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出世はしないが、おかげを蒙っていく人

 信心と言いましても、色々の信心の仕方がありましてね。「先祖が何々教やから、何々宗だから、何々を祀ってます。法事もちゃんとしてます」という、それもその方は、信心だと思うておる。「キッチッとやれてます」と言う。
 人にも色々な人があって、物事をキッチリ出来る人、賢い人、目先の見える人、鈍な人、様々な種類がある。ずるい人、こざかしい人…など、正に十人十色であります。その十人十色の人が、その人なりの信心をする。先ほど言いました「うちは、何々宗でありますので、ちゃんとお祭りしてます」ということ。あるいは、それぞれの問題があって願掛けのような信心をする人。
 それぞれの人が、それぞれなりのものを持っておりますから、自分はちゃんとしてると思うてるのね。それぞれなりにね。ちゃんとしてると思うてる。生きることすべてにおいてもね。
 問題が起こった時に「何で」と思う。「何で」というのは、ちゃんとしてるから、「何で」が起こるんでね。皆、それぞれなりに信心してるつもりなの。つもりやから「何で」が起こってくる。


 そういう中で色々な質の人間があって、賢い人、情の深い人、浅い人ある。色々なタイプの質の人があります。神様に好かれる質の人と、そうでない質の人がありますな。それが、人間社会では、賢い人とか、物事ちゃちゃと出来る人とか、よく人の世話が出来る人とか、上に立てる人とか、いうことと、神様に好かれるとは、ちょっと質が違いますね。
 あの人はいつもオットットッと言うても、スーと上手いこと行かしてもらいはるな。いう人を見さしてもうてると、神様が好きやねんな。見返りも何もないねん。「こうしたから、こうじゃ」という神様に見返りも何もしてないねんな。
 お参りするのが好きやねん。御用するのが好きやねん。教えを聞くのが好きやねん。その好きの人。そんな人はね、社会的にちゃちゃと出来るとか、物事出来るとか、金持ちになるとか、そんなの関係ない。大体そんな人金持ち、ようなりませんわ。
 しかし、人生の色々な大騒動という中で、不思議とその時、その時のご都合御繰り合わせを頂いて、穏やかに、穏やかに生きさしてもろてますな。これは、神様が好きやねんな。ほんで、物事が起こった時、決して「何で」ということを言わない。「すみません」言うてるわ。「こんな事が起こってきて、すみません」という。「すみません」言うてることは、「ちゃんとやってます」いう自我意識いうのが、少ないのでしょうな。そやから神様を、好きになるんでしょうな。自我意識が強かったら、「私は、こうこうです」言うから、神様が入らないんでしょうな。
 そやから、ほんとに物事が起こっても、そいうタイプのお方は、「すみません。私が至らんもんで…」。誰に「すいません」言うてるかいうと、神様に「すいません」言うてるのね。
 「神様はいつもお守り頂いてるのに、こちらが鈍なことですいません。」こんな感じやな。
 「神様いつもちゃんとしてくれてはんのに、こちらがちゃんとようしませんで、すいません」と。ですから、逆に難儀して、困っていて「すいません」言うてるの、神様に。そうすると、不思議とシュッ、シュッ、と段取り良いおかげ蒙っていきはりますな。


 そやから、ほんとに、それぞれの人の質というものがあって、質なりの信心をされてますね。でありまするんで、その質なりのことで現れてきますね。
 「私とこは、何々宗でちゃんとしてます。法事もしてます」。また出来る人は賢い人や。しかし、多く問題が出てきますね。誰でも問題が出てきますが、その問題出てきたのが、良いことへ展開さしてもうていくか、ずるずるといってしまうか、ということですな。
 そいう中で神様を好きになれる質。お参りするのが好き。神様が好き。御用さしてもらうのが好きと。まあ、あんまりこのタイプは出世しませんけども。ほんまにおかげを蒙っていきますな。問題が起こっても、「何で」と言いませんな。「すみません」言うてるわ。「神様いつもしてくれるのに、こちらが鈍なことですみません」言うてる。そうすると、その周囲がおかげ蒙っていく。子や孫がおかげ蒙っていく。その人が鈍であっても、出世せんでも、子や孫がズーとようならしてもうていく、という神様のお徳を受けやすい質があろうかと思います。有り難うございました。

