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あなたは「ちょっと聞いた」になってませんか

 人を殺さないと言っても、心で人を殺すのが重大な罪である。人を鉄砲でうったり、刀で切ったりしなければ、私は人を殺してはいないと言うが、それは目に見える。目に見えない心で人を殺すことが多い。それが神の心にかなわないことになる。目に見えて殺すのは、お上があってそれぞれの仕置きにあうが、心で殺すのは神がおとがめになる。心で殺すとは、病人でも、これは大病でとても助からないなどと言うが、これが心で殺すことになる。人間の心では、助かるか助からないか、わかりはしないであろう。また、あの人は死ねばよいと言ったりもする。それがみな心で殺すのである。そうではなく、どうぞ向こうが改心しますようにと、神に祈念してあげよ。(『天地は語る』七五)

 人を殺すと言うことで、今、御理解を頂いたんですけど。目に見えて、あの毒入りカレーではないけれども、ヒ素やないけれども、これはとんでもないこと。人間としては、絶対してはいけないことなんでありますが、「心で殺す」ということ。これは、皆ようやってるんじゃないでしょうかね。しょっちゅうやってるのではないでしょうか。ほんで、心で殺す中に、こういうのがあります。


 例えば、お財布を机の上に置いとく。自分が何かの用で外へ出る。置いてたと思うたそこに財布がない。「あれ、どこやったんやろう」まずポケットを調べる。引き出しを、ちょちょと調べる。「ない。どないしたんやろうな…」
 そこへ、違う人が来て、
 「どないしはったん。財布ないの。置いたつもりが、この頃よう忘れるわ」
 「そう、誰々さん、Aさん前通っていったで」と言う。
 「えっ…」
 「まさか」という思いが片一方にある。片一方で「ひょっとしたら」と言う思いが出てくる。なかなか財布が出てけえへん。そこへBさんが来て、
 「ここへ財布置いといたつもりなんやけどね。Aさんが前通った言うてんけど…」
 「いや、あの人ちょっとね、この頃ね…」
 Cさん、Dさんへ、とっと、とっととそれ伝わってしまうねん。ほんで戸棚見たら、ひょこっと置き忘れてるんやな。この財布があった時に「はあ、良かった、良かった」と思うわな。財布あって良かった、良かった。さあ、犯人にされたAさん。どこまで噂が広まってますやろうな。
 「そのAさんと違いまんねんで」これは、言うて歩けへんねん。今度は、言うて歩けへん。
 「はあ、良かった、良かった」で終わってしまうねん。こんな所に置き忘れてしもうたんや。「私も年いったもんやな。良かった。良かった」
 犯人にされたAさんは、どないなりまんねんやろうな。これは。その噂はどこまで広がってますのやろうな。しまいに、噂いうのは、尾ひれが付いて「そう、そうあの人手癖悪いねん」しまいに、三人目ぐらいから、そないなるねん。「そう、そうあの人は、手癖悪いねん」尾ひれがまた付いて、ダーと伝わる。知らんのは、そのAさんだけ。


 というようなことがありますね。私は、人の噂話しは嫌いですねん。色々と『役の長』をさして頂くと、情報を収集せなあかんと、よう言われますねん。私は余り聞きたくないねん。情報を収集して、人事のことやら色々ある。『長』をしたら、確かに情報収集せないかん。しかし、あんまりええこと言いよれへんねん。皆な。「ちょっと聞いた」いうような話しやな。財布とってへんのに、Aさん泥棒扱いされてしまうのね。そんなものね、噂いうのは。そやから、人の噂は聞きたくない。また、言いたくない。財布見つかって、ヤレヤレ有り難かったと思うか知らんけども、犯人扱いされたAさんは、たまったもんじゃないわ。「財布ありましてんで、Aさんと違いまんねんで」言うて歩けへん。噂だけが走っとる。人を殺すということは、何でもないところでポッ、ポッ、ポッ、人を殺してますな。「ちょっと聞いた」ということでダーと人を殺しておる。
 その噂がまた、こちらへ入ってくるのが、面白いですね。
 「先生、誰々さん、こんな言うてはりましたで」。また、それ聞かしてくれんでもええのに、聞こえてくる。私もそれ聞いたらおもろない。誰でもな。私の悪口、教会の悪口ダーと言うねん。「私もそうや。私もそうや。誰々さんこない言うてはりましたで」またこっち入ってくる。面白いもんやな。何してんねんなと思うことがある。神様へ向かわないかんのにね。
 よしんば、Aさんが財布取ったかもしれない。「どうぞ、神様、不心得がありませんように」と神様へお願いしていってあげないかん。ところが、それをせんと「ちょっと聞いた」になってまうねんな。長年信心してはっても、そんな人ばっかりですね。有り難うございました。

