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話しを聞いてるだけではどうもならん

 金光大神の道は祈念祈祷で助かるのではない。話しで助かるのである。(『天地は語る』一六〇)

 「金光大神の道は祈念祈祷で助かるのではない。話しを聞いて助かるのである」と。そのように教えておられる。このお道は話を聞かして頂くいうことが、一番大事なこと、お話を聞かして頂いて、我が心でそれを磨いていく。身に付けさしてもろうて、磨かしもうて、そして我が心がいつもよい状況に、あるいは豊かな状況に、生き生きした状況に、こうならしてもろうていくいうことが、このお道の信心で大切なことであると。
 そしてまた、人と人との関わりにおいても、その道理を分からしてもろうていかんと、正しい思うてやっても、正しくなかったり、自分はこうじゃと思うても、かえって皆にご迷惑になったり、色々なことがありますんでな。人間関係のこともそうだし、自分の心さえもコロコロ、コロコロ変わりますよってね。自分のその心が、よい状況にならしてもろうていかないかん。そいうことで話しを聞いて助かる道じゃと。「話しを聞け、聞け」とこう言うてる。
 そいう意味では金光教のご信者さんは、もう色々な宗派がありますけど、一番話を聞かしてもうてるはずなの。毎日、毎日…。
 例えば、そこのお宮さんお参りしたかて、誰もお話してくれませんわな。毎朝、毎朝こうして毎日、毎日話がある。あるいは、月例祭、大祭色々な時にお話を聞かして頂けることは、大変な有り難いことなの。
 しかし、話しを聞いてるだけでは、どうもならん。


 例えば、結婚なら、結婚の話をする。「結婚とはこうならしてもらうことですよ」と、話を聞かしてもらう。結婚してない時は「ふん、ふん。そんなもんかいな」と思う。やがて、結婚さしてもろうて「嬉しい、嬉しい」から、すったらもんだらせないかん。
 そうして見ると、ずっと前々から、いつも聞かしてもろうてる「夫婦とは、このようにならしてもらわななあ」は、フッ飛んでしまいますねん。おもしろいもんでな。いつも聞かしてもろうてるはずなのに、身に付いてるだろうと思うはずなのに、さて、その現場になると、そのことが起こってくると、聞かしてもろうてきたこと、スッ飛んでしまう。フャーといってしまう。人間ちゅうのはそんなものなの。
 というのはなぜかというと、相手がおるから。あいつが悪いと思うて腹が立つことが先出てしまうんでね。向こうも、そう思うてる案配でしょう。
 そこで大事なのは、話を聞いてるだけではなしに、「お取次を頂くいうこと」、次はそのことに直面して、いつも話を聞いてるんですよ、いつも話し聞いて、分からしてもろうてるつもりやけれども、今度そのことに直面してくると、聞いてたことがパーンと飛んでしもうたりしますんやな、そこでお取次を頂いて、神様に中に入って頂いて、そして、それぞれの夫婦なら夫婦、親子なら親子、それぞれの質のところで、ご都合御繰り合わせを頂き、心のうちをよい方向へ良い方向へと、向かわしてもらうことが大事なの。
 このお道のお話しには、こうして、先生が一人でお話しはって皆、聞かしてもらうという、こういうお話の聞き方がある。


 もう一つ、個別いうか、そのことにドーンと当たって、「えらいこっちゃ」、うろたえやら、様々なものがそこに出てくる。日頃、聞いてるのがフッ飛んでしまう。その時に、お取次を頂いて、方向が間違わないように、うろたえんように、道を誤まさんようにという、おかげを蒙っていかないかん。いうことでありますね。
 そいう意味に、御祈念は聞かして頂いたお取次、お話を自分に身に付けさしてもらうために御祈念するのね。そのことを身に付けさしてもろうて、力にならしてもらわななりません。聞いててもあきませんわ。御祈念をせな。聞くだけではどうもならんでな。力にならしてもらわないかん、それが、御祈念であろうかと思います。有り難うございました。

(平成十年十月二十三日)


