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命のところは、ピッポッパで出来ない

 五月十日に誕生させてもらいました孫の眞美が、かれこれ五ヵ月になりますかな。始めは目も見えず、耳も聞こえず、ただ泣くだけの、ちびちゃんでしたが、今は自分で寝返りも出来て、もう離乳食にぼちぼち入ってきて、誰に抱いてもうてるのか、よう分かってきて、愛想もしてくれて、ちょっと辛抱もしてくれて、「ちょっと、お母ちゃん向こういてるで、泣かんといてね」というと辛抱も出来るようになってきて、はあ、有り難いことやなと思う。いつからこうなったんやろう。
 五ヵ月の間にそうなったやけれども、「はい、今日からこうなりました」と違うんやな。いつの程にか、この生まれたての赤ちゃんがいつの程にか、ずっと大きくならしてもらっている。
 そのニコッと笑うたり、寝返り打つのに五ヵ月かかっているんやね。次、ハイハイするのに五ヵ月かかる。よっこいしょと立てるのに五ヵ月かかるやろうな。トットとと歩けるのに、まあ、一年ちょっとかかりますかな。
 というふうに、いつ、そないなったんか解らんけれども、そのようにお育てを頂いて、全然目も見えない、耳を聞こえなんだ赤ん坊が、そういうふうにならしてもらう。有り難いこっちゃなとこう思う。と同時に人が育つというのは、年月がかかるもんやなと。ピッポッパではいかんねんやなと。


 戦後経済の高度成長、便利に、便利に、便利に物事をしようとしてきて、五十年以上経ってくると、二世代、三世代になってくるのね。孫の代、戦争前後に生まれた私たちが、もう孫を抱いてる。三世代になってくるな。三世代になってきたら、世の中全体が、その中で生まれてるから、ピッポッパが当たり前になってくる。直ぐ結果が欲しくなってくる。それが当たり前。
 昔は「桃栗三年柿八年、梅はすいすい十二年」物事が出来るには、年月がかかるんやで、とその間、辛抱すんるやでと、その世代はそれが当たり前。ところが、戦後経済導入で、もう何もかもがピッポッパで……、
 その代表がバブルやな、土地コロがしたらガバッとお金が入ってくるいうな。ピッポッパで、すぐさまお金が入ってくる。そういうような生き方を、戦後五十年してきたから、それが、若い者にとってみたら、あるいは今生きてる人は、当たり前のことになってしもうとる。
 ですから宗教もピッポッパの宗教が流行って、金巻き上げられてるわな。「この壺買うたら、すぐこないなりまっせ」「このハンコ買うたら、すぐこないなりまっせ」いうて、助かることもピッポッパになってる。「これしたら儲かりまっせ、これやったら、うまいこといきまっせ。助かりまっせ」みなピッポッパ。それは、有り得ないこと。とんでもない間違い。
 確かに自動改札機はピッポッパでよろしいねん。人間が成長するやとか、ものになるとかは、ピッポッパでは有り得ないこと。
 「這えば立て、立てば歩めど親心、我が身に迫る老いも忘れて」言うてね。「ああ、立った、立った、歩けた」自分も年いってるのね。それだけね。「這えば立て、立てば歩めど親心、我が身に迫る老いも忘れて」老いという時間があるのね。ところが世の中全部が、ピッポッパやねん。何もかもがピッポッパやから、生まれて育って、その中で生きているやから、何もかもがピッポッパでならなきゃいかんように思うたり、それが当たり前になってしもうたり、するんやね。
 今、日本は政治も経済も教育も、何もかも狂うてるその根本原因が、どうもその辺にありそうな。「高度成長、高度成長」言うて便利な世の中、それはなんぼ便利になってもええ、ものが便利になっていく。どんどん物事が便利にならしてもろうていったらええのやけども…。
 何もかも、政治の狂いも、経済の狂いも、教育の狂いも、家庭生活の狂いも、人間の狂いも、どうもそのピッポッパのところからきてるように、私は思えてならん。宗教界の狂いも、何もかもがピポッパのところからきてる狂いでしょうな。やはり、機械は大いに便利なっていったらええんやけどもね。
 株コロがしたらガバッと入るとか、やはりお金は額に汗してな。一生懸命働かしてもろうてこそ、お金はお金としての値打ちがある。
 人を愛するというても、全然違うもの同士が一緒になって夫婦になる。愛する努力をせないかん。自分の思いと向こうの思いと違うからな。それが、「向こうはどういう思いでいてるやろうか」という思いを、思わさしてもらう努力をせないかん。ところが、皆、ピッポッパの自分の都合ばっかりできてますな。それが、解らんの。それはそうや、どっぷりと五十数年やからね。それが当たり前なの。どっぷりと五十数年やからね。