(平成十年十月六日)


悠々とした人間のしがらみを外れた生き方

 よく大きな心にならないかん。人間気持ちを大きく持たないかん。ということを何処でも、誰でも思ったり、言うたりするんやけども。ほんとに大きな心になれてるか言うたら、なれてへんのね。心配したり、腹を立てたり、くよくよしたり、そんなんばっかりが、毎日渦巻いているような気がする。
 私自身も、こうして長年ご信心のおかげを蒙らしてもろうて、毎日毎日、神様に向かわしてもろうてても、ふと自分の狭い心の中に、シューと入ることが時々ある。その時は必ず、人を責めてる時ね。人を責めてる時は、シューッと中に入ってしまう。というふうに、とかく大きな心にならないかん、ならないかんいうて思うてるのにシュッと狭い心になってしまう。自分も苦しみ、人も苦しみと、いう案配にある。


 昨日、初代の先生の六十一年の例年の御霊様のお祭をさしてもろたんですけど。
 私は、お目にかかったことがない。お写真だけですわ。はあ、お目にかかったことはないんですが、私の父やら、また、他々の人から、初代の先生を聞かしてもらう。普通の量りでは計れなかったということですね。
 例えば、お正月のお年始に行かしてもらいますわな。その時に、いっちょらいの羽二重の羽織着ていきますや。帰りに雨が降ってきた。奥さんと一緒に行きはったんやな。奥さんにとっては、着物が濡れたら、えらこっちゃ。「雨降って来ました。走りなはれ」そんなら、初代の先生、「前にも雨がふっちょる」言うてね。走らない。


 あるいは、昔は荷馬車いうのがありましてね、材木や、重い物を馬に引かしたりする。教会には、今もありますように、手水鉢がありますけど、どこの教会でも、お宮さんでもどこでもありましてな。そんなら、馬に水をやらないかん。それで、馬方言うんか、馬喰(ばくろ)言うですかな。
 「すいまへん。ちょっと水もらえまへんか」
 先生は、
 「どうぞ、どうぞ」言うて。馬が水飲んでる間にね。馬方のおっちゃん、ちょっと休憩や。
 馬方に、
 「あんたは、何処から来たんや。何処の国のもんや」
 「はいはい、かくかくです。」
 「よう働くな。あんたは、お酒好きか」
 「ええ、好きな方です」
 「ちょっと待ちや」言うて、台所行って、コップ一杯持って来て、
 「まあ、飲みなはれ。これ飲んで、元気出しなはれ」
 初代の先生は、一杯もよういかんの。
 「まあ、これ飲んで元気になりなはれ…」
 全然見ず知らずの馬方にな。
 「あんたこれ好きか、飲みなはれ。」
 そうしたら家のもんに、
 「アホなことしなはんな。全然見ず知らずの人に、ほんまにもう。何で酒振る舞わないきまへんねん」
 「いや、一生懸命に頑張ってる」
 「頑張ってるいうて、内と関係ありまへんねん。」


