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本心の玉を磨く

 生きている間は修行中である。(『天地は語る』一〇一)

 信心は本心の玉を磨くものである。(『天地は語る』一〇五)

 「信心は本心の玉を磨くものである」。このように教えて頂いておりますが、人間にはそれぞれ癖というものがありまして、ようケンカなんかしたら、「もう性格やから、直らへんわ」と言うてるわな。性格は直らんもんであると、一つの決まりごとみたいに、認めてるところがありますな。「私はこういう性格だんねん」。確かにそれぞれの性格があって、その性格を直そう思うたかて、なかなか直るもんと違います。
 そのそれぞれの性格の中にあっても、「本当のことって何やろう」というものを自分の中で常にチェックしていく、見つめていくいうことが、先ほどの「本心の玉を磨くものぞや」とおっしゃるところではないかなと思う。
 放っておきますと、確かにそれぞれの性格はあるんやけれども、ついついと自分中心にズーッと入ってしまう。


 例えば、誰でも愛情というものは持っております。孫を見りゃ、かわいいし、あの人ええな思うたら、好きにもなるし、それが愛情というもの。これは、誰でもが持っている。しかし、その愛情が、自分中心なのか、それとも本当に向こうさんを愛する、大切に出来る愛情なのかというのを見てみたら、放っておいたらすぐ、自分中心になってる。
 「こんだけしてあげたのにー」よう言うてまっしゃろ。「こんだけしてあげたのにー。裏切ってー。あんな人はもう、せいないわー」言うてますな。
 みんな、愛情は持ってるねん。その人に尽くしたり、一生懸命にしてあげたり、みんな愛情は持っているんやけれども、その人が愛情をかけた相手が、あっちゃ向いてしもうたら、「くそったれ」思うわないかん。「こんだけしてやったのにー」と。どうもそっちの方にズーッと入ってしまう。「本心の玉を磨く」「今月今日」とおっしゃる、その中でみな愛情が持ってるんやけれども、本当に自分は愛情をかけているんやろうか。自分の気ままを押しつけているんじゃなかろうか。
 そやから、バットで殴られる親がいますねん。その親は、ものすごく愛情をかけてあげたと思いますねん。しかし、どうも、自分のことやら、そんなんを押しつけて、押しつけて、したんじゃなかろうか。「こうあるべきじゃ。こうせないかんのじゃ。ああせないかんのじゃとか。こうもしてやってるんじゃ。ああもしてやってるんじゃ」というて愛情の押し売りしてね。相手がもうヘトヘトになってもうて、そこから脱走しよう思うて、コーンと、親殴らないかんというようなこと。
 あるいはまた、男女の間でもありますやん。「かわいさ余って憎さ百倍」いうて、ブスッとやらないかん。「ここまで私は、愛情をかけてるのに、あたなは、こっちを振り向いてくれない」言うてね。ブスッとやらないかん。まあ、そいうような案配ですな。
 みんなええ玉を持ってる、頂いてるんやけれども磨いてない。だから、それを磨かしてもろうていく。これは、にわかにね、昨日今日で磨いたかて、磨かれしませんねん。毎日、毎日お話を聞いてるうちに、いつのほどにか、その玉が磨かれていく。


 これ勉強と同じでね。信心は勉強と同じで、一夜漬けはなかなかのこっちゃな。一夜漬けいうやつはな。勉強もよう一夜漬けいうてな、ヤマカン当たったら、どうにかええけど、テストは合格するかわからんけども、テスト合格しても、勉強身に付いてへんわ。
 勉強いうものは本来、テストの為にあるの違うて、勉強が身に付くためにあるんやわな。ところが、学生の頃は、なんとかそのテストさえ、赤点さえ取らなければええと、なんとか、そのテストさえ合格すれば良い、ということでスレスレのセーフをねらうんですけど、勉強身に付いているのかいうたら、何にも身に付いてない。
 私は、化学が苦手でして。もうほんまに…。何で苦手か言うと、例えば水の「H2O」言いまっしゃろ。始めから受験勉強で、「水はH2Oじゃ」と教えられる。何でH2Oの水素が二つで酸素が一つなんかが解らん。その理屈を教えてもらわんと、亀の子の化学方程式ばっかり、ウアーやられたもんやから、何で水素が二つでなかったらいかんねん。何で酸素が一つやねん。どうしてそうなるねん。言うたら、それだけで、ついていけないところがあったんですけども。
 その逆に歴史が好きで、歴史は、試験用の歴史は少々悪うてもかまへん、いうような感じやな。テスト用の歴史よりも、ほんまの歴史知りたいなと、いうようなことで、テスト用は百点も取れなかったですけれども、学校の先生も知らん事まで、勉強してた案配ですかな。身に付かしてもろうてる。


