見方してみると、「夫婦げんかで困ってます」と言う。、夫婦してるからこそ、夫婦げんかあるんでな。夫婦せなんだら、夫婦ゲンカもあれへん。親子ゲンカもあれへん。親子があるからこそ、親子ゲンカをせんならん。
 その元があればこそと。命を頂いてこそと。「もうこんなしんどいのやったら、生きるのイヤですわ」言う人が中にある。そんな人でも、病気になってごらん。「どうぞ、助かりますように、どうぞ助かりますように」言うてるわ。「こんなしんどいのやったら、死んだ方がましですわ。もうええですわ…」。何のことわない、「そうか」言われて、キュっと病気になったら「えらいこちゃ。助けてください。助けてください」言うとる。それが命いうものなの。
 まあそうして、みさしてもろうた時に、時々刻々、神様のお働きを頂いて、今日、今ある。だから先ず、お礼が先やとおっしゃる。


 今の金光様は五代金光様なんですども、先代の四代金光様ですな。この金光様はお礼を土台にして、ということを教えてくださったんでありますけども。
 御本部のお広前は、大祭なんかは大勢の人やから、もうとてもとても、お取次が大変なことですが、日頃お参りさしてもらうと、そんなに参拝者もいてない。教主金光様自らこのお結界に座られて、お取次くださっておられる。三六五日。
 あるお婆さんが孫の入試のお届けに行ってる。
 「孫が今度入試で…」どうのこうのと、言うてお届けすると、金光様が、
 「そうか、だけどな。高校生活も無事に終わらしてもらうこと。また健康でここまでこれたこと、皆にお世話になってここまで成長さしてもろうてきたこと、先にそのことをお礼申して、それからお願いせないかんな」と言うて。そのお婆さんに教えてはるのね。そのお婆さん、それ聞いてへんねん。
 「孫が…」と言うてまんねん。
 「そうや。孫のお願いせないかんが、その前にお礼を申さなあかんやろうが、お礼が先じゃろうが…」
 「いや、どこそこ大学が…」
 「分かってる、分かってる。どこそこ大学行けるのも、高校を無事に元気で卒業さしてもらうからええのやないか。学校の先生から、みんなにお世話になって、高校卒業さしてもらうんじゃろうが、先ずそれにしっかりお礼申しなされや」と。聞いてへん。お婆さん全然聞いてへん。
 おかしゅうなってきて、それと同時に人間ってそいうものなんやなと。これ気を付けないかんことやなと。生きている限り、スッタラもんだらがあるんじゃけれども、命が頂いてからこそ、今月今日生かしてもろうてるからこそ、様々のことがあります。
 今日は、天地金乃神様の今年最後の月例祭をさして頂きます。有り難うございました。

(平成十年十二月六日)

大概、みな貧乏神とお友達になりまんな

一つ改まれば一つだけのおかげ、二つ改まれば二つだけのおかげ(扇町教会『一言一句 日めくり』より)

 今日の日めくりのみ教えが「改まり」。この改まりいうのは、「一つ改まれば一つだけのおかげ、二つ改まれば二つだけのおかげ」と、このように教えて頂いておる。
 そうしますとね、おかげ欲しいものやから、「何か改まろうか」という交換条件になりますんやな。そうじゃない、改まった自分が助かるの。
 今まで狭い心でウジュ、ウジュ思うてたんが、ほっと「ええお天気やな。この天地に生かしてもろうてるんやな。お礼申さななー」と。お礼の改まりでしょう。それで助かってるのは誰、いうたら自分が助かってますな。色々な諸問題あるけど、下向いて歩いてたんが、フッと上向いて歩く。大概、問題持ってる人は下向いて歩いてますわ。下向いて「どうしょうかいな。どうしょうかいな。支払できへんな…」こんなもんやな。大概上向いて歩いてへん。下向いて歩いてる。「どうしょうかいな。えらいこっちゃな…」言うてね。


 あるとき、フッと上を向いた時に「あっ、きれいな空やなー。広い空やなー。青い空やなー。はあ、こんな大きな天地に生きているんやなー」と。スッと心が開けて改まったらね、今まで下向いてたのが、フッと助かってくる。
 今まで「どないしょうかいな」と下向いている、行き詰まりや。我が心でにっちも、さっちもいかんうようになってますわな。心の中に神様のおかげの入りようがないねん。「もうあかんわ。もうあかんわ」と言う。心がもうあかんわで満杯や。一杯、一杯になっておる。なんぼ神様おかげやろうと思うたかて、その「あかんわ」で、一杯にならしてもろうとるから、一つも神様の入る余地がない。願いはしてるのよ。それでも自分の心が満杯ですわ。
 ところが、フッと空を見さしてもろうて「きれい空やなー。明るいなー。大きな空やなー」と思わさしてもらう。「こんな大きいところへ生かしてもろうてるんやな。有り難いこっちゃな。お礼申さななー」と改まった時に、スッとおかげが入ってくるのね。おかげを頂くいうのはそういうことなんですわ。シュッと、おかげは和賀心にありと。シュッと入ってくる。「もったいないことやな」となると、シュッと入ってくる。
 ところが、「もうあかんわ、もうあかんわ」と下向いて歩いてるもんやから、ひとつもあかん。「改まり」と言うたら、「何々が悪いから、こうじゃ」という「改まり」と違う。我が心が大きゅう、大きゅうならしてもろうたり、広く、広くならしてもろうたり、今年の信心のモットウの「ありがたき、おそれおおき、もったいなき」のその心にならしてもらうと、スッ、スッ、スッとおかげを頂く。このお道の「改まり」いうのは、この三つの心にどうならしてもらうか。どう、「みき(三つのき)の信心」をほんとに「はあ、有り難いこっちゃな」とならしてもらうか。ここが「改まり」なんですよ。「何々が悪いから、こうせないかん。何々せないかん」いうようなもんじゃなしにね。
 坂本九ではないけれども、「上を向いて歩こう」と歌があったけれども、あんまり上ばっかり見てたら、けつまづくけどな。
 「もうあかんわ。もうだめや」。これは貧乏神しかけえへんわ。もう貧乏神とお友達になってたらあかんわ。大概、貧乏神とお友達になりまんな。「もうあかんわ…」。面白いもんで、類は類をもって集まりますよってね。「もうあかんわ」のところには、「もうあかんわ」が集まってきますよって。貧乏神とお友達にならんように、天地金乃神様にお友達にならしてもらうことが大事かと思います。有り難うございました。

(平成十年十二月七日)