 そうかと思うたら、気の毒なお方に、請け判言うてな保証人のこと。
 「よっしゃ、よっしゃ」言うて保証人にポンポン、ポンポンと判を押しはるのね。その後始末に家族のもんキリキリ舞いや。はあ。
 「これ、どないしますねん」
 「どうもしゃあない」どうもしかたがない。
 「どうもしゃあない」いうような案配。ちょっと普通の物差しでは計ることが出来ないお方であったらしい。
 そんなとこばっかり聞かしてもろうて、どうなんかいうたら、そうじゃない。
 例えば、日清、日露の憲兵として大陸に渡っていますわね。憲兵軍曹になってますから。士族いうても、うちは、負けた方、越後の国(初代の出身地)は賊軍の方ですね。賊軍の方はね、なんぼ頑張っても、将校にならしてもらえない。官軍と違う方。なんぼ士族出身です言うたかて、将校にならしてもらわれへんのね。せいぜい下士官の一番上の軍曹です。しかし、実際の軍務いうのは、将校よりも、その下の下士官が全部軍務するのね。初代は報告書書いても、何さしても、キッチとするのね。そういうものが、時々出てくる。それは、すごいもんですね。後々御用なされて「まあ、ええじゃないか、しゃあないわ」言うてるのと全然違うのね。


 そうしたときに、大きな心にならしてもらう。大きな心になられたんじゃなあと。ところが、家族のもんにとってみると、「もう、アホなことして」とこうなる。ところが、悠々として人間のしがらみを外れた生き方をね、なさっておられる。
 なぜなんなんだろうね。なぜそういうことが、出来たんだろうなという思いをさしてもらう。そうしてみると、越後の国から出てきて、右も左もわからんと大都会のど真ん中に出てきて、キリキリ舞いして、あるいは戦争へ行って、「確かなこと」という「これがあったらええんじゃ、これさえあったら出来るんじゃ」という、「確かなことということがない」ということが解ったんじゃな。お金もそう。人もそう。景気、不景気もそう、これさえあったらええんんじゃ、こうしたらええんじゃ、と確かなことはなんやと。ただ確かなこというたら、今日も皆、私もあなたも、神様のおかげで生かしてもろうてる、いうことだけが確かなことや。そこへ、逆らわんように、そこへ基づいて生きさしてもろういうのが、大事なんやと。そこに分け隔てしたら、あかんのじゃといういうような、大きな大きな心持ちになられたんやろうなと、想像する。会うてないから解らん。
 どうして、想像が出来るかというと、その初代の先生が、亡くなられた時に、「先生のおかげで。先生のおかげで」言うて、本当に多くのお方が、慕うて、慕うて慕いたおしたという。家族のもんから見たら、「ほんまにもう、アホことばっかりしはって。請け判ばかり押しはって、そこ踏み倒されて、えらい目に遭いましたがな」言うようなことか解らん。
 しかし、そこでお願いをしてるということがあったんでしょうな。大きな、大きなものに。そやから、大勢の人にただ単に請け判してたら、これアホやな。神様にお願いして、してね、しいたおして、「どうぞ、この者が助かりまするように」という願いを持ってしておられる。それで、踏み倒されたら、「どうもしゃあないが」と。「どうもしゃあないが」の向こうに神様がそうせいおっしゃったんじゃと言うものがあるんでしょうな。
 これは、やはりもう一つ言えば、「こうしたらあかん。ああしたらあかん。わしはこんだけしてやったのに。あんだけしてやったのに。世の中こうじゃから、こうせなあかんのじゃ」というようなことで、みんな動いとるようやけれども、「はあ、確かなことであるということは、何処にもない。みな不確かなこと。命もそう。社会もそう。みんな確かなこというのはない。確かなことは、神様に、今、あなたも私も、生かして頂いている、そこへ基づいたら、大きな心になれますよ」と。
 初代の先生の例年祭をお仕えしつつ、私はどうやろう。「まだ、あかんな。まだ小さいな、いらつきよるな。まだ、腹立てよるな」という思いを持たしてもらいました。有り難うございました。

