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よその人からは「ええこと言うてくれた」と思うけど…

 実の親子のように、今、親しいいうことは、思いおうてるいうことなんですけど、逆に親しいいうことは、慣れ親し過ぎて有り難みが解らんようになる、ということもありますな。慣れ親しみ過ぎて有り難みが解らんようになる。一番思うてくれてる親のことが、有り難うないようなことがあったりして、難儀なことですな。これは、慣れ親しみ過ぎて、それが有り難う無くなってしまう。いうことがあります。
 例えば、親がいつも「こうするんやで」。あるいは、「そんなことしたらあかんで、これが、大事やで」と言うて、教えてもろうても「また、始まったか」。いうようなもんじゃな。聞きよらん。
 ところが、他人さんが言うてくれたら、「はあ、ええこと言うてくれた。ええことおっしゃる」と、こうなる。面白いもんじゃ。一番自分自身を思うてくれてる。大事にしてくれてる親のいうことは聞けなくて、他人さんのおっしゃることがよう聞けたり、するんですな。これはどういうことなんですかな。なかなかよう解らんところがあるんですけど…。
 また、それも同じことで、先代先生、私の父ですけど、本教の中でも有名な先生であり、お話がものすごく見事なお話をしてくださる。ということで、地方の信者さんは、「押木先生、押木先生」言うて、「あなたは、ええところへお参りなさってますな」言うておる。しかし、うちの信者さんは、ピンともシャンともけえへん。面白いもんやね。ピンともシャンともけえへん。うちの信者さんは…。
 ところが、よその地方の教会の信者さんは、「へえー、押木先生の教会にお参りなさってますの、ええところへお参りなさってますな」言うてうらやましがる。うちの信者さんは、それを聞いても、「どこがええんかいな」言うてる。そして、他の人の話しを聞くと、ファーとなってしもうとる。


 実は、先生方の集まりが、多数あるんですけれども、色々と勉強なさる先生がいらっしゃる。『脳内革命』の本やとか、何の本やとか、色々な本がありますね。『意識革命』やとか…、そいう色々な本がある。私はそんな本を余り読みません。
 こないだも、ある会合で、とうとうと「こう載ってる、ああ、載ってる」言うてるから、「もっと教祖様の勉強し」言うて。「もっともっと、教祖様を頂いた方がええで」言うて。「わざわざ難しい本読まんでも、教祖様は平易なことまで、大切な所を順々と教えてくださっている。もっと教祖様のことを大事にさしてもらわなあかんわいな」言うたんですけどね。
 面白いですね。よその人が言うたら大したことになるんやな。ところが、代を重ねてきて、百何十年なってきて、その中にどっぷりおると、それがあんまり有り難うないことになってしまうんでしょな。これは、人間の習性みたいなもんでしょうけど、はあ…。
 人に言われ、よその人に言われたら、「へえー」と関心する。「ファー」と思う。日々言うてくれてる、親やら、教会の先生のことは、「また始まった」になるんやな。面白いもんやな。まあ、それで、よその人に言うてもろうて改まったら、それまた結構なことなんですけど…。
 そのもう一つ奥にある「祈って頂いている」「願ごうて頂いている」「思って頂いている」そこを頂かんとね。どうもならん。なんぼ、本屋でええ本買うて読んでも、その本を書いた人は、こちらのことを祈ってくれてないからね。教祖様を頂き、教祖様は日々にお取次くだされて、祈ってくださっておられる。そこのところを親と一緒やな。よその人は「ええこと言うてくれた」としてみても、「思い、祈り、願い」はしてくれてないわな。そこのところが案外解らんと、ジャジャ漏りになってしまう。
 昔から親の言うことを聞くもんは、出世するとか言うたもんで。親の思いを頂けるものは、出世するとよう言うたもんです。それが解らんということ。よそで勉強するのも結構なことです。大いに勉強さしてもろたら、ええんですけども。よその本やら、よそのことで勉強さしてもろうたら、結構なことなんですけど、それには、祈り願いがそこにないということを、押さえさしてもらうということ。一番手元の所に、一番大事なものがね、一番大切なものがある。一番大事なものが、実は手元にあるということを、解らしてもらうことが大事なことかと思います。有り難うございました。

(平成十年十月一日)