(平成十年九月二十八日)


信心の成長がピタッと止まる人

 人間というものは、一旦身に付いてしまうと、なかなかそれを改まったり、改善したりするいうことはなかなか難しいものですね。一旦身に付いてしまうと…。
 信心もそうでしてね。一旦こう、「これが信心じゃ。こんなんが信心じゃ」と思うてしもうたら、そこから抜け出すことが、出来にくいものがありますね。やっぱり信心は改まり、今月今日、改まりが大事なんですが、「こうじゃ」と思い込んでしもたら、固定してしまいます。それでええと思っているのが、ほとんどであります。
 やはり、信心さしてもらうものは、「これでいいんでしょうか。これでいんでしょうか」というのが、生きた信心でしょうな。なかなか生きた信心が出来ない。「こんなもんじゃ」と思てしまいます。


 面白い話しをしますと。終戦後、復興しました時です。何もかも物が不自由で、紙、半紙一枚をも、不自由をした時代があります。そいうところで、前の先生、私の父が、神様へお供えする玉串(榊)に付ける白い紙、シデと言います。なかなか半紙一枚を整えるいうのが、難しい状態でありました。ほんと言うたら、そのシデは一回お供えしたら、それで焼かしてもらういうのが、本当なんですけど…。そいう社会状況であり、また、教会も復興間無しで、同様な状況でありますので、何遍もそのシデを使わざるをえなかった。
 そいうところで、月例祭になったら、前回の分を使うておる。ほんと言うたら、毎回、毎回し変えさしてもらわないかんのやけれども、それが実際出来ない。それを見ておりました、その当時の信者さんは、面白いですね。シデは何遍でも、使うたらええねんと思うのね。それで、それぞれの家のお祭りをしてたら、真っ黒けのシデが出てくるの。ほんで「シデいうものは、毎回、変えさしてもらうもんですよ」と教える。段々豊かになってきて、紙かて、イヤ言うほど、ほうってますわな。
 ところが、「前の先生は、シデを大事にしてはった」言うて。黄色になったり、黒くなったシデを使う。自分の生活のところでは、ポッポ、ポッポ、物をほうってるのね。ところが、神様のことに関しては、真っ黒けのシデ使うてても平気なの。これは、どういうことなんでしょうな。自分らの生活は、段々豊かなってるんやけど、神様のことに関しては、もう「これでええねんと。これでええねん」になってしまうんやろうね。
 これ間違うて聞いたらいかんけど、お供えでもそうやな。
 例えば「お道は、なんぼ、なんぼとはおっしゃらへんねん。真心するだけやねん」いうことで…。今から、三十年前言うたら、百円札がまだあった時代。「ズーッとお供え百円でええねん」とこうなってしまう。どんどん、世の中変わってきても、豊かになってきても、「お供えは百円でよろしいおまんねん」とこうなってくるのね。ズーッと。
 今やったら千円か。「千円でよろしまんねん」。別になんぼせい言うてると違うの。その心を言うてるの。シデと同じやねん。シデが、真っ黒けのシデでもええねん。前の先生は、物がのうて、半紙一枚整えることが出来なかったんで、前のシデを使うてはったんやね。ところが、面白いもんで、「何遍使うてもええねん」とこうなる。お供えは、前やったら、「百円でええねん」と、こうなってしまう。今やったら、「千円でええねん」と思うてしまう。
 別に、神様はこうせい、ああせいとおっしゃらんけれども、「こちらの、どうさしてもらうことが、よいことでございましょうか」という向かう心がなかったらね。信心になれへんねん。
 ところが、一旦身に付いたものはなかなか、改まっていかない。いうことですかね。ほんとにこう人間いうものは、難儀な氏子やなと。「信心してます、信心してます」と。言うてても信心してるつもりになってても、お前ほんとに、神様向こうとるのか、いうことになってきたら、もうほとんど向いてない。