(平成十年十月七日)

うかうかと暮らす人

 信心する人は、めぐりを取り払ってもらっているのであるが、信心しないで、うかうかと暮らす人は、めぐりを積んでいるのである。(『天地は語る』八五)

 「信心しないで、うかうか暮らす人はめぐりを積んでいるのである」別にうかうかしてるつもりじゃないんやけれども、うかうか≠ノなってるんでしょうね。ということはね、孫を見てますと、もう日に日に成長していくのが見える。「あっ、もうひっくり返りよったな。今度は後ろずさりしだしたな」もう命が前へ行こう、前へ行こう、進歩しよう、進歩しようと、このように神様から頂いた命が、そうして動いていってるんですな。
 これは、赤ん坊だけと、大人は思うてる。こっちの命も、神様から頂いてるのね。そうすると、どれだけ、こっちの命が、心が、大きゅうならしてもうたか。どれだけ、進歩さしてもろうたか、という、そこへいかんとうかうか≠ノなってしまうんやな。どうも、うかうか、うかうかと。気が付いたら今日は、十月の八日ですかね。「おめでとうございます」から、ヒューッと、こうオトットットというふうに、シューと時間が過ぎてしまう。


 今お祭りしている大原さんね。(教会の霊殿左に、信者さんが亡くなると、新霊様としてお写真を飾り、五十日間お祭りしている)昨日、十日祭のお祭りをさしていただいたんですけどね。このお婆さんは、御主人が鉄工所やってね。前にもお話したと思いますが。耳が遠くて、鉄工所やから、音がガーン、ガーン言う音でしょ。ですから、耳が殆ど聞こえてませんねん。全然聞こえてなかった。
 耳が聞こえないということは、外界と遮断ですからね。すぐボケてしまう。しかし、このお婆さんはボケなんだ。晩年身体が動かなくなってやめたんですけども、毎月、お家のお祭り、宅祭に行かしてもろうてた。若い方は、お勤めがあるから、お婆さん一人の時が多かったんやな。自宅のご神前の前にお供えものをされる。毎月宅祭が楽しみしておられた。
 ある日のお祭りの時、私が部屋に入ったの。耳が遠いから気が付けへんねん。何してるんか思うたら、教典を一生懸命に読んでるの。耳が聞こえんでも、目が見える。教典を一生懸命に読んでる。ほんで、お婆さんと言うて肩叩いたら、
 「先生、ようお越し」
 「えらい勉強してはんねんな」
 「はあ、いくら勉強しても、してもしたりません」言うてそう言われた。すごいもんじゃなと思う。
 晩年、いよいよ身体が動かんようになってきて、骨を折ったりしてね。それでも、朝、目が覚めたら、ベットのところから「金光様有り難うございます。今日も一日命を頂いております」言うてたと、子供さんが言うてました。「どうぞ、今日も迷惑かけませんように」と言うて手を合わせてた。最後の最後まで手を合わしていたという。尊いことやなと。
 誰でも、年取るんですけど、普通年取ったら、もう気ままになってき、意固地になってくる。一つもその意固地がありませんでしたと。子供さんたちこうおっしゃっていた。最後までよう面倒を見れたと思う。逆にね。よくお子さんたちが、大切に出来たということは、やはりそのお婆さんの持っておる信心の徳があったからやと思う。
 なんぼ親子やから言うたかて、血がつながっているいうても、気ままされたらイヤやからね。「もう寄りつかんとこ」とこうなるのが人情や。「また言うてるわ。イヤや、イヤや」と。あんまり気まま言われたら、なんぼ親子言うても、イヤやなと思うてしまう。
 ところが、ほんとに子どもさんが、よく看病が出来られたいうのが、お婆さんの持っておるその信心の徳が、子供を引き寄せるんやろうね。有り難いこちゃなあと思うて、うかうか≠ニ日を過ごしたらいかんな、という思いを改めてしました。有り難うございました。

(平成十年十月八日)