皆が神様にならしてもらえるお祭り

 いよいよ明日、生神金光大神様。教祖様の御大祭をお迎えさして頂きます。大祭準備、色々と皆さんご苦労かけているんですけれども。別に神様、教祖様、「ああせい。こうせい」、とおっしゃってないし、「ああせいないかん。こうせないかん」いうものもない。
 ただこちらが「させてくださいませ」と。真心だけなんですな。それだけのこと。「ああせないかん、こうせないかん。鯛お供えせい」なんて言うてあれへん。何にも、「何々お供えせい」言うてあれへん。こちらが「どうぞ」という心持ち。それが、形に現さして頂いて、色々な準備もさせて頂く。一人ひとりが神様へ、教祖様へ心を向けさしてもらうことが、大切でありますな。そこのところ、ついついと行事になってしまう。行事と違うんですわ。一人ひとりの心が神様に向かわな、何にもなれへんということ。
 そやから、極端なこというたら、「なんか手伝いましょうか」と言う人があるんやけれども、手伝うんやったら、「別にいらんで」という感じがする。まあ、言葉がそいう言葉しかないので、「お手伝いしましょうか」という言葉しかないんでしょうけど。そうじゃない、「私はこうさせて頂きとうございます」と。「このようにお使い頂きとうございます」と。いうことでさせて頂いとります。
 面白いですね、「あの人来てはれへん」とか「来てる」とか。そんなことばっかり、気になって、誰が来ようが来よまいが、私と神様との関係。そこが、一番大事なことであろうかと思います。


 そうしてみて、明日、金光大神様、教祖様の御大祭なんですけど、教祖様が「この方が、おかげの受け始めである。みなもこの通りにおかげを受けることが出来る」と、このように仰せになっている。
 教祖様は、どんなおかげを受けはったんやろう。大きな蔵が何個も出来たんやろうか、立身出世しはったんやろうか。一体、どんなおかげを受けられたんでしょうな、「私が、おかげの受け始めであります。皆もこの通りにおかげが受けられます」というおかげで、どんなことやったんろうか。どんなおかげやろうか。
 その時分、大学ないけど、東大へ合格したんやろうか、一流企業へ就職出来たんやろうか、大金持ちになったんやろうか、どんなおかげを受けられたんやろうか。
 それはね、命のおかげなの。命といっても、病気が助かるだけではなしに、自分を生かしてくださる天地の神様と出会うて、自分の命が、小さなものじゃなしに、天地自由自在にいくらでも、大きく働くことが出来るおかげ。命が大きくなったおかげなの。
 一度しかない命、今月今日しか、天地の間に生かしてもろうてるこの命が、まさに自由自在になられた。大きな大きな働きが出来られるようになった。神様と同じ働きが出来られるようになった。そういうおかげなんですわ。
 もう天地の神様とビンビンと響き合い、命が躍動し、そして神様と同じくらい物事が見え、天地のことは掌。すなわち手の平にありますという、掌にある。見抜き見通しであると。まさに自由自在なの。
 人間はお金持ちになったら、お金に縛られ、家族を持つと、家族に縛られね。みんな縛られて生きているんですわ。社会やら、国家やら、家族やら、会社やら、あるいは、自分の「ああしたいな、こうしたいな」という、自分に縛られ、もう縛られてばっかりしているですわ。それが、天地が自由自在に、何物にも縛られることのない、生き通しに生きる、そいう大きなおかげ。それを「この方がおかげの受け始めであります。皆もこの通りにおかげが受けられます。生神とは、ここに神が生まれるということであります」と。ここに神が生まれる。今ここに神が生まれる。どうしたら、神様になれる。神様が生まれてくるんやろうか。