 教祖様は常に「これで済んだと思うとりません」ということを、いつも神様に向こうておられました。「これで良いと思うとりません。これで、済んだと思うておりません。足らん所ばかりでございます。どうぞ、気付かしてください。どうぞ、改まらしてください」と神様に向こうていかれますな。そこが神様との交流と言いますか、神人あいよかけよの働き合いが、出来てくる元になる。「これで、ええねん」となってしもうたら、生まれてけえへん。
 小さい赤ちゃんが、段々に大きゅうなってくる。そしたら、着る物でも次々変えさしてもらういうことがありますわな。「ああ、こんだけ大きくなった。次はもうちょっと、大きい服買わんといかんな」とこうなる。それと同じように神様に向かう心も、成長していかなならんのに、ピタッと成長しませんですね。
 そいう中で、新しい信者さんが参ってくる。そうしたら、前々の信者さんに、どないしたらええのか迷ってしまい、尋ねたり、見たりする。そして、「あっ、あないしたらええんかいな」となってしまう。シデかて「真っ黒けのシデでええんかいな」とこうなってしまう。そやから、古い信者さんに、余り聞かないこちゃね。危ない。非常に危ないところがある。
 そいう面ではね。古い信者さんは、ええところもあるんやけども、すばらしくいいものもあるんやけども、また反面、ピタッとこう止まってしもうておるところがある。そこを真似したら、一つも進歩せんことになってしまうね。やはり神様へ向かう「これで済んだと思いません。これで良いとは思とりません」という神様へ向かう心が、大事なことでしてね。そこに初めて、神様との間の交流が出来ていくんであって「まんまんちゃん、あん」だけでは、交流出来ませんわな。
 「神様、何がほんとうでございましょうか。これで良いとは思うとりません。これで済んだと思うとりません」という向かい方をしていかにゃ、ほんとに神様との交流、あいよかけよの交流いうことは、出来にくいもんじゃと思います。有り難うございました。

(平成十年九月二十九日)

「悟る」のが人間である

 牛は人間とは違い、寒い時でも寒さの用意もしないで、毛があるだけで、冬の寒中かぜもひかない。これは飼っている人間の力にはおよばない。鶏も山の鳥類、獣も同様である。みな、神がお守りくださっていることを悟るのが人間である。(『天地は語る』四三)

 人間は小天地で、自分の頭をいつも神がお守りくだされているから、自分の体を思うように使えるのである。(『天地は語る』四四)

 今日頂きましたみ教え、スーッと当たり前のことのように思いますけど、ほっと思わさしてもらう。
 例えば、ご理解四三の鳥や動物が風邪を引かない。毛を生やしてくださっておられる。神が生かしていると、人間の力に及ばないことじゃと。牛や馬も寒中風邪を引かない。その時に神がお守りくださっているのを「悟る」のが人間である。そのことを解らしてもらえる。鳥や獣たちが、天地の間で神様のお力で生かしてもろうてるんだなと。人間の力で鳥や獣を生かしてるんじゃないんだなということ。
 教祖様の当時は、牛や馬を農機具のように使うておりましたわな。今はそんなこと無くなりましたけども、牛の世話をするとか、牛がどうじゃ、馬がどうじゃと言うて、自分が牛や馬を使っているように思うけれども、「ほんとかなあ」と。それを「悟る」のが人間である。ここに大事な大事なキーポイントがありますね。「悟る」。そのものを見て、「わー、天地が生かしてはるんやな。神様が生かしてはるんやな」と。それを悟ることが出来るのが、人間のみであるということ。ここが大事なことですな。人間のみが、悟ることが出来る。これが、神の氏子じゃ。そのことが見える。解る、悟る、その魂を頂いておる。神様の魂を頂いておる。せっかく頂いても悟らなんだら、悟ろうとせなんだら、ずんべらぼうですわな。