御霊様にお取次お願いお届け申し上げる

 前にもちょっとお話しをさしてもろうたと思いますけれども。
 日々の御祈念をさしてもらいまするに、皆、天地の親神様からそれぞれ、一人、一人が分け御霊を頂いておると、こう教えて頂いております。その通りには、違いないんでありますけれども、我々人間の方は、神様の純粋な分け御霊を頂いておりながら「あれが、こう。これが、こう」というように、現実の生きるところで振り回されていきますわな。せっかく頂いている、神様の分け御霊がくすんだり、なかなかお出ましなかったりな。そうしておる。それが、生きてる者の現実の姿やと思う。
 そいうところで、御祈念さしてもらうのに、教祖様、生神金光大神様に、二代金光様、三代金光様、四代金光様にお取次を願う。もうお体がございませんからね。また、長年の御神勤、お取次をして下さり、もう神様と同じようになっておられる。神様の魂と全く同じようになっておられる。その教祖様はじめ、歴代金光様のお取次によって、「どうぞ神様、天地の親神様に続かして頂くように、響かしてもらいますように」というお願い。
 また、それだけではなしに、初代、二代の御霊様、この御霊様も身体が無くなっておられまするでな。身体がのうなるいうことは、もう諸々が全部取り払われるいうこうちゃな。神様の魂だけになってしまういうこと。だから、初代、二代の御霊様に「どうぞ、よろしくお取次お願い申し上げます」と。お願いを申し上げて、天地の親神様にそれぞれの願いを、皆さん方の願いを願わさせてもらう。


 まあ、毎月祈願カード(教会備付け)でお届けさしてもらうようにということで、皆さんがカードでお届けをされたのを、毎日毎日改めて今日のこととして、お取次お願いして、お届け申し上げる。
 そうしたら、ふと気付かしてもろうた中に、皆さんも気付きませんかな。
 今日、月の始めでしょう。先月の六日に願い出たカードは、今月の六日まで願いさしてもらう。だからまだ、続いているのね。同じ人の御祈念を続いて。ほんならもう、約一ヵ月経つの。そうしたら、ものすごく御祈念のスピードが早くなっているの。軽くなってきてるいうか。しんどいお願いごとが、ものすごく軽うなっているの。今日ふと気付かしてもろうた。
 「重たいなあ。これなんとかなあー、おかげ蒙ってもらいたいな」というお願い事がな、一月願わさしてもろうてたら、ズシッと重たいことが、スーッと軽くなってきてるいうことが、ふと気付かしてもろうた。有り難いことやな、神様に届いていってるんやなと思う。なかなか、神様に届かしてもらういうことが、難しいけども…。
 ですから、ご神前の方でお願いさしてもろうて、次、御霊様に移れない時が度々ありましたな。なかなか神様に届きにくいなと思うた時が、度々あったんですけども。ところが、一ヵ月間ずっと、その人のことを願わさしてもろうて、お取次を願わしてもらうと、スーッと届いていくような、そやから、ものすごく時間が短こうならしてもらえてきてるでしょう。軽くならしてもうてる。「もう、重たいなあ。しんどいな」ということが、スーッと軽うなっている。有り難いことやなと。
 至らん御祈念やのに、神様、教祖様、歴代金光様、初代二代の御霊様の、お徳をもってね。スーッと。凡夫の至らんもんでありまするのに、一ヵ月間カードで御祈念さしてもろうていると、軽うならしてもろうてきている。軽うならしてもろうているいうのが、事実短くなっている。さぼって短くなってるの違うでな。軽くならしてもろうてる。有り難いなあと思わさしてもらうのが一つと。