 というふうに、この身に付く、信心が身に付くいうのは、にわか勉強では身に付きません。ところが皆苦しいものやから、勉強したらどうにかその苦しいのが、パスすることやと思うてな、にわか勉強始めますんやろうけども。徳になってこん、身に付いてこんということですな。
 やはり日々のお話を聞かして頂いておかないと、ついついと自己中心になってしまう。みんなええもん頂いてるんやけれども、自己中心になっていくのを洗わしてもろうていく。そうしていくとそれぞれの性格なり、「ああ、あの人はええもん持ち出ししはったな。変わりはったな」いつ変わったか解らん。
 にわか勉強のやつは、「変わりまっせ、変わりました」言うて、十日経つとまたひっくり返って変わってしもうてる。そんなのは、あきませんな。身に付いてませんな。やはり身に付かしてもろうて、一つ一つ光らしてもろうていくいうことが、大事かと思います。
 その点「一生が修行中じゃ」とおっしゃる。あるいは別の言葉で言えば、信心をさしてもらうの好きにならしてもらえばええねん。「好きこそものの上手なれ」いうて、好きにならしてもうてくると身に付かしてもらう。「ああ、ここも気付かしてもろうたな。あそこも気付かしてもろうたな。有り難いこっちゃな」と。そやから、気付かしてもらうのが、有り難いこっちゃなと思えてくることがあります。有り難うございました。

(平成十年十月十二日)


親子孫へと命の流れのところを願う信心

 信心されるタイプに、色々な種類のお方がおられます。大騒動が起こってきたその難儀を何とか助けてもらいたい、というタイプのお方。今起こってる、お尻から火が付いている、今起こってくることを何とかしてもらいたいと。お商売なら手形が落ちんとか、大騒動をしてることを何とかしてもらいたいお方。それも願いと言えば、願いに違いない。
 また、目先の入試を何とか合格させてもらいたいと、目先のところで願う。願いでもそういう願いを持つタイプですな。今、問題が起こってることを、何とかしてもらいたいと願う、願いの持ち方のタイプが一つ。


 それからもう一つ、これは人数少ないんですけども、人生そのものをどうぞ、よいようにお導き頂けまするように、すなわち目先の問題だけではなしに、人生そのものが、自分だけの人生ではなしに、親子孫と、命の流れの中で、どうぞ、よい働きが出来さしてもらいまするようにと願うタイプ。
 その中には仕事の問題も、学校の問題も夫婦の問題も、親子の問題も、もちろんその時々に生きるいうことは、色々な問題が起こってくるんやけれども、その問題だけを捉えるんじゃなしに、その底辺、流れの底辺を見据えて、その底辺が、どうぞよい方におかげを蒙らしていきますようにと。それを、基礎にして、そして様々に起こってくる諸問題も、もちろんご都合御繰り合わせを頂いていくやけれども、底辺にそれがある人と無い人がありますな。
 無い人は、その問題が解決したり、その問題が過ぎ去ってしまうと、「はい、さいなら、神様ご苦労さん」いう感じやな。また、問題が起こったら「えらいこと起こりましてん」と願う人。このタイプは、問題がいつも同じような問題で、すったらもんだら、すったらもんだらしてますね。
 ところが、流れ、命の流れ、人生の流れ、親子孫へと、皆がおかげを頂いていく大きな、大きな流れ。その中で、自分は段々年も取っていく。確実に年を取っていきますわな。若い時には「頑張ります」と思うてたけども、段々定年退職になり、身体もいうことを利かないようになってくる。そういう自分自身だけを見たら、段々、段々老いの方へ行くんやけども、今度はその代わり、子や孫が元気な身体で、ズーッといかしてもらう、次の流れがありますわな。その全体の流れが、どうぞよいように、どうぞお役に立てるように、豊かになるように、お金だけの豊かじゃなしに、豊かな人間としておかげを蒙っていくよういにという願い。
 そやから、皆同じように年取りましても、「あそこ痛い、ここ痛い」は絶対出てきますんやな。そこで止まってしもうてる。「年取るって、イヤですわな。もう、年は取りたくはないですわな」という自分中心の年の取り方。「あそこ痛い、ここ痛い。ああもう年は取りたくないな。ボケてきましたわ」ということだけで、皆止まってる。
 自分が年を取るということは、逆に言えば、子や孫がズッーと後ろへ続いてるいうことなの。子や孫のところへ、これまでも、みんなおかげを蒙らしてもうろうていく、その中での自分の年の取り方が大事。
 自分中心の年の取り方は、あそこ痛い、ここ痛い。物忘れする。全部自分中心ね。そうやなしに、命は流れとるんやから、自分が年取っていくいうことは、若いものが生まれさしてもろうてきてるいうこと。この命の流れ、人生の流れ全体を、おかげを蒙らしてもろうていくようにと、願える人。あるいは、その願いに対しての信心をさしてもらえる人は、少ないですな。