 次の御理解四四でも「人間は小天地で、人間の頭をいつも神がお守りくださっているから、自分の身体を自由に使うことができる」と。馬に木に上れ言うたかて、木に上られませんわな。同じ四つ足でもな。サルの四つ足は木に上れるわ。同じ四つ足でも、馬は木に上ることが出来ない、人間は自由自在に、右向いても、左向いても、寝ころんでも、自由自在に身体を使える、その身体が動くだけではなしに、この指が色々なことを生み出すことをさしてもらえる。色々な働きをさしてもらえる。また、この頭の知恵で色々なことを、考えさしてもらうことが出来る。
 この理解四三は、魂が悟る。悟ることが出来るのは人間だけであると教えられ、次、理解四四で、頭も身体もこの手も、皆神がお守りくださっているので、自由自在になるんじゃと、このように人間というものは、大変に値打ちのあるものじゃと。一人一人が、神様の氏子で、大変な働きが出来るものであると。こう教えておられる。
 ところが、その自分の頂いている魂や心というものが、どういう使い方をしておるのか。いうたら、ウジュ、ウジュ、心配ばかり、愚痴不足ばっかり出てきたり、人を責めたり、せっかく頂いている、悟ることが出来るすばらしい魂を、ウジュ、ウジュ、ウジュ、ウジュ一生な、それで終わらしてしまわなならん。難儀なこっちゃね。神様が嘆かれる。神様に一番ご無礼言うたら、そいうことが、ご無礼かわからんわね。せっかく悟ることが、人間しか出来ないんですよ。人間しか、それはないんですよと。素晴らしいものを素晴らしいと悟らしてもらい。我が心で、人を助けることも出来、自分も助けることも出来る。この我が心でというものは、人間しかないんですよ言うて。せっかく大変な心を頂いている。それをウジュ、ウジュで一生使うてしまう。
 まあ、何がご無礼や言うたら、物を放ったら、物を粗末にしたらいかんご無礼もあるけど、その人間の心をウジュ、ウジュ、ウジュ、ウジュで一生それを使いきってしまう。こんなご無礼なことないですわな。一番のご無礼は、そのご無礼じゃと思う。
 頭もそうや。ええ方に物事造るように、考えたりすればええのに。悪い方へばっかり頭使うて、これも難儀やね。神様へご無礼や。五つの五本の指で、色々なことが生み出すことが出来る。これもろくなもん造りよれへん。これも難儀なこっちゃ。神様から素晴らしいものを頂いているのに。またその人間、六十億分の一の人間ではなしに、今、私にそれをお与え下さっておる。その今、私にお与えくださっているこの心、魂、身体をウジュ、ウジュで、今日も命放ってしもうたらな、こんなご無礼はない。何を粗末にするいうて、これほど粗末にしてるものないわな。物を粗末にしたら、「ゴメン」言うたら済む話しやけれども、命を粗末にして、人間しか、私にしか与えてもうてない、その命を粗末にしてしまう。良いこととしての働きが、よう出来ないいうことは、本当にご無礼なことである。


 今月も九月で今日でラストです。さあ、三分の二過ぎたんですかな、今年。三分の二過ぎた。「おめでとうございます」から、三分の二も過ぎてしもうた。さあ、その三分の二の毎日毎日の命の頂き方、使わしてもらい方、そいう意味でどうであったやろうか。
 ところが、人間いうのは、ウジュ、ウジュ、やってまう。そやから、「この方の道は、話しを聞いて助かる道じゃ」とおっしゃる。「まんまんちゃん、あん」では助かる道じゃとおっしゃっていない。話を聞いて助かる道じゃとおっしゃるのは、そういうこと。それを「今月今日でしていけ」とおっしゃるのはそういうこと。せっかく、かけがえのない人間。自分でしか与えてもろうてない、素晴らしい神の魂。悟ることが出来る魂。考えることのできる頭。物を造ることが出来る手。人を愛することが出来る心。ウジュ、ウジュで一生終わらしてしまう、それが、一番ご無礼なの。そのために今月今日、話を聞かしてもろうていって、助からしてもろうていくことが大事かと思います。有り難うございました。

(平成十年九月三十日)