 もう一つ、私も人間やから、お願いごとをお届けさしてもろうて、忘れることがある。たまにな。お願いごとな。実は、昨日のお願いごとで忘れたことがあった。ほんなら、御霊様にいかしてもろうたら、ふっと「お前、このお願いごと、お取次忘れてるで」言うて。フッと気付かしてくださるんやな。有り難いことやな。また、改めてお取次お願いごとをな、また、さしてもろうたんやけども。
 こちらも、凡夫でありまするんで、お願いごとをフッと、ど忘れしてしまう。そうしたらね、御霊様の方で「このお願いごとどうしたん。忘れてるやろう」言うて。「はっ、忘れとりました。相済まんことでございました」また、改めて、そのことのお願いごとをお取次する。二件あった。二件忘れとった…。相済まんことで…。ほんなら、済まんことで、わざわざ教えて頂き、有り難うございました言うて。足らん所を足してくだされて、有り難いことやなと、日々思わさして頂いて、お守りを頂いておるいうことがね。
 なかなか皆、解らへんな。スーッと抜けてしもうて、ああじゃ、こうじゃばっかりのところで、ウロウロ、ウロウロしてます。それをじっと神様、御霊様はじっと見守ってくださっておられる。そこから見ると、大難は小難に、小難は無難のお祭り替えもくださっているやろうし、オーットットのところをシュ、シュと守ってくださっている。こちらが、それ気付かんと、お礼もろくろくよう言わんと、お願いする事さえ忘れてしまう。
 「誰のこっちゃねん」と言われないかん。「誰のこっちゃねん」と。自分のお願いごとさえも忘れてしまうような、ええ加減なことでありますが、お守り頂いての今日であろうかと思います。有り難うございました。

(平成十年十月二日)

私がおかげの受け始めです。皆もその通りにおかげが頂けます。

 昨日は、御本部の教祖生神金光大神様の御大祭、扇町からも参拝さして頂きまして、ええお天気の中、全国各地から、津々浦々から大きな祭場に人が入り切れませんでして、大変でございましたが、大勢ご参拝なられまして、その中の一員として、こちらも参拝のおかげを頂いたんですけどもね。私は、教祖様が好き′セうたらおかしなことなんですが、「教祖様が好きやな」と思うところがある。
 普通、宗祖、開祖と言われるお方は特別のお方、ということですな。
 例えばお釈迦さんなら、産まれてくるなり七歩歩いて、「天上天下唯我独尊」とおっしゃったでしょう。お母さんの脇から産まれてきた。キリストさんはどうか言うたら、聖母マリアから、始めから予言者として産まれてきて、お大師さんは産まれてくるなり、後光がさしてたという。
 宗祖、開祖と言われるお方は、特別の申し子としてこの世に生を受けてきておられるという。あるいは、そうでない宗祖、開祖も大変な山へ、十年もこもって滝に打たれたとか、火を踏んだとか、断食をしたとか、というような特別のことをされて、特別の霊徳を身につけて、そして宗祖開祖になったと。道を開かれたと聞く。そんな人が多いですな。金光教祖は何にもあれへん。そやから好きなの。
 普通の百姓の子として産まれて、まだ、身体の弱いぐらいのことで、ズーッと百姓の子として産まれ、普通に生活して、勤勉実直ではありましたけどな。宮寺をお参りするのが、好きだということはありましたけどな。特別のことをなされたわけでもない。
 普通のお百姓さん。どこにでもいてる真面目な、人の良い、働き者のお百姓さん。普通に結婚なされて、普通に子供が産まれて、まあ、普通に勉強して、ちっとも我々と変わらん。そこが、私大好きでね。特別のお方やったら、私、ようついていかん。「あれは、特別なお方でございましてな。とんでもございません。あれは、特別な人で、とても、とても、真似できません。あなたのご祈祷によってな。私が助かりまんねん…」という。
 そうじゃなしに、金光教祖様は、「おかげは和賀心にある。あんたの心にありまんねんで」と返してはりますやろ。「おかげは和賀心にあります。この方がおかげの受け始めです。皆もその通りにおかげが受けられます」。この方いうのは、教祖様ご自身のこと。「特別の人間ではありません。私がおかげの受け始めです。皆もその通りにおかげが頂けます」という、ほんとに皆一緒です。「私のことを生神、生神と言いますが、私だけが生神だけでございません。皆、神様の子供ですから、生神です。私は何の功もございません。土掘る百姓でございます」
 ちっとも特別のお方ではない。皆と、どこが違うたんやろ。どこかで違うてきた。始めから違うたんじゃない。どこかで普通の凡人と、ちょこと違うてきた。教祖様、四十二才ぐらいから、ちょこっと違うてきた。今で言うたら、五十代かな、江戸時代の四十代始めやから、今で言うたら、五十代、あの辺から、ちょこっと違うてきた。