 これは、難しい話ではない。神様と同じ質を皆もろうてるの。同じ魂をもろてる。神様の魂、質って何かというと、人を助けずにはおれない。人の幸せを願わずにはおれない。人の幸せをずっと願うてくだされてるのは、天地の親神様ですわ。同じ質を我々は頂いている。その質で、人のことを祈れる。そうすると、天地の自由自在になってきますねん。人のことを、「どうぞ」と、人の幸せを願う。「お気の毒な人をみて、どうぞ、幸せになって頂きとうございます」と。人のことを祈れる。幸せを祈れる。
 そうすると、神様と同質になってくるんですわ。自分の色々な諸問題がある。これは、神様が自由自在にして下さる。天地自由自在に。
 「よう不思議なおかげ頂きましたな」と。「よう、あんなおかげ頂かれますな。不思議だんな、えらい神様や、大したもんでんな」とこう言うことになるんやけれども、「御利益おますな」ということになるんやけれども、違うの。「おかげは我が心にある」と言われる。自分の心が、神様と同質になって、人の事を祈り願い、神様と同じ質で、人のことを祈り願いしてると、そういう天地自由自在ですから、それぞれの諸問題なんて、それこそ「心配せんでもええ。心配することと違う」それは、神様がご心配くださる。神様がしてくださる。こっち心配したかてどうもならんのやからね。どうにかなるんやったら、別に拝まんでもええやん。「ああしようか、こうしようか」と。「心配する心で信心をせよ」とおっしゃるのは、そこなんですね。「心配する心で信心をせよ」と。その信心とは、どういう信心かというと、神と人と書いてしんじん≠ニいう。そのしんじん≠ナすよ。
 神様と同じ質の信心をさせて頂き、人の幸せを祈れる、気の毒な人を見たら「ああ、どうぞ助かってくださいませ」と祈れる、願える。その質なんですね。その質になったら、こちらは、神になっていくんですから。これが、「生神とは、ここに神が生まれると。この方がおかげの受け始めである」と。「皆もこの通りにおかげが受けられる」。
 だから、おかげおかげと言うけど、諸問題のおかげは、信心の陰みたいなもんじゃからな、とよう言われます。信心の陰やから。
 私、毎朝お話してるけど、高橋さんが「毎日違うお話が出来ますね」と言われますけども、私は毎日、同じ話ししてますねん。一つも変わってない。ズッーと同じ話をさしてもろうとる。みんな同じことを言うておられるんでありますがな。


 明日はそれぞれが、神様にならしてもらえるお祭りや。別の言葉で言えば…。
 「この方がおかげの受け始めじゃ。皆もこのようにならしてもらいます。この方のことを神、神というが、この方ばかりではない、ここに参っている人がみな、神の氏子でありますから、皆神であります。生神とは、ここに神が生まれるということであります。この方がおかげの受け始めであります」と。誰でもが、みやすう神様になる。誰でも頂いてる「かわいそうになあ」と思える心、皆持ってるもん。
 まあ、まあ毒盛った人も持ってるどうか知らん。あの人も持ってると思うよ、きっと。カレーに毒入れた人も、保険金詐欺してる人も、持ってることは持ってると思う。ところが、我情我欲の方が先出てもうて、そればっかり出てもうて、気の毒に。自分も難儀、皆難儀、すべて難儀せないかんな。人のことを人の幸せを祈れるか、それとも、我情我欲で自分中心でいくか、いうことですな。そこが生神にならしてもうていくか、自分自身が地獄に落ちていくかいうことでしょうな。
 地獄いうのはね、あの世にあるの違うねん。今の生き地獄いうねん。今の生き方で地獄がある。あの世にあるの違うの。今が地獄になるか、極楽になるか。今、極楽にならしてもらわんとな。それは、神様と同じ心にならしてもらえば、極楽にならしてもらえます。有り難うございました。

(平成十年十月二十四日)

神の氏子と難儀な氏子

 教祖様は人間のことについて、色々なことを教えておられますが、その一つに「人間は神の氏子」神様の魂を頂いている「神の氏子」である。「神の子」であると。そのように一つは教えて頂いておる。
 もう一つは、「難儀な氏子」とも言われております。昨日もお話しましたが、難儀とは何かというと、何が大切かが解らんことが難儀ということじゃと。何が大切なのか見えない。分からない。分かろうとしない。これが、難儀ということであると教えておられますけども。まあ、本当に難儀なものですな。物事が解らんということは、しんどいことじゃと思いますな。