 として、何処かで誰かが気が付いていかんと、ほんとに日本人全員ダメになる。今ダメになりつつあるのやけどもね。その中に自分がいてる。大勢いてるから、自分もその中の一人やからな。自分は見えないわな。みんな右向いたら、右向いとる。自分だけ左向いてたら、自分はおかしいなと思うけどな。総員、右向いてたら、右がおかしいいうこと解らんな。おかしいね。ほんとにおかしい。
 「桃栗三年柿八年、梅はすいすい十二年」物事なっていくには、それぐらいの努力と辛抱いうことがいる。子供一人育てるにしてもね。寝返り打って、ひっくり返るまでに、半年かかっとる。寝返り打って、ニッコリ笑うまで半年かかっている。よっこいっしょと立つまで一年かかる。
 ほんとに天地の道理が解らんと、ピッポッパだけでしてしまう。大いに機械は便利になったらええのやけども、生きる事まで便利にしてもうてますな。命のところは、便利にできませんのやな。絶対に。生き方のところでは絶対に便利にならない。その修行が足らない。
 今日の日本全体が哀れな状態になっていることかと思います。そうならんおかげ蒙ってね。ほんまものを分からしてもらう。ほんまものにならしてもろうていく、信心をさしてもらいたいもんじゃと思います。有り難うございました。

(平成十年十月二十九日)


悪いことはしてないが、神様に皆不義理してる

 九死に一生のお願いでどうでもおかげをいただこうと、一心になっている時のように、お礼が本気で言えたらよい。願うことはすぐにできても、お礼はなかなか言えない。お願い一度にお礼十度というように、お礼を言う心が厚いほど信心が厚い。信心が厚いほどおかげが厚い。(『天地は語る』一八五)

 「お礼十ぺん、お願い一ペンになればいい」。お礼というものは、なかなかしにくいものでね。ということは、やれやれ終わったと思ったら、次また起こってるのでね。お礼言う間が無い。次々、次々と物事起こってきますで、お礼言うてる間なしで、昼御飯食べたら、次、晩御飯の準備に頭一杯になってしまう。「昼御飯、有り難うございました」言うてる間無しに、「今日夜は、誰と誰食べよるねんな」と。「あれ冷蔵庫に入ってたかな」と、これが生きてる実体ですな。
 ああ、ほんで「私は悪いことしてません」と言う。悪いことはしてないのやけど、お礼申してへんもんな。天地の間のこと頂いてな、お礼を申してへん。何も悪いことは確かにしてない。
 しかし、めぐりというかな、お礼申さないかんところをお礼申さなんだら、それは、垢溜まってくるわな。祟りじゃ≠ニ、めぐり≠カゃなしに、何か垢溜まってくると思う。不義理してるというかな。別に法律に触れるようなことはしてない。何も人を傷つけることはしてないんやけれども、不義理を重ねてきたら、人間関係の間でも、「あの人はな、あんな人やで」と、なんぞことが起こったら、「あんな人放っておいたらええねん」。というこちゃな。天地に不義理を重ねてくるな。