 この二つのタイプ、どうなってくるかと申しますと、今の事柄を何とかおかげ頂きたいという方は、カッーと熱心なことなんやけど、終わったら、パッと消えてしまう。
 ところが、命の流れのところの人は、一つでも神様にお使い頂いて、徳積みのおかげを蒙らしていこうと、徳積みの信心をさしてもろうていこうという、そういうご信心の質ですね。同じ信心して手を叩いて「まんまんちゃん、あん」してるんやけれども、その質によって違いますな。やはり信心の質のおかげを蒙らしてもらわないかんかと思います。有り難うございました。

(平成十年十月十三日)

「確かなことである」ほんとに確か?

 信心する人は何事にも真人になれよ(『天地は語る』一一五)

 神は声も無し形も見えずのお方でありまするので、一生懸命にお願いしても、なかなか「どないなっとんやろう」と思うたり、響いてこん、いうことがたんとありますが、しかし、よう考えてみれば、それぞれの心も形が無いのですから、その形の無いものが、それぞれの心が、形の無い神様へ向かうんじゃからな。
 ここに、こういう物体がある。ここに火鉢がある。動かざるものがそこにある。これもほんとは危ないもの。目に見えてる物体が、ここに必ずある。
 誰々がいてる。目に見えてある。これは、確かなことなんかいうたら、人間かてそう。いつ死ぬか解らへん。いつ亡くなってしまうか解らへん。物かて、いつ潰れるか解らへん。お金かてそう。何万円ある。何億円ある。気が付いたら赤やった言うてな。粉飾決算せなならん。スーッと消えてしまわなならん。そいう面で「確かなことである」というのは、どれだけ確かなことなんかいうことが解らん。


 私が学生の時、皆それぞれに就職する。「あいつはええとこ行きよったな」言うたら、造船に銀行に、繊維や。皆あかんが…。「銀行行きよった。やっぱり大したもんやな。あいつはよう勉強したからな」。確かなことであると、一つも確かなことあれへん。不確かや。
 そうして見ると、確かなものいうのは何もない。あるように錯覚してるんやな。お金もこんだけあったら大丈夫やいうて。ほんなの解らへん。すぐ無くなる。自分の命もそうやし、家族もそうやし、「確かなことである」いうのは何もあれへん。
 しかし、目には見えんけれども、自分の心があるいうのは、確かや。自分がここにいてる。命があって、目に見えない自分の心があるのは確かや。その心が、我が心が、目に見えない神の心につながる。我が心が神に向かうのを信心という。正にその我が心が神に向かうのを信心という。
 ところがまたこれも危ない。我が心いうのは、状況状況で、コロコロ、コロコロと変わってしまうんやな。そやから、信心さしてもらうものは、先ほど、頂きましたみ教えの「信心する人は、何事も真人になれよ」真の人になれよと。これが唯一、目に見えん心が、目に見えない神様に働きおうていく唯一のことじゃないかと。
 人間は目の前に見える、「あれがこうなったら、ええのに。こなんしたら、儲かるのに。こなんしたらええのに」とそればっかり計算せんならん。それで、一喜一憂せなならん。皆、不確かなことで、動くことに一喜一憂して、心がコロコロ、コロコロ移ろい変わっていく。さっきまで喜んでいたのが、次の瞬間シュンとなってしもうたりな。自分の心が定かではない。移り変わるそのことに対して振り回されておる。
 ここで、変わらないものは、天地の親神様。その神様に真心で向こうていく、真の人にならしてもろうていく。これが唯一神様につながっていく世界がある。
 すると、神様が天地のお働きをもって、万事万端にお引き立て、お引き回しくださる。これが、「天地ははやることがない。はやることがなければ終わりもない。天地日月の心になることが大切である。信心はしなくてもおかげは授けてある。」とおっしゃる。天地日月の心にならしてもらうこと。その真の人になるというのは、「どうしたら、神様喜んでくださるかな。どうしたら人様が助かりはるかいな」とそれだけなの。逆に言うと。その唯一つ、その心を押さえさしてもろうておけば、神様がようようにお働き下さるのは事実であります。有り難うございました。

(平成十年十月十四日)