 一生懸命仕事をする。百姓をする。家庭を守る。村人の付き合いもする。嬉しい悲しいもある。一つも変わらん、我々庶民と同じ生き方でありまするけども、今で言うたら五十代過ぎ、身体も段々に弱ってきますわな。身体の曲がり角にきます。私も、もっと元気やったのになと、思てますけど。もっと頑張られたのになと思う。ところが、身体の曲がり角になられて、ご自身が大病を患う。あるいはまた、それまでに、ようけのお子さんや、肉親を亡くされる。お若い時に亡くされるのは悲しいんやけど、そやけど、頑張らないかんいうのがありますわ。肉親を亡くして辛いけれども、頑張らないかん。これ誰でもあると思う。
 ご自身も病気になって、頑張らないかん思うんやけども、曲がり角になってきた時に、ふと、一生懸命にやる、百姓する。頑張る。まあええ人。村にとっても、ええ村人であり、あの人は真面目やで、一生懸命の頑張りややでと。あるいはええお父ちゃんやで。という感じやね。奥さん幸せやでと、こんな感じやね。ええお父ちゃんであり、ええ村人である生き方、それは、大事としつつも、命から物事を見られたんでしょうな。
 ええお父ちゃんやら、ええ村人。これは、人との関わり合いですな。それも大事なこと。人間は社会に生きてるからね。人との関わり合いで、ええ父ちゃんであり、ええ主人であり、ええ、真面目な村人である。ええ人。これは、人と人との関わり合いで、ええ人でなかったらいけません。確かにええ人。しかし、いくらええ人であっても、命はまた別ですわな。この命ってなんやろうなと、そのへんから、ちょこっと変わってきたんやろうな。
 この命は自分で造ったもん違う。神様に頂いた命や。自分で一つも造られへん。そういう目で見たら、百姓が米を作るいうけど、米作っとるんやろうか。百姓はお世話するだけと違うのやろうか。我が子や言うてるけど、わしの子じゃろうか。ほんとにと。後に御理解で出てくるでしょう「神の氏子が、我が体内におると思うて」と。後々み教えが出てきますけども。
 そこで、命から、ちょこっと、命から見るようになった。それまでは、良いお父ちゃん、よい主人、よい村人、良い百姓、という人間の方に目を向きます。誰でもそうやな。人間の方に目を向くんやけども、それも大事にしつつ、命に目を向けた。そうして見たときに、この命誰造ったんやろうな。この百姓が米を作る言うけれども、この米は、確かに百姓頑張ってんのやけれども、お世話してるだけやないかと。天地に命があるから、神様が生かしてくださるから、これ稲の命があるん違うやろうか。というふうに、そこから物事を見られるように、段々なってきた時に、「恐れ入ってございます」というご信心ができたんやな。
 人と人との関わりやったら、恐れ入れへんねん。「ちゃんとしてまっせ。やってますがな。頑張ってますがな。がんばりまっせ。ええお父ちゃんなりまっせ」言うことやな。人と人との関わりやったらそういうことやけども。「へえ、この命どないなってんのかいな」と思うた時に、「恐れ入ってございます」と。滝に打たれんでも、山へこもらんでも、神様と出会うていかれたんやろうな。「恐れ入ったこっちゃな」と。「井戸水がいつも滾々と水が湧き出るてるがな。有り難いことやな。この水なかったら、みんな生きていかれへんで。はあ、この水誰が湧かしたんやろうな。有り難いことやな。もったいないことやな」と、そういう物の見方、考え方にぼちぼちになられた。一辺になられたと違う。ぼちぼち、ぼちぼち、ぼちぼちとなられた。ふと気が付くと、天地の神様と同じぐらいの中身、働きが出来られるぐらいになられた。
 「天地は掌(たなごころ)にあります」と言われるぐらいの、すごいお徳を積まれるんでありますけど、特別の行をなされたわけではない。ここが私、教祖様が大好きなところです。
 特別なことせないかんいうたら、しんどうてしゃない。「お断り申し上げます。あなたやる人、私はもらう人」言うてね。その方に回るわ。
 いや、そうじゃない、「私がおかげの受け始め、皆もその通りに受けられます。信心を難しゅう考えんでよろしい。和賀心次第です」とおっしゃるのも、そういう事かと思います。有り難うございました。

(平成十年十月五日)