 生きるってそういうこと。昼御飯終わったら、次の晩御飯のこと考えてしまう。一つおかげ頂いたら、次のことが起こってくるし、次の問題が次々と、起こってきますでね。なかなか、お礼を申すいうことが、難しいこっちゃ。「やれやれ」はなるんですよ。「やれやれ」の次にお礼を申せるかどうか。次々と起こってきますでね。お礼を申してる間に、次のお願いせないかんねん。前に生きてるからね。前に。
 例えば、姫路駅「ピー」と出発したら、次、「相生駅」いうようなもんじゃ。「ああ、姫路駅を無事に出発さして頂きまして」お礼言うてへんねんな。「次は相生やで」と言うてるねんな。「その次、岡山やで」と言うてるのね。というふうに生きるって常に前に進んでますもので、なかなかお礼を申していくことが難しい。
 しかし、神様に不義理重ねていってますな。罰は当てなさらんけど、不義理を重ねていってしまう。その不義理が一回や二回やったらええのやけどもな、もう、ずっと不義理っぱなしちゅうたら、「もうあの人とは、もう付き合わんとこ」となったりな。人間関係で言えばね。あんな不義理する人……。
 例えば、物一つあげても、喜ばん人。そんな人にはもうあげんでもええが、あそこは……となる。「何でくれへんねん」。くれへんかっても、これは請求できへんねん。「あんた不義理でっせ」と請求できひん。「あんたみたいな不義理してる人に、あげっまかいな」ということも言われへんけどな…。「何で神様おかげくれはりまへんねん」と言うてる人があるけど、私は言いませんけどね「あんた不義理してますやろ」とは言いませんけど。そんなこと言うたら、明日からまた来えへんから言えへんけど、大概、皆、不義理してるな。もらいっぱなしの、頂きっぱなし。「頂いた後はこっちゃのもんや」ちゅうもんやな。大概皆、不義理してる。そしてその不義理したこと忘れてしまうの。人間はね。


 そうしたら、「前々のめぐり合わせで難を受けおる」とこうおっしゃってますけど、しかし、ここで次、不義理をせん方法がある。
 次々問題が起こってくる、「ああしんどいな」いうことも起こってくる。「辛いな」いうことも起こってくる。そのしんどいとか、辛いなのその裏には、必ず良いことというかな。有り難いことが裏にある。
 例えば、病気になったら、しんどいな辛いなと思うと、裏は「今まで健康やったな」と、お礼申さないかんことがある。それがありますねん。「しんどいな、辛いな、体えらいな」と。今まで健康な時は、健康のお礼申してなかったなと、ここに展開をさしてもらえるかどうか、もちろん病気回復のお願いは、さしてもらわないかん。「どうぞ治りますように」と、お願いはさしてもらわないかんのやけれども、その裏返しの「はあ、今まで健康やったな有り難いな」とそこへヒューッと心をいかしてもらう。ここへ心をいかしてもらうのが、日々の信心の稽古いうことになりましょうかな。そのおかげを蒙らしてもらわないかんなと思います。有り難うございました。

(平成十年十月三十一日)

助かる「特効薬」はありません

 誰でも痛い辛いは、イヤなもんで、病気の人でしたら、「痛いのがすぐ治りたい、苦しいのが治りたい」。あるいは、経済で困ってたら、「早くお金が欲しい、お商売なんとかいきたい」。家の中もめてたら、「家の中何とかなりたい」と。皆、「直ぐなんとかしてくれ、なんとかしてくれ」ということですな。
 それは、とりあえずのおかげを頂かないかん「応急手当」。それは、一心に向こうていったら、とりあえずの応急手当はしてくださいます。「何とかしてくれ、もうほんとに…」と。とりあえずの応急手当。
 その応急手当から、病気で言えば、ほんとの良い体にならしてもうていく。これには、時間がかかる。とりあえず痛みを止めようというのとな。モルヒネ打ってな。とりあえず痛みを止めるやり方と。今度は、ほんとに丈夫な健康な体にならしてもらう、これには、年月がかかる。長い間の療養と、あるいはリハビリと、生活が変わっていかないかんとか、食べ物が変わらなきゃいかんとか。これには、年月がかかる。この二つがいりますんやな。
 とりあえず痛みを止めるということと。それは、モルヒネ切れたら、また直ぐ痛みますな。すぐ元通りに痛んできます。間違いありません。ところが意味を間違うと、モルヒネ打ってたら、ずっと効くように思うてしまう。ここが間違いの元ですね。