 例えば、一番大事にせないかん、自分にとって一番大事な人を敵にしたりな。「この人外したら誰もいてへんがな」と。一番の身方である。一番大事にしてくれる人。自分が存在する生きていく上で「この人なかったら、あかんやないか」という一番大事な人を、粗末にするというようなもの。難儀なこっちゃなあ。これはもう。どういうことやろうなと思う。
 やっぱり人間の持ってる我情我欲が、自分の思い通りにならんと、気ままが出るということなんでしょうな。自分の存在が無くなってしまう。その人が無くなると、その人がどっか行ってしもうたら、自分がどうしょうもなくなってしまう。生きることが出来ないことになってしまう。
 一番大事にせないかんものを、一番粗末にする、ということやね。ほんとにそいう意味では、人間というものは難儀である。奥さんに手を掛ける人いてますわな。親に対して手を掛けてくる人おりますわ。もう物事が解らんというか。大事にせなあかん相手≠ナあるから大事にする。親や嫁さんを大事にせよ≠ニ言われるので、大事にする問題と違う。大事にせんと自分が生きていかれへんねんや。それなのに、それが、大事に出来ない。気ままを出してしまう。
 余り気ままを出し過ぎると、天地が許さんようになってくるからな、怖いことです。よっぽど気をつけさしてもらわんと。もう大切にするというよりも、その人が外れたり、その人がどっか行ってしまうと、自分の存在が無茶苦茶になる。


 半分やくざの人がね。だいぶ前ですけど、やくざの奥さんが、駆け込みで来てはった時がありましたけどな。思いようにならなんだら、もう殴る蹴る、金は入れへん、というような案配。好きで一緒になったのが、そいう様や。奥さん逃げてもうて…。そうせんと、自分もダメになってしまうから、奥さんとうとう逃げた。
 その亭主ね。半分やくざのその亭主。奥さんが、教会来てるの知ってんねん。逃げられたら、今度は張り込みますな。ずっーと、前のタバコ屋の所で。じっと二ヵ月ぐらい張り込みましたかな。ほんで「入り」と言うてやった。
 「あんたな、そんなに嫁さんが大事なんやったら、もっと大切にせんかい」言うて。「そんなに大事な人やったらな。大切にせんかいな」
 「へえ、これから改めます」言うて。また、縁というのはそいうものかな。見つけ出しよる。臭覚やな。見つけ出しよる。
 とりあえず嫁さん、先生の所行く言うて、「先生、証人なってもらわなしゃあない」言うて、そうしたら、その男どない言うた。はあ、これが上手いな思う。女心をそそる、そそる。また、縁というのは、ちょぼ、ちょぼ同士やなというのが分かる。
 「お前がおらんようになってから、ワシは下痢で、下痢でもうお尻が腫れてしもうて、ご飯が喉通らんで、もうお前なかったら、ワシは生きていけんのや」とやるの。大の男が、やくざみたいな男がすがりつく。
 「ワシ毎日ここに立って…」勝手にタバコ屋の前に立ってるのよ。
 「お前を探しにワシは毎日、雨の日も風の日も、お前を探しに立ってたんやで」と。
 「お前がおらなんだら、ワシはお前のことが心配で、心配で、ご飯が喉通れへんし、毎日、毎日、神経性下痢で…」言うて、それ一時間以上やるの。
 ほんなら、嫁はん「まあ、かわいそうに」こないなるの。
 見てたら、アホいうか、これが縁≠竄ヒんなと思うた。これが縁か。そやけども、またしばらくしたら、違う女作って、ほんでまた別れるの切れるの。「また、別れるの…」これも難儀なこっちゃね。ケジメがようつかない。人間って、そいう難儀なものがありますやな。質的なものの難儀がありますな。いやほんとに難儀やなと思う。
 ケジメが付けられないということは、ほんとに難儀なことやなと思いますし、一番大事なものを失うてみて分かって、去られてみて分かって、泣きの涙で頼み込んで、やっと帰ってもろうて、ほんでまた粗末にするんやからな、人間というものは難儀やな。ある一面、神の氏子じゃとおっしゃっているけど、ある一面、ほんとに難儀な氏子じゃなと、しみじみと思わさしてもらいます。有り難うございました。

(平成十年十月二十八日)