 よく教会に飛び込んできたり、また、ある方から手紙が来るんですけれども、家の中もめる「なんとかしてくれ」と言うてくる。これは、「特効薬」がありませんね。体質が変わらないかん。家質が変わらないかん。自分の生き質が変わらないかん。自分の生き方、物の見方が変わらないかん。あるいは、お徳というものが付いてこんと治らない。これには「特効薬」はないんですわ。
 直ぐさまパッ、パッといくように、特効薬いうのがないんですわ。大概このタイプは、壺買わされてますわ。高い値払おうて、ガバッと取られてますわ。特効薬がないので、とりあえず何とかなりたいと思うて行く。それを霊のせいにする。「この霊を払うたら、鎮めたらちゃんといきます」言われて、それで、霊払うてもろても同じです。これには、特効薬がないんです。
 親子夫婦兄弟とか、その家がね。ほんとに円く良いように、明るく良いようになるには、家質が変わらないかん。先ず、ご信心さしてもらう本人が、教えを聞きもって、聞きもってそして、じわじわと、内科やな。内科の病気みたいなもんやな。内らから、ジワジワ、ジワジワ治さしてもろうていかんとあかんのですね。
 ところが、痛い、しんどいもんやから、特効薬を直ぐ求めてしまいますね。それが付け目ですわ。えげつない宗教まがいは。そこが付け目。
 誰でも痛かったら、なんとかなりたいと思うのは、当たり前のこと。「ウワーと何とかしてくれ」と言って来ますが、特効薬はありません。
 自分の質をじわじわと変わらしてもらう。一辺に変わりませんけど、家の質、自分の質をじわじわと変わらしてもらう。ふと気が付いたら、「あらまあ、前はこんなこと、気にして、イライラしてな、こんなことで不足言うてたな。こんなことで人を責めてたな。あらま、今は人を責めてへんわ。有り難いなと思うてるわ」と。
 これ、いつから変わるかわからん。まあ、最低三年いるね。しっかりお参りさしてもろうて、しっかりみ教えを聞かしてもらうて、まあ最低三年やね。その質がズーッと変わってくる。ところが、そのピッピと右、左にならんから、直ぐ油断してしまうの。
 「行ったかて、したかて、どうもならんわ」と思うて、棒を折ってますねんやな。棒を直ぐ折ってまいますんやな。ほんでモルヒネの方へヒュッといってしまうやね。モルヒネ切れたら、終わりですわ。またワーということ。大体こう見えてることがあるんですけどね。
 おかげを蒙らないかんですな。質を変わらしてもろていく、辛抱をさしてもろうていかんと、長年かかって、生まれてきて病気になったんやからな。長年かかって、また質を変えさしてもらわないかんのね。ただ単に辛抱だけではない、必ず、そこに神様はその都度、喜びをピッピと与えますでな。それをピッ、ピッと神様の思いを感じ取らないかん。
 「神様こんなええことしてくれてはるわ。こんな有り難いことしてくれてはるわ」。辛い中にも、しどい中にも神様は明るいこと、ピッ、ピッと見せてくださいます。「神様、見捨てておられないねんな。神様聞き届けてくだされてるんやな」と、ピッ、ピッと見せてくださる。それを有り難う受け取らしてもろうて、有り難う頂かしてもらうと、辛抱が出来てきますねん。
 ところが、それに埋没して振り回されてると、神様拝んでるのやら、「ワー、ワー」言うてるのやら、訳わからんだけのことで、「ワー、ワー」言うてるだけになってしまいますな。


 どうぞ、特効薬のある分とない分があります。とりあえずの痛み止めいうのがありますけどね、外科の手術で、ここ取り払うたら、それでええんじゃ、というこがあります。しかし、自分の肉親は切られへんが、他人さんやったら「クビ」言うて切られるけど、「あいつは、もうどうしょうもないやつや。会社クビ。」クビ切れますけどな。肉親なんてクビ切られへんもん。「あんたクビ」言われへん。
 そうすると、ずっとこれを抱えていかないかんのやけれども、質が変わらしてもらうおかげを蒙らしてもらう。自分も、家の中も、必ず変わらしてもらいます。豊かな心、豊かな、あったかい、思いやりの出来る家庭、ほんとに大切にしあえる。そいう質に必ず変わらしてもうていきますでな。これは、信心辛抱がいるんですわ。神様は、必ずピッピと明るいものを時々シャ、シャと出してくださいます。それを有り難う頂いて、「神様見捨ててござらん」ということを頂いていくことが大事なことやないかと思います。有り難うございました。

(平成十年